30.オトナの階段五秒前
下層街の人混みを縫った逃避行。気が付けば、壮亮とセトメの二人は、人気の無い路地裏に転がり込んでいて、息も切れ切れに、揃って壁を背にへたり込み、汗だくになりながら、酸欠の金魚のように天を仰いで息を吐いたり吸ったりする。
「ハァ、ハァ……撒いたか!なんなんだ、あいつら……!」
「ハァ……ハァ……悪党気取りの、つまらない連中です。下層街の小さな店から、みかじめ料と称して、お金を巻き上げたり、好き放題やってる不埒者ですよ」
汗だくになったセトメが、無造作に髪の毛を掻き上げ、服の襟元ボタンを外す。
暑そうにしているが、左半身が壮亮の右半身に密着していることは、気にも留めていないようだ。
しかしそれは、壮亮の方も一緒で、運動とは無縁の引きこもり生活が祟って、セトメ以上に乱れた呼吸を整えることで精一杯になっている。
「でも、セトメさん?これ、黙ったままだと、お店の人に怒られるんじゃ……」
クリスティーナ一味から逃れるためとはいえ、カワセミ亭の中を滅茶苦茶にしたことに加えて、結局はトラブルの根本的解決は何も出来ていないことに、疑問が残る壮亮。
無論、助けてもらった挙げ句、自分は何も出来ないくせに、偉そうなことではあるが、純粋にセトメの今後が心配になってしまい、つい隣の彼女に向けて、疑問を投げかける。
「あ、そうか……えっと……えっと……」
まだ呼吸の荒いセトメが『しまった』という顔をして、両手で髪の毛を掻き上げながら、頭を抱える。
通常は髪の毛で隠れている耳や横顔全体という表情が露わになり、その非日常感にドキッとしてしまう壮亮。
さらに幸か不幸か、ここで、息が荒く身体の火照ったセトメと密着状態なせいで、自身の身体の右側面が特に熱く火照っていることに気が付いてしまう。こうなると当然、自分の身体のあちこちで、さらなる火照りを感じざるを得ない。
「……でさ。これから、どうする。ほとぼり冷めた頃を見計らって、店長とかに謝りに行く?」
平静を装い、できるだけ乱れた呼吸を整えてから、セトメに尋ねる壮亮。
ついでに、『俺も一緒に謝ろうか?』みたいな雰囲気を醸し出す男前アピールを忘れない。
しかし、頭を抱えて真剣に考え込んでいたはずのセトメは、壮亮渾身のキメ顔をよそに、ニヤニヤと、例の行儀の悪い少年のような笑みを浮かべながら、壮亮を見つめてくる。そして、目が合ったのを確認すると、そっと、自身の鼻先に人差し指を立ててみせる。
「しーっ……♪」
控えめにいって、嫁入り前の女子が人前でしてはいけないくらいの助平面をしてみせるセトメ。小さく首を横に振り、ちょっぴり困った雰囲気を残してはいるものの、おおよそふざけているとしか思えない仕草と表情で、『全部内緒にしてしまおう』と、壮亮に、ろくでもない無言の提案を持ちかける。
こんなタイプだとは思わなかったと面食らう壮亮。
文字通り、目の前の彼女、なかなかの悪党である。
そして悪党が、ずるい顔のまま、壮亮の右肩に、掻き乱れたふわふわの栗毛で、もたれかかってくる。壮亮の耳元で、ろくでもない内緒話をするために。
「お店には、泥棒が入りました。たまたま泥棒を見つけた私が、色んな物を投げて撃退しました。一緒に、逃げて行く泥棒を追いかけてくれた親切な通行人が、サクマさんです」
「……ねっ?」
……
好きだ。
もはや、語彙力と正常な思考力を失った壮亮が、正面の薄汚れた石壁を見据えたまま、黙って頷く。小首を傾げ、期待の視線を浴びせてくるセトメの顔を直視しながら返事など出来るはずも無いのだ。差し詰め、惚れた弱みのなんとやら、である。
壮亮が、食い気味にうなづくのを確認したセトメは、心底安心したように大きく息をつき、安堵の脱力感ゆえに、さらに強く、壮亮にもたれかかってくる。
二人が出会ってから、最も気を抜いた表情をしている今のセトメには、おそらく、邪な気持ちなど微塵も無いのだろう。
少し前、不可抗力で密着してしまったときと、同じ女の子の匂いが、壮亮の脳天をバチバチと刺激し続ける。
これはもう実質、不純異性交遊といっても過言ではないのでは???
「あの、さ?セトメ……」
「ん……?」
身体のあちこちで火照りを感じる壮亮が、控えめに、隣のセトメの名前を口にする。何か具体的に伝えたいことがあるわけではなかったのだが、ある種の愛しさのような感覚に苛まれ、ついその名を呼び捨ててしまう。
対するセトメはといえば、壮亮のように、身体に劣情まみれの火照りは無いものの、未だ軽く肩で息をしており、もたれかけた自身の身体をぎこちなく受け容れてくれている壮亮の呼び捨てに対し、少しも嫌がるそぶりも見せず、優しげな視線を向ける。
そうすると、またもや、二人の目と目が合う。
……
ここでやっと、違和感に満ちた時間の流れがピタリと止まる。そして、正常に動き出す。
先ほどまでは、何にも気付かず、何を気にするわけでも無かったセトメの純粋無垢な表情が、みるみる羞恥と驚愕の色に包まれ、壮亮以上に真っ赤っかに染まっていく。流石にそろそろ、事態の異常さに気付かざるを得なかったように見える。
あまりの緊張に、ゴクリと生唾を飲み込む壮亮。間違いなく、セトメにもその感覚が伝わっただろう。
「そこかァ!!ガキどもぉお!!」
間髪入れず、品の無い女の声が路地に響き渡る。破れてしまった紅いドレスを身に纏い、揚げ物になる前の鶏肉のように、白い粉も身に纏った例のヤクザな女だ。
「あなたもしつこいですね!本当に、これ以上出せるお金はありませんよ!?」
セトメが素早く立ち上がり、壮亮をかばうようにして、粉まみれのクリスティーナに対峙する。
セトメの背後に立つ壮亮からは、現在の彼女の表情を覗うことはできないが、なんとも不自然に声が裏返っていたことについては、クリスティーナに追いつかれて動揺しているが故ではなさそうだ。
「言ったでしょう!下層街の掟に従わない者は、強引にでも従わせる!カネを出さないなら、無理矢理にでも尻の毛まで毟り取るまでよッ!」
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