29.典型的逃走劇

「ごきげんよう」


 妖艶で、高飛車な女性の声。

 扉の開く音にビクリとした壮亮が振り返ると、そこには、真っ赤なドレスを身に纏い、そして、ドレスの赤に負けないくらいに真っ赤な口紅を塗ったモデル体型の美女が、自信たっぷりといった様子で佇んでいた。

 

「夜遅くまでご苦労なことね、私のかわいいシェフさん……」


 化粧の濃い美女が、モコモコ付きの扇で、優雅に自分の面を扇ぐ。そして、扇に隠れていない目元から、不敵な笑みに満ちた邪悪な視線をセトメに浴びせる。


「クリスティーナ……。店ならもう閉めました。こちらは私の個人的なお客様で、もうお帰りになるところです。どうか貴女もお引き取りを……」


 不信感に満ちた眼差しで、店の入り口に仁王立ちする女を睨み付けるセトメ。

 どうやら、二人は知り合いのようで、その関係は芳しくないらしい。


「ハァ。冷たいのねぇ、セトメったら。今日も蒸し暑いのだし、ビジネスに疲れた私に、冷たいお冷やの一杯くらい出してくれても、良いのではなくって?」

 

「生憎、飲用水は切らしていまして。どこかの誰かさんが、必要以上に暴利をむさぼるせいで、余分な水の仕入れすら、ままなりませんので」


「あーらぁ、それは困ったわねぇ。かわいそうな私のセトメ……。誰かしら、こんなに健気で働き者の少女を苦しめるのは……」


「誰が……あなたの……」


 もはや、一触即発といった雰囲気の2人に挟まれてしまい、2人の顔色を代わる代わる伺いながら、どうして良いかわからずに戸惑う壮亮。

 とりあえず、困った顔をしながら、小皿のピクルスだけは平らげる。


「とにかく、お金ならありませんよ。少なくとも、あなたの言う――みかじめ料は、すでに十分支払っているはずです」


「あら、そうかしら?でも、まだ今月の支払い分だけだと、カササギ亭の安全は保障できないのだけれど……」


「カワセミ亭です。話が違います。三万イェンで一ヶ月分という約束のはずです」


「八万イェン。一ヶ月、八万イェンよ。今月からね。だから、現時点で五万イェン足りてないわ。延滞金は、二万イェンで許してあげる」


 セトメが、さらに表情を険しくする。

 静かな怒りに満ちたその気迫に、壮亮は、ゴクリと生唾を飲み込む。その殺気たるや、先ほどまで朗らかな表情で、見ず知らずのニートにサンドイッチを振る舞ってくれた少女と同じ人物とは思えないほどである。

 対して、あのクリスティーナとかいう突然現れたかと思えば、ヤクザみたいなことを口走っている嫌な感じの女は、余裕の表情で胸を張っているのが、憎たらしい。


「近頃は何かと物騒な噂も多いしねぇ、私たちも、やるべきことは山ほどあるものだから、どうしてもお金がかかっちゃうじゃない?」


「そんな無茶、通用すると思っているんですか?」


「ふふふ。するわ。しないなら、させる――までよ」


 クリスティーナが“パチン”と、指を鳴らす。


 すると、彼女の両脇から、片眼の潰れたボーダーシャツの屈強な男と、のっぽでぎょろ目の不気味な男が姿を現し、いやらしい笑みを浮かべながら、首や両手を“パキパキ”と鳴らし始める。

 まるで絵に描いたようなチンピラ三人衆だなと、壮亮は思うのであった。


 ……って、これ、わりとヤバい状況じゃね?なんだか、とんでもないもめごとに巻き込まれてしまったようなんですが??


「アネキ。どうやら、払う気はないらしい。実力行使しよう」


「キヘヘ……悪く思うなよ、ガキどもぉ……金目のもんは、全部頂くでなぁ」


 屈強な男が両手を、不気味な男が全身を“パキポキ”と鳴らしながら、カウンターキッチンの方へ近付いてくる。二人を従えるクリスティーナが、さらに胸を張り、口元に手を当てて高笑いする。


「オーッホッホッホ!下層街の掟に従わない者の末路よ!せいぜい後悔なさい!」


「セ、セトメたん……?あの、これは、一体、なんです……!?」


 セトメの呼び方をしくじったことにすら気付かぬほど動揺した壮亮が、慌てて椅子から立ち上がる。にじり寄る危険な男二人がいつ飛びかかってきても、できればサイドステップで避けてやろうと、自信なさげに身構える。


「しゃがんで!!」


 突然、セトメが怒鳴る。

 予定とは違う方向ではあったものの、咄嗟に、言われた通り、その場で身を低くする壮亮。

 すると、頭の上スレスレを、何かが“ヒュッ”と、掠めて飛んでいく。


「わぶっ!!?ゲホッ!ゲホッ!?」


 壮亮の頭の上を飛んでいったのは、小麦粉か何かの袋のようだ。

 それは、白い粉まみれになりながら“ドンガラガシャン”と、店内の椅子やテーブルと戯れているクリスティーナの姿が物語っている。

 どうやら、セトメは容赦なく顔面を狙って投げたようで、主に化粧で白っぽかったクリスティーナの顔面が、今や顔のパーツの判別がつかないほど、真っ白に染まっている。


「ア、アネキィ~!」


 クリスティーナの手下であろう男二人が、主人の心配をして、「ハッ」と両手で口元を覆う。

 二人とも見かけにはよらず、可愛らしい仕草をするものだ。


「いいから!!ゴホォ!?とっ捕まえて――ゲヘッ!?セトメも、客の男もとっ捕まえるのヨ゛ぉ!!!」


 咳混じりに、濁った金切り声を上げるクリスティーナ。

 その命令に、さらに「ハッ」とした二人の手下がセトメと壮亮に視線を向けたものの、時すでに遅し。

 屈強な方の男の顔面には、セトメが両手で握ったフライパンのフルスイング。

 不気味な方の男の顔面には、壮亮がセトメから手渡された激辛香辛料のシャワー。


 店内が、様々な阿鼻叫喚に包まれる。


「今のうちに!はやく!!」


「ファッ!?お、おうよ!」


 セトメが、壮亮の手をギュッと握り、店の外に向けて走り出す。

 おそらく、カワセミ亭を出る前、人の身体のどこかしらを二、三回踏みつけてしまったような気がするが、そんなことを気に留める余裕もなく、セトメと共に、夢中で下層街の人混みを駆け抜ける壮亮。


 道行く酔っ払いたちのうち、酔いの浅い人々が、訝しげに「なんだなんだ」と、駆け抜けていった二人の方を振り返ったり、すれ違い様にぶつかられたことに腹を立て「気を付けろ!」と大声を上げたりしている。


「セトメたん!!セ、セトメ……!まって……ムリ……!このスピード、ホワイトカラーのニートには、ムリだから……っ!」

 

 俊足のセトメに引っ張られ、前のめりで必死に駆けるニート。

 長年の運動不足が祟って、死にそうな動悸のあまり、うっかり、異世界の住人であるセトメには通じない単語で自己紹介をしてしまう。

 しかし、鈍足な壮亮の手を引き、息を切らすセトメも、そんな泣き言に耳を貸すほど、余裕は無い。


「何です!?いいから早く!頑張って!!」


 そうやってさぁ!みんな『頑張れ、頑張れ』って、言うけど、無理なものはムリなんですよ!!!

 

 壮亮は、元いた世界で幾度となく繰り返した言い訳を、ここでも腹の内で繰り返すのであった。

 

 仕様が無いじゃない。


 だって、ニートだもの。

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