第五章  灰かぶり姫にハシバミの木の実を 3



 やがて日が西へ落ち、月がゆっくり昇ってきて、星たちがさんざめき歌う時間になっても、サンドリーヌはまだ走り続けていた。


 今日が何日目なのか、サンドリーヌにはもう分からなくなっていた。だから、そうすることしかできなかった。


 最悪の想像が何度も頭の中をよぎり、そのたびに浮かんでくる涙を必死に振り払っていた。


 ふと、短く速い自分の荒れた呼吸にまぎれるように、後ろからパカパカと軽やかな音が近づいてきているのに気がついた。



 「やあ、こんばんは。心優しい小麦の少女」



 夜の目にも映えるアッシュグレイの髪の美しい青年が、小さなオレンジ色の馬車を牽く白馬に乗って現れた。



 「ハァ、こんばんは。ハァ、ハア、お兄さんは誰ですか?」


 「そうだな、君に助けられたものと言っておこうか」


 「え?」



 片目をつぶった青年に、心当たりのないサンドリーヌは首をかしげた。だが青年はそれ以上を言わず、馬車を指で示した。



 「さあ、乗って! 君には急いで行かなければならない場所があるんだろう?」



 サンドリーヌの脳裏を、ベッドで眠る灰色に乾いたお姉さんの姿がよぎった。


 そう、彼女は病気のお姉さんに、妖精のハシバミの木の実を急いで届けなくてはならないのだ。



 「助けてくれたお礼に、私たちが君を鳥よりも速く、風よりも速く、君の望む場所まで連れて行ってあげよう」



 青年のその言葉は、正しく真実だった。


 木々も、町も、麦畑も、太陽と夜空すらも置き去りにして、馬車は長い長い道を駆け抜けた。



  たとえ幼さが懐かしくなっても


  憧れた冒険への扉はなくならない


  青い星座、白い花


  時計の町の吟遊詩人


  共に踊ろう、空を見上げよう


  たとえば天に遊ぶ雲に乗って


  どこまでも飛んでいく


  だって子どもはみんな、そうしたもの



 ちょうど二十四日目の鐘が鳴り始める頃、馬車はお姉さんの家に辿り着いた。


 ノックをする間すら惜しく、行儀悪かったが、サンドリーヌは土足のままお姉さんが寝ている部屋へ飛び込んだ。


 久しぶりに見たベッドの上のお姉さんは、骨に皮を貼りつけただけの痩せ細った姿に変わり果てていた。



 (お願いです、神様。どうかおねえちゃんを助けてください……!)



 心の中で何度もそう祈りながら、サンドリーヌは急いで摘んできた実をお姉さんに食べさせた。


 すると、みるみるうちに肌がもとの滑らかな白さを取り戻し、稲穂と同じ色の髪がつやつやと輝きだした。まぶたがかすかに震え、瑞々しい若葉の瞳が開く。



 「あれ……? 私は……?」



 どんな花よりも甘く、春の光よりも優しい、サンドリーヌの大好きなお姉さんの声だった。その声をもう一度聞ける日を、どれだけ待ち望んでいたことか。



 「お、おねえちゃん……っ!」


 安心、喜び、嬉しさ。たくさんの感情がサンドリーヌの心の奥から湧きあがってきて、まるでのどを塞いでるようだった。何か言いたいのに、それ以上の言葉がでない。



 「まあ、どうしたの、サンドリーヌ。こんな傷だらけになって……髪も切ってしまったの?」



 二度、三度とまばたきを繰り返した瞳が、ベッドの傍に立ち尽くすサンドリーヌへ向けられた。ゆっくりと伸びた手が、頬を撫で、髪をくすぐった。


 とても、温かい。



 「おねえちゃんっ‼」



 ついにこらえきれなくなって、サンドリーヌは涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、お姉さんの腕の中へ飛び込んだ。






 ドゴッ! ガシャン、ドンッ!



 「こらぁー! いつまで寝惚けてんの! さっさと起きてごはん食べなさい!」


 「……」



 ベッドからダイブした拍子におでこと手を打ったらしい。じーんっと地味かつ微妙な痛みがじわじわとやってきた。


 ジリリリリリリッとけたたましく、耳障りな音は昔から使っている目覚まし時計。


 今日は何月何日何曜日? 十月二十六日月曜日。



 「…………夢かぁー」



 そこまで思いめぐらせて、ようやく彼女は全ての状況を理解した。



 「さっさとしなさい! もう京子ちゃん来てるわよ!」



 母親に急かされながら、ごはんを食べて髪を整えて制服に着替えて、玄関のドアを開ける。



 「いつものことながら遅いなあ。今日は何してたのよ」


 「……おねえちゃん……」


 「はあ?」



 この世で一番アホなものを見たとでもいう顔で返事が返ってきた。


 京子がなんとなく夢の中の『おねえちゃん』に似ていたので、思わず口にしてしまったというだけだったのだが。



 「んー、いや、実は今日すごい夢を見てさー」


 「なに? それで寝坊したの?」


 「それでかは分かんないけど、目覚ましは十分以上鳴ってたと思う」


 「アンタの目覚ましってあれよね? 夏に窓開けてたら騒音公害レベルのすっごいうるさいやつ」


 「うん。お母さんが、これぐらいじゃないとアンタ起きないでしょって」


 「もはや慣れちゃって起きやしないじゃん。で、どんな夢だったの?」



 京子に夢の一部始終を語って聞かせると、最初はあまり興味がなさそうだったのが、だんだんその長さと完成度に感心してしまっていた。



 「……でね、おねえちゃんのおっきいおっぱいに飛び込むはずが、なぜか床にダイブしてておでこ打った。超痛い」


 「お約束か」


 「でも一個だけ気になるところがあってね」


 「なに? てか夢に気になるも何もないっしょ」


 「黒髪黒目で胴長短足、のっぺらりんな顔の黄色人種で名前は花子。まさに絵に描いたようなステレオタイプの私が、なんでサンドリーヌ?」


 「知らないわよ」


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