358話 平穏と憎しみの天秤
高遠城 一色政孝
1574年冬
支度を進める俺の元にやって来たのは、重治と之助であった。
昌続は三峰館へ、菊を送っていったらしい。
「如何した?そのような真剣な表情で」
重治と之助は顔を合わせると、僅かに頷いた。かと思えば、之助は心配した様子で俺に向けて言葉を発す。
「先ほどの話にございます。菊様や昌続殿は何も申されませんでしたが」
「上杉と武田の話か?」
「はい。いくら今川様の娘として嫁ぐとしても、武田の血を継ぐ者に変わりませぬ。上杉家でのお立場は果たして本当に大丈夫であるのか。それを昌続殿は気にしておられるようにございます」
「聡明な菊様のこと、きっと両家の因縁も知っておられましょう。その上で殿には何も聞かれなかったと思われます」
俺は作業をする手を止めて2人を見た。思った以上に真剣な話だったため、片手間に話を進めることを止めたわけだ。
作業を止めたことで余計な緊張感が生まれたのか、2人の顔が微妙に強ばる。
「そう緊張するな。お前達が思うほど状況は悪くない」
「・・・というのは?」
「上杉家は今川に対して大きな恩がある」
「恩、にございますか?」
之助の疑問ではあったが、重治はなんとなく察しているのであろう。表情に出ていたが、あくまで俺の言葉を待っているようであった。確信の持てない他家の話だ。
それが今後友好的な関係を結ぼうというのだから、迂闊な言葉が漏れぬようにであろう。
「信濃を巡っての戦い。あれは北条家を支持する景虎による暴走が発端である。それに関して、あの南信濃への侵攻を上杉家全体として取り組んだわけでは無い。当時当主の座を巡って争っていた景勝と、襲撃され重傷を負った謙信の両名を支持する者達は静観、または景虎派への攻撃を行っていた」
「本来であれば上杉家自体との戦にまで発展したやもしれません」
「上杉はな、織田との関係を維持したいが故に今川と敵対することを良しとはしなかったのだ。元々な」
越中、加賀、能登。それら3国は謂わば爆弾のようなもの。
長らく本願寺の一向宗と戦ってきた上杉家からすれば、早々にどうにかすべき地であった。特に越中に領地を持っていた頃の上杉家からすれば。
だから織田との密接な関係は必要であったし、現状織田家にとって最大の同盟国である今川との友好関係は必須であった。故に上杉はあくまで俺達と敵対しない道をとったわけだ。
景勝は越後以外の領地を切り捨ててまで、俺達と友好関係を築く道を選んだ。
「今の話ですと、確かに友好関係を築く理由にはなりましょう、ですが上杉様が今川家に対して恩を感じる理由になるには弱いような」
「今川家が理不尽な侵攻の報復を控えた、と考えたのであれば話は変わりますが」
2人の見解に俺は首を振る。2人は大きな上杉の土産を忘れている。
「そもそも上杉家が越後以外の領地を譲ったのは、越後の統治体制を盤石なものとするためだ。だがそれでもなお、越後国内には不安があった。それは上杉家の統治にそもそも反発していた者達。その者らの筆頭は過激な揚北衆であったり、野心を露わにする者達なわけだが」
そう言いかけたところで之助も気がついたようだ。
「
「であったり本庄殿であったりな。揚北衆は前の戦で野心を露わにした者が大方景虎に付き従ったことで、纏めて制圧することに成功していた。だがさっき名の出た2人は、結局景虎が死んだ後も上杉家中に残り続けることとなった。野心を持つと分かっていながら、この者らを如何することも出来なかったのだ」
景勝は先々人材が不足することを恐れて、降伏した者らは大部分を許している。高広殿に至っても、またそういった理由で許されているのだ。
繁長殿は元よりあの御家騒動では中立であったから、攻める理由も無い。
「上杉家が今川に対して感じる恩とは、上杉家にとって不穏な輩を全て引き取ったことだ。反乱の危険を随分とこちらで請け負っている。それがどれだけ越後に平和をもたらしているか、その事実と武田の因縁を天秤にかけたとき景勝は越後の平和を選んだ」
「故に松姫様は無事であると?」
「景勝が越後の民をまことに考えられる男であれば、家中に不満を持つ者があったとしても、どうにかして抑えるであろう。もしそれによって松姫に何かあればそれは今川との手切れを意味する。そして織田家もまた背後を守る今川との手は切らぬであろうから、実質この両家を上杉は敵として抱えることとなる」
蘆名家は将軍家と繋がりがある。義昭が将軍に任じられた際、蘆名は京へと人をやっている。
だから越後が味方である必要は大いにあるわけだ。味方で無いのであれば、するしかなくなる。
「松姫には武田の昌続のように武田からと、今川から人を送ることになるだろう。その方達と景勝が松姫のことは必ず守る。もし菊が心配しているようであれば、そう言ってやれば良い。昌続にも同様だ」
「・・・殿が言われぬのですか?」
「菊は俺にそれを言うことは無い。あれだけ普段より気を遣っているのだ。俺の今川家中での立場を考えて、きっと不安を打ち明けることは無いだろう」
「ですがお見通しであるのであれば、我らから申し上げるより殿のお言葉の方が安心されるかと思いますが」
之助の言葉に重治はしきりに頷いていた。
「そんなものか?」
「そんなものかと」
「そうか・・・、わかった。考えておく」
2人は俺の言葉にどこか不満げであったが、しばらくして納得したのか部屋から出て行った。之助は俺が信濃を空ける間、義定と共にこの地を守らなければならない。
兵らの訓練のため、本来いる場所に帰っていった。
そして重治もまた同様にこの地に留まる。何かあれば信濃衆のまとめ役である藤孝殿や頼忠殿らと協力し、乗り切るように命じてある故そこまで心配はしていないが、まぁ・・・、重治であれば問題もないだろう。
そんなとき、側に人の気配を感じた。
「落人か」
「はっ!」
「如何した」
「駿河に幕府の使者が来られておりました」
「・・・いったい何を言ってきた」
「北条との和睦を、と」
思わず吹き出してしまう。何とおかしい話を持ち込んできたのだ、と。
ひとしきり笑った俺は、落人に向き直った。流れた涙を拭きながらにはなったが。
「いったいいつの話をしているのだ。幕府は」
「関東での戦の顛末をまるで知らないようであったと聞いております」
「おかしなことだな。武士の棟梁は、武士のことも日ノ本のことも何も知らぬようだ」
「まことに」
「して、氏真様は何と言われた」
「解決したこと故、幕府の手はいらぬと申されたようにございます」
「であろうな。すでに北条は今川の手に落ちた。今更幕府の手を借りる必要も無いわ」
幕府の使者が帰る頃には山内上杉家からの使者も到着している頃であろう。関東管領職を辞する旨の使者がな。
そうなればいよいよ幕府の立場が無くなる。現状は保留状態の鎌倉公方も、未だに今川家の影響内にある。
関東管領は辞し、義昭に不満のある者だけが結果として大きくなったわけだ。そして次いでこの滑稽な話である。義昭はいったいどれだけ情報を得ることを怠っているのか。
それを晒すだけの結果となった。
「これがきっかけになるやもしれんな」
「殿?」
「落人」
「はっ」
「直に大きな動きがあるであろう。それは戦もそうであるが、日ノ本を大きく変える一手となるやもしれん」
「はぁ」
俺の言葉の意味が分からぬ落人は曖昧な返事をした。
「各地に眼を持つお前達だ。すぐにその変化に気がつくであろう。その時は真っ先に俺に知らせるのだぞ」
「・・・かしこまりました」
まだ困惑している様子であるが、落人は確かに頷いた。
きっとその内分かるであろう。
俺が上杉の水軍強化以外に任せられた、とある命。これが成されたとき、我らの関係はさらに一歩前へと進む。
中身の無い武士の棟梁という立場など何の意味を持たぬほどの存在へと、我らがなるのだ。
その足がかりをまずはつくってみせよう、近いうちに必ずな。
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