第19話 浦島太郎の漁師飯

「どうしたのっ⁈」

 りんごおじさんに代わってましろが急いで駆けつけると、なんと、乙葉さんの足元に水たまりができていた。


「あぁっ! ど、どうしよう! ごめんなさい!」

「謝ってる場合じゃないわ!」 


 すでに恩田さんが乙葉のそばに来ていた。そしてピリッとした声で叫ぶと、おろおろする乙葉さんをなだめた。


「落ち着いて。大丈夫よ。陣痛は? おなかは痛くない?」

「ま、まだ来てません」

「じゃあ、先に破水したのね。母子手帳と保険証は持ってる⁈ かかりつけの病院はどこ⁈」


 質問を飛ばす恩田さんを見ても、ましろは何が起きているか分からず、乙葉さんよりもおろおろしていた。


「ハスイって何⁈ 赤ちゃん、産まれるの⁈」

「陣痛がまだだから、すぐに出産にはならないはず……。でも、破水するとおなかの羊水が出てしまってる状態だから、病院に行かなきゃいけないわ」

「わたし、何したらいい⁈」

「タオルを持って来て! それから、店長にはタクシーを呼ぶように言って!」


 恩田さんに指示されて、ましろは「はい!」と弾かれたように動き出した。


 正直に言うと、恩田さんの説明は、知らない言葉が多くて、よく分からなかった。けれど、乙葉さんと赤ちゃんにとって、とても大事な時がやって来たことは理解できた。


 震えながら病院に電話をする乙葉さん。そして、乙葉さんを励ます恩田さんを見て、ましろは胸がぎゅうっとなった。

 


「タクシーが来ました!」


 お店の外のりんごおじさんに呼ばれて、スカートの上からタオルを巻いた乙葉さんは、よろよろとタクシーに向かっていく。


「私、ご主人が来るまで付き添うわ」

「恩田さん、ありがとうございます。あの……、ましろちゃんも……」


 恩田さんに支えられていた乙葉さんは、くるりと後ろを振り返って、ましろの手を取った。 


「ましろちゃん、来て」

「わたし……、行ってもいいの?」


 ましろは、不安そうな乙葉さんの手をキュッと握り返した。


 何も分からない自分では邪魔になってしまうのではないかと思っていたのに、乙葉さんにそう言われて、ましろはびっくりしてしまった。そして同時に、胸の温度が跳ね上がる。


「りんごおじさん! わたし、乙葉さんについて行く!」

「分かりました。ましろさんなら、迷惑をかけるようなことはないと思いますが……」

「私もいるから大丈夫よ。店長、また連絡するわね」 



 恩田さんの後押しもあって、ましろは乙葉さんたちとタクシーで病院に向かった。そして、本格的におなかに痛みが来るまでは、病棟の個室で待機することになった。


 けれど、ましろは、どんな言葉を乙葉さんにかけるべきか思いつかない。


「主人、間に合わないかも。立ち合いを希望してたのに、今日、出張で地方に行ってて……」


 乙葉さんは、そわそわとスマートフォンに視線を落としていたけれど、スマートフォンが光る様子はない。


「電話では、来るって言ってたんでしょ? なら、死にもの狂いで来るわよ」

「そう、ですよね。すぐ来てくれますよね」


 恩田さんは、病衣に着替えた乙葉さんの背中をさすりながら、時計をチラッと見ていた。時刻は夕方の五時。病院に来てからすでに三時間が経っていて、乙葉さんは定期的に訪れるお腹の痛みに耐えていた。


「乙葉さん。何か食べれそうなものある? 出産は体力勝負だから、エネルギー入れといた方がいいわよ」

「うっ、【浦島太郎の漁師飯】ください……。あたし、食べかけだったんです」


 乙葉さんは、苦しそうに顔をしかめているけれど、一生懸命に笑顔を作っていた。そして、その笑顔をましろに向けてくれた。 


「カツオのガーリックバターしょうゆステーキなんて、反則だよね。思い出しただけで、お腹が空いちゃう。赤ちゃんも、早く出たいーってなるくらい、美味しいんだよ」

「そうだよね。たまんないよね。だから、乙葉さん……。元気な赤ちゃんを連れて、また食べに来てよ」


 ましろは、ようやく言葉を絞り出すことができた。


 本当は、しんどそうな乙葉さんを見ていることもつらかった。けれど、いつ終わるのか分からない痛みに耐えている乙葉さんに、少しでも元気になってほしかった。


「ありがとう。絶対に食べに行くから」


 乙葉さんが、力をこめてましろの手を握るので、ましろもそれに応えるようにして、手を握り直した。


「がんばれ! 乙葉さん!」




***

 夜の十時十五分、分娩室の前にいたましろは、赤ちゃんの産ぶ声を聞いた。


 弱々しいけれど、一生懸命に泣いている赤ちゃんの声は、ましろの胸を熱くするには十分過ぎた。


「乙葉さんの赤ちゃんだよね⁈ 産まれたんだよね⁈」

「そうよ! 産まれたのよ!」


 ましろと恩田さんは、二人で手を取り合って喜んだ。

 きっと分娩室の中では、乙葉さんと乙葉さんの旦那さんも、とても喜んでいるに違いない。その姿を想像すると、いっそう嬉しくなる。


「ましろちゃん、覚えておいて。お母さんって生き物は、赤ちゃんのためなら何だってできるの。それこそ、出産は命がけ。だから赤ちゃんが産まれるってことは、それだけでとてもとても尊いの」


 恩田さんは、ましろの肩を抱きしめながら言った。


 トウトイ。この気持ちが、そうなの?


「すごいね。お母さんって、すごいね」


 わたしのお母さんも、そうだったのかな。

 

 もう、お母さんに聞くことはできないけれど、きっとお母さんも、ましろを命がけで産んでくれた。ましろに会うために、痛くても、苦しくても、最後まで戦ってくれた──。


 そうだよね、お母さん。


 あたたかい感情が、ましろの心に広がっていた。


「この瞬間の感動を思い出して、痛みは忘れちゃうのよ。だから私は、五人産んだわ」


 恩田さんは、懐かしそうに笑っていた。


 さすが恩田プロだ。





 ***

 それから二ヶ月後──。

 乙葉さんは、《りんごの木》にやって来た。


「こんにちはー! お久しぶりです!」


 スッキリとスリムになった乙葉さんは、軽やかな足取りでベビーカーを押していた。そして、ベビーカーの中には、小さな赤ちゃんがいた。


「乙葉さーーーんっ! 赤ちゃんと来てくれたんだね! 待ってたよーーーっ!」


 ましろは、いらっしゃいませを言うのも忘れて、乙葉さんに抱きついた。


「乙葉さん、くびれてる!」

「そりゃあね! これが真の姿よ」


 乙葉さんはクスクスと可笑しそうに笑うと、お店の奥にいたりんごおじさんと恩田さんにも笑顔を向けた。


 なんて晴々とした笑顔だろう。


「みなさんのおかげで、無事にママになれました! 娘も元気です!」

「よかったです。安心しました」

「すっかり母親の顔じゃないの」


 りんごおじさんと恩田さんも、すぐに乙葉さんのところに駆けつけて来た。もちろん、赤ちゃんにもメロメロで、「抱っこさせて」と、取り合う勢いだ。


「そういえば、なんだか子連れのお客さんが多いですね」


 ふと、乙葉さんが店内を見渡して言った。それは、二ヶ月前の《りんごの木》との違いで、乙葉さんの出産をきっかけに起こった改革だった。


「それね、みんなで一生懸命考えたんだよ!」


 ましろは、待ってましたと言わんばかりに胸を張った。


「ベビーカーが入りやすいように、通路を広げて、トイレもリフォームして、おむつ交換台が付いたんだよ! それに二階のお部屋もキレイにして、授乳室にしたんだ!」

「離乳食の持ちこみもオッケーですし、食器も貸し出しますよ」

「絵本も置くようにしたのよね」


 ましろは、りんごおじさんと恩田さんの説明も加えて、《りんごの木》の変化を発表した。


 しばらくお店を休みして準備をしたかいもあって、《りんごの木》の客層は、赤ちゃん連れのお母さんたちにまで広がったのだ。


「うれしい……! ましろちゃん、ほんとに考えてくれたんだ」


 乙葉さんは、二ヶ月前のことを覚えていてくれたようで、目をうるうるさせていた。そして、「ありがとう」と満面の笑みを見せてくれた。


「ねぇ、乙葉さん! 赤ちゃんの名前はなぁに?」


 ましろは、赤ちゃんを抱っこさせてもらいながらたずねた。


 赤ちゃんは力を入れたら壊れてしまいそうなくらい小さくて、やわらかい。そして、なんだかいい匂いがした。


「この子は、まゆりっていうの。百合の花みたいに純真な子になってほしい──。でも、ひらがなにしたのは、ましろちゃんの真似っこ。ましろちゃんに負けないくらい、優しくてまっすぐに育ってほしいから」


 まゆりちゃん。


 ましろは、心の中で何度も繰り返した。


 うれしくて、照れくさくてたまらない。


「さて! 店長さん、【浦島太郎の漁師飯】、よろしくお願いしますね!」


 席に着く乙葉さんの横で、ましろはそぅっと、まゆりちゃんに頬ずりをした。



 幸せいっぱいに育ってね。まゆりちゃん。

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