EP10「箱庭を汚す犬ども」

 オンディーヌ・ガーデン本部では火災が広がり、あちこちで悲鳴が聞こえている。子供たちは絶望の中で、天使の歌声を聞いていた。それは死の歌だ。あまねく命を絶望へとくべる死の歌声に送られて孤児院が炎に包まれて燃えていく。


「これは……そんな。一体、何が起こったというの……?」


 ガーデン本部へと急行したシャルロットとセルゲイだったが、東館に向かったセルゲイとの通信が途絶えてしまい、シャルロットは火の海を一人進んでいた。


「あれは……ヨハン! ヨハン!!」


 倒れているヨハンの姿にシャルロットは慌てて駆け寄った。


「うぅ……姉さん……僕は……」


 弟の意識があることを確認して胸をなでおろすシャルロット。


「ヨハン、良かった……無事だったのね」


「姉さん、気をつけて……女の子がいたんだ。その子は……僕と同じタイプのアストラを持つアストロローグだった。幻覚を見せる能力、恐ろしかったよ……幻覚を見た人達が、自ら火の中に飛び込んだり、窓から飛び出して庭に落ちていった……」


「ヨハン、喋らなくていいわ。それより、早くここから逃げなくては」


 シャルロットはヨハンの体を起こそうとして、ヨハンが首を振った。


「僕より兄さんのところへ行って……この先でその女の子と戦っているはず。それに、もう一人いたんだ……敵が、もう一人……兄さんが危ない」


「敵が二人……この先にいるのね」


「ええ、そうです……敵が二人、この先に……」


 シャルロットはヨハンが指差す方向を見た。東館の上階、ゾディアックに関する重要書類が安置されている保管室がある。


「分かった。あなたはここにいて、すぐ迎えにくるわ」


「ええ、そうです……」


 シャルロットが去っていく中でヨハンはまだ呟き続けていた。


「「敵が二人、この先に……」」


 いや、声は重なり分裂している。乖離した声が熱に浮かされたように笑い、声が弾けて、幻覚によって生み出されたヨハンだった何かが溶けて消えていく。


「ふふふふっ」


 地獄へとやってきたシャルロットを死の天使が笑っている。


 東館の上階。火の勢いは強く、廊下に飾っていた子供達の絵が焼け落ちる。壁を伝って天井にまで火が回っていた。


 シャルロットがそこへ辿り着いた時、うずくまり、苦しんでいるセルゲイがいた。


「うわあああああっ……くうううっ……頼む……治れ……! ぐああああっ!」


「セルゲイ!」


「うぅ……シャルロット来るな、君は……逃げろ……!」


「何を言ってるの、助けに来たわ」


 攻撃されてどこかを負傷したのか、セルゲイの様子がおかしい。辺りを警戒しながらシャルロットは彼へと近づく。


「ダメだ!! シャルロット……俺に近づくんじゃあない!!」


「セルゲイ、どうしたのよ」


「やめろ……来るな……やめるんだ……《スコーピオ》!!」


 影が現れる。赤黒い人形のような姿のアストラ、蠍座の《スコーピオ》である。スコーピオの長い尾が鞭のようにしなり、シャルロットへ襲いかかる。


「っ!? 《キャンサー》!」


 一瞬のことだった。キャンサーの発生させた結界が、スコーピオの攻撃を弾く。だが防御していなければあのまま薙ぎ倒されていた。


「くっ、危なかった……セルゲイ、何故、私に攻撃を…」


「俺の意思じゃない……男だ……男がいた。そいつに妙な薬を打ち込まれてから……体がおかしい」


 流れる汗は周りの火のせいだけではないだろう、セルゲイは自分の制御を外れ、暴れ出しそうなアストラを抑え込もうと必死になっていた。


「はあ……熱い……アストラが……《スコーピオ》が制御できない!」


「そんな……」


「アストラ化抑制剤(エクリプス)を打ったが、まだ効果が現れない……治ってきてはいるが……できるだけ俺から距離を取れ……《スコーピオ》の射程範囲に入るんじゃあない」


「でも……!」


 この場にセルゲイを残した所で敵の追撃を受けることは明白で。いや、そもそも敵は一体何が目的でこんな真似を……。


「クハハハハハハハハハハハハハハハハっ……! 滑稽……実に滑稽だなァ……!」


「!? 誰? どこにいるの!?」


 シャルロットの詰問にゲラゲラと下品な笑い声が返される。


「クハハッ、俺たちはここにいる。いや、ずっとここにいたぜ……!」


「あたしたちはずっといる。いえ、ずっとここにいたわ」


 麻のシャツを着たメキシコ系の男が姿を現す。男は紙巻きに火をつけてあろうことか一服をし始めた。まるで面白い余興を楽しんでいるかのように、うっとりとした目つきでシャルロットたちを眺めている。


 セルゲイは叫ぶ。


「シャルロット、気をつけろ。その男だ、俺に妙な薬を打ったのは……!」


「クハハッ、セルゲイ・アバァァルキ~ン。ん~~噂じゃあ、おたくの能力が一番やばいって話だったんがなァ……なんてことはねえ。エンジェル・ダストのアストラ《フォーマルハウト》が作り出す幻覚の中に紛れて、ルナティックを打ち込んでやればよォ……あっという間に暴走して、味方を攻撃し始めるんだもんなァ」


「……あなたたち、セルゲイに何を打ったの?」


「なんだ。あんたも打って欲しいのかい。こいつは相当ハイになれるぜえ〜。いや〜あんたにも見せてやりたかったなあ〜。めちゃくちゃ面白い絵面だったからなあ。幻覚に苦しむ子供達の体をその男が次々と《スコーピオ》で貫く姿はよォ。なあ、面白かったよなあ、エンジェル・ダスト」


 エンジェル・ダスト。そう呼ばれたのはロリータ服を着させられた少女だった。色素の薄いブロンドをとかしながら酷く黒ずんだ目のクマが浮かぶ顔で微笑む。


「ええ、面白かったわ、バッド・トリップ。あたし、とても面白かった」


「ちゃんとビデオ回してたかよ、えぇ? アシッドのやつに言われてんだからよ。一部始終録画しなくちゃよぉ」


「ええ、ちゃんと回していたわ。あたし、言われた通りに、ちゃんとビデオを回したわ」


 バッド・トリップとエンジェル・ダストはビデオカメラの映像を楽しげに再生している。その姿にセルゲイは歯を食いしばった。


「くっ、貴様ら……よくも……!」


 しかし、体は自由に動かない。その代わりにシャルロットがアストラ《キャンサー》を発動させて空間ごと敵を切断しにかかる。


「あなた達……地獄に落ちる覚悟はいいかしら? 《キャンサ……」


「おおっと、まった、まった。俺に攻撃すんのかァ? ここに転がってる可愛い弟くんがどうなっても良いのかねぇ?」


 バッド・トリップの後ろには何故かヨハンが倒れていた。手足を拘束されており、さんざんに痛めつけられたのか、血と痣が痛々しい。


「う……うぅ……」


 キャンサーが振りかざしていた右手を止める。バッド・トリップはこちらへ見せつけるように倒れているヨハンにナイフを突きつけていた。


「ヨハン……そんな、いつの間に……次から次へと卑怯よ!」


「卑怯が俺らの専売特許なんでなあ。こいつを殺されたくなかったら、おたくらが持ってるゾディアック・レコードを全部俺たちに渡してくれよ」


「ゾディアック・レコードを……」


「すでに魚座のレコードは手に入れた……残りもさっさと渡してくれると嬉しいねえ。ここにもじき火が回る、俺らも逃げなくちゃあいけないんで、早くしてくれると助かるぜ」


 焼け落ちた子供達の絵の中に紙巻きを投げ捨てて、バッド・トリップが言う。その所業を目にした時、シャルロットの中で何かがかちりと動いた。


「そうはさせないわ」


 今まで止めていた殺意の波動がいとも容易く行われた悪逆に反応し、躊躇うことなくキャンサーの右手が空間を切断した。


「《キャンサー》!!」


 キャンサーの空間切断がバッド・トリップの足元をぶち抜き、フロアが崩れ落ちていく。


「げっ、こいつ俺の足元を……ぬわあああっ!! 落ちるううううっ!!」


「そのまま炎に焼かれるが良いわ!!」


「なぁぁぁあにぃぃぃぃいっ……うぎゃあああああっ!! アチィ! 俺の体が、燃えてるううううっ!! エンジェル・ダスト、俺を助けろおおおおおっ!」


 断末魔の叫びが上がる中でアストラの発動を抑えたセルゲイが立ち上がる。


「シャルロット、ヨハンはっ!」


「大丈夫、ヨハンは《キャンサー》の結界の中よ! 下には落ちていないわ」


「ん、さっきの女の子が見当たらない。魚座のレコードも……くそっ、逃げられたのか」


「まずい、建物にだいぶ火が回ってる……セルゲイ、体の具合は……?」


 その問いにセルゲイは厳しい顔つきをした。


「抑制剤がようやく効き始めたが、依然、危険なことに変わりはない。君は先にヨハンを連れて行け」


「そんな……一緒に行きましょう。大丈夫、私の《キャンサー》ならあなたの攻撃を受け止められるわ」


「シャルロット……分かった。だが、十分に距離だけ取ってくれ。また、いつ暴れだすか分からないからな」


 シャルロットとセルゲイはヨハンを連れて出口へと急いだ。


 だが、彼らの心は進むたびに傷ついていった。炎に包まれたフロアには、見知った顔の職員や逃げ遅れた子供達が倒れていたのである。途中、助けを求めるうめき声も聞こえたが、息のある者を全て背負っていく事は叶わない。少しでも歩みを止めれば、自分たちも逃げ遅れる可能性がある。それを合理的に考えてしまう自分達の思考が今ばかりは呪わしくて仕方がなかった。


 みんなの苦しんでいる悲鳴が聞こえる。


「先生、助けて」

「暑いよ、苦しいよ…」


助けを求めるうめき声がそこら中から響いてくる。地獄だ。ここは紛れもなく炎獄の檻である。


 シャルロットは心の中で謝り続ける。


 ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。こんなの私にどうしろっていうのよ……私ではみんなを助けてあげられない……今、背負っている命だって助けられるかどうか分からないのに。マスター、私にもっと力があれば、みなを救うことができるのですか……マスター、どうか私をお導きください。


 炎の中でシャルロットはただ、祈ることしかできなかった。祈ることで、心の中のマスター・サナンダが勇気をくれた。煙の中で意識が薄れそうになっても、マスターが歩むべき道へと導いてくれるような気がしたのだ。


 マスターの加護があったからか、ユニオン・マスターとして強い資質のおかげか。シャルロットとセルゲイはこの地獄から無事に生還を果たした。


 しかし。しかし、だ。


 彼らは後にこの日の惨状を呪いとして心に刻むこととなる。


【オンディーヌ・ガーデン襲撃事件】

 全在籍職員・利用児童数:396名。

 負傷者:206名 うち重体者:120名。

 死者:190名。


 オンディーヌ・ガーデン本部で生活していた半数近くの命が失われてしまったこの悼むべき事件はゾディアックに対する宣戦布告としてはあまりに凄惨すぎる凶事であった。


 …………燃え盛るガーデンの様子を遠くから見ている者がいた。黒き蛇・アルファルドである。サナンダへの復讐を誓った蛇は、絶望に染まった孤児院を前に、満足そうに微笑んだ。


「ふふっ、イルミナーレのやつら、双子座と魚座のレコードを手に入れたか……牡羊座の方も時間の問題だな。さあ、物語は始まった。これは永遠を与えられたヤツらの、永い永い戦いの記録。マスター・サナンダ、アンタの弟子たちはこの先、一体どんな物語を奏でてくれるんだろうな? まったくもって楽しみだぜ。さて、序曲はこれくらいにして、次に行くとしよう」


 夜空に浮かぶ星々に手を広げて、黒き蛇は呟く。決して届くことのない輝きを追いかけて復讐のレクイエムは奏でられ始めたのだ。

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