其の四
†4†
その初日となる、木曜日の午後のことだ。
千佳たち一年生は上級生がコートを使っている間、グラウンドをランニングしていた。
夏の
一年生たちは不満をもらしながらも、しかしランニングをサボったりはしなかった。引退間際の三年生が一人、顧問に代わって監督についているものの、それほど厳しいわけではなく、一年生と一緒に走りながら時計で休憩のタイミングを図る程度だ。だから、不満だけは言い放題だった。
五分ほど走った後、三年生の指示で休憩になった千佳たちはグラウンドすみの桜並木の影に駆け込んだ。桜の下は青々と茂った葉のおかげで日差しが遮られ、暑さもかなりましになっている。
千佳がタオルで汗を拭きながらスポーツドリンクを飲んでいると、監督していた三年生の
「皆さん、水分補充は忘れないでくださいましね」
一年生に付き合って同じだけの練習をしたはずなのに、帰蝶は平然として、息一つ乱れていない。真っ白なタオルで軽く汗を拭き、スポーツドリンクを口に運ぶ。その動作さえ優雅で、上品だ。
「それにしても、今年は暑うございますね。……ねぇ、
「うぇっ!? あ、はい! そうですね!」
急に指定された千佳は
「どうされました? 具合が悪いのでしたら一足先にお部屋で休んでもよろしいのですよ?」
「あ、いえ、大丈夫です。そういうんじゃなくて、その、ちょっと驚いちゃって……」
「あら、そうですか。元気でしたら何よりです」
帰蝶はおっとり笑うと、一年生たちの様子を見回した。
「それでは、わたくしは次の準備をしてまいります。海北さんと、
千佳は渋々立ち上がり、遠藤
帰蝶はグラウンドを横断して用具倉庫の前へ行くと、扉を開けて一人練習用のボールを取り出してきた。軟式のボールと重りがゴムひもで繋がったもので、ボールを強く打っても重りがあるので遠くまでは飛ばないようになっている。
「先輩、これをみんなのところまで運べばいいんですか?」
「ええ。グラウンドに等間隔で並べてくださいまし」
帰蝶に言われて、千佳と京はボールを運びはじめる。一応、ゴムひもが重りにぐるぐる巻きにしてあるので引きずることはないが、なかなかの重さがある。
「暑……元気だよね、先輩」
「うん。ま、三年生だし、慣れてるんだよ、きっと」
そんな話をしながらグラウンドを歩いていると、ふ、と京が足を止めた。
「ん、どうしたの?」
「……なに、あれ?」
京は千佳の後ろ、グラウンドの東側をじ、と見ていた。
千佳も振り向くが、何も変わったものは見えない。
一五〇メートルも向こうのグランド外れには野球のベースがあって、緑色の境界フェンスの向こうは高さ五メートルほどの崖になっている。その上はひたすら、山林だ。
「いま、林の中に何かいた気がしたんだけど、なんだろう?」
「猪とか?」
「違うよ。なんか、緑色だった気がする」
「緑……?」
千佳は目を凝らしたが、それらしいものは見えない。
「本当に見たの? 見間違いじゃない?」
「あはは、かもね」
京が八重歯を見せて笑った、その時だった。
――
声が聞こえた。
小さいが、確かに人の声だ、と認識できる。そういう声だ。
「今、何か言った?」
「ううん、言わないよ」
二人は顔を合わせた。
――
また、声がした。
今度ははっきりと分かる。
少し高いが、男の声だろう。
「じょ、冗談はやめてよ」
「あ、あたしじゃないって」
「じゃあ他に誰が……」
――
三度、声がする。
さっきまでより、明らかに近い場所で。
二人がもう一度山林の方に目をやると、そこに、そいつが立っていた。
全身が
頭部はなく、その代わりなのか胸に巨大な一つ目がついている。両腕はだらりと下に垂れているが、その長さは膝下にまで届きそうなほどだ。周囲の杉の木から推定して、大きさは二、三メートルほどだろう。
そいつは半開きの目をきょろきょろさせながら林の中に立っている。
「なに、あいつ……?」
千佳は思わず身構えた。
――辿。
また、声がする。
あの怪物が出所だ、と千佳は直感した。
――叢。
怪物は突然、目を大きく見開いた。
――滅!
見つかった! そう直感して、千佳は数歩後ずさった。
怪物はその巨体からは想像できないような高速で山林を抜け、崖を飛び降りてグラウンドに飛び込んでくる。
一つ目に見入られたかのように、体が竦んで動けない二人。
怪物はもう数十メートル先まで迫っている。
「…………っ!!」
千佳は目を閉じて顔を覆った。
だが、衝撃はなかった。
おそるおそる目を開けると、そこに怪物はいなかった。隣では、京がその場にへたり込んでいた。
「二人とも、大丈夫でしたか?」
用具倉庫の方から帰蝶が駆けてくる。
「あっ、えっと。京、大丈夫?」
千佳はへたり込んだままの京に声をかけるが、反応はない。
「ものすごい風でしたけど、砂が目に入ったのですか?」
帰蝶が京の背中に手を当てた。
すると、京の背中が小刻みに震えているのが分かった。
「どうしたの、京? 具合、悪い?」
千佳が改めてきくと、京はすっ、と立ち上がった。
「京……?」
やはり、答えない。
京はうつむいたままだ。
「遠藤さん?」
顔をのぞき込んだ帰蝶は小さな悲鳴をあげて跳び下がる。
「京!?」
千佳は京の両肩を掴んで自分の方に振り向かせた。
京は目を大きく見開き、口角を大きくつり上げて、満面の笑みを浮かべていた。にも関わらず、その目からは涙があふれ、だらだらと流れている。
その、泣き笑いする異様な顔に、千佳は絶句した。
京は異様な笑顔のまま、口を開く。
泣き笑いしながら言葉を発する。
「ハイ、レタ」
「えっ……?」
千佳は思わず手を離した。京はその場に立ったまま、がくがくと頭を振る。ポニーテールを振り乱し、サンバイザーを吹き飛ばしても構わず振り続ける。
千佳の耳に、言葉といえるのかも怪しい、単語の羅列が届く。
「ハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタハイレタ……」
「え、遠藤さん、どうして、そんな……っ」
帰蝶が頬に手を当てて立ち尽くしている。
「まさか、ヤマノケ……?」
「やっ、ヤマノケ!?」
千佳は思わず帰蝶に詰め寄った。
「ヤマノケって、あのヤマノケですか!? 都市伝説の!?」
帰蝶は京から目を逸らしつつ、
「わたくしも信じていたわけではないのですけど、この辺りにもそういう伝承があるとは聞いていました……でもまさか、本当に出るなんて」
「じゃあ、あたしきいてみます! そういうのに強い友達がいるんです!」
千佳は急いで部屋に戻ると、荷物の中からスマートフォンを取り出し、チャットアプリで雅紀に向けてメッセージを送った。
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