331話 生き恥をさらす
芥川城 織田信長
1573年冬
俺の目の前には、かつて将軍と呼ばれた男が捕らえられていた。
身なりも泥にまみれて汚れておる。面識が無ければ、将軍と言われても信じなかったであろう。
俺が擁立した現将軍とはまるで違っておるわ。彼奴は今頃綺麗な部屋の奥で縮こまっておるであろうな。
だが今ここで惨めなほどに汚れた男の強烈な視線は、俺の中の何かを尋常で無いほどに喜ばせる。
「何故私をすぐに殺させなかった」
「お前を殺さぬよう嘆願した者がおった。故に俺の家臣の顔を立てたのだ」
「何を申しておる?私を殺さぬように嘆願する者など、織田に与する者の中におるというのか」
「おるぞ。かつてお主を目の敵にしていたはずなのだがな。現状にうんざりした挙げ句、義助を生かすように頼み込んで来た男がな」
未だ義助は分かっておらぬ。誰のことを言うておるのかを。だがそのような一見興味深いと思われるような話題にすら、義助は興味を示さなかった。
「・・・誰かなど聞かぬ。聞いても無駄である」
「どうせ死ぬから、であるか」
「その通り。私は亡き兄上のご意志を継いで、ひたすらにやるだけのことはやった。それが世に認められなかったのは、私の落ち度である。敵であるお主には惨めな命乞いなど決してせぬ。さぁ!ここでこの首を断ち斬るが良い」
しばられて動けぬ身体を強引に動かして、首筋を露わにした。だが俺は腰に差す刀に手を伸ばすような真似はせぬ。
「言ったであろう。お前を殺せば、俺の家臣の顔に泥を塗ることになる。少々朝廷と関わりがある故、それは俺としても困るのだ。せめて話は最後まで聞け」
目を瞑り僅かな間、何事かを考えた義助は俺に視線を合わせて頷いた。だが目が据わっておる。
死ぬ気であることは決して揺るがぬ。未だ室町第より出てこぬ公方がおるというのに、このような肝の据わった男が京から追われるのはまことに惜しい話である。こやつが幕府の将軍として在り続ければ、まともに武家の棟梁としての役割を全う出来たであろうにな。
「まず最初に伝える。お前を助命するよう懇願してきたのは、九条兼孝よ」
「九条だと?何故私を排除しようとしていたあの御方が私を助けようとする?」
「それも先に言ったとおりだ。今があまりにも悪すぎる。今更朝廷は気がついたのだ、義助という男が築き上げた幕府の良さをな。だがあやつらは何も元よりお前を憎んでいたわけでは無い」
「・・・どういうことだ」
「三好家を支持したのは近衛前久であった。朝廷内でも、あやつに権力が集中し、帝ですら奴を抑えることが出来なくなっておったのだ」
「故に私を将軍にさせぬよう動いていたと?」
「その通りよ。そして将軍宣下後も、お前が将軍の座を降りれば前久の力も弱まると思っておった。まことに愚かな男らよな」
わずかな動揺が義助より読み取れた。
さてもう一押しするとするか。
「正直に言えば俺も、ついでに言えば我が盟友である今川氏真も足利義助による幕府のあり方を評価しておった。だが俺は義秋を擁する身、そして氏真もまた義秋を推した。少々その根底にある事情が異なるが、あの段階で足利義助という男に味方をするという選択は出来ぬところまで来ていたのだ」
俺は義秋の上洛を口実に畿内に勢力を拡大。氏真は平島公方家の背後にある三好家の勢力拡大を危惧。
偶然の一致で俺達は手を組むことに成功し、そして両者が義秋を次期将軍として推した。いずれ訪れるであろう大きな過ちに気がついておりながら。
「義助、お前に選択肢をくれてやる。これが最後の問いだ」
「選択肢?問いだと?」
「1つはここで武士らしく腹を切れ。俺がその姿を見届ける」
「実質一択のようなものである」
「話は最後まで聞くよう言ったであろう?もう1つは生き恥をさらしてでも生き延びよ。そして機が来れば、俺がお前を再び将軍の座に就けてやる」
「何を申しておる。再び将軍になど出来るわけが無かろう。私は一度・・・」
「九条のような考えの者は朝廷の中に多くおる。今の幕府のあり方をひどく嘆いている者も実際多いのだ。つまりお前はただただ将軍となる時期が悪かっただけである。かつては三好と共に俺と敵対し、知らぬ間に後ろ盾であった三好が自壊した。故に義助による幕政は長続きしなかった」
「信長よ、そなたは私を如何する?三好よりも強い縄で縛り、いずれは幕府すらも傀儡とするか」
その目は揺れておった。ここに連れられてきたときとは全く違う。
「愚問である。その気があるならば、今ここで幕府の命運を終わらせるであろう。そして俺が新たな王となり日ノ本を治める。それをせぬということは幕府のことに俺は関与せぬということだ。後ろ盾くらいにならばなってやるが、幕政に関しては好きにすれば良かろう」
「もしかすれば織田家に不利な命を下すやもしれぬぞ」
「確かにそうだ。もし俺の怒りに触れれば今度こそ幕府を滅ぼすか、だが俺も寛大な心を持っておる。よほどのことでなければそのような暴挙には出たりせぬ」
「・・・義秋は如何する」
「あれは放っておいても俺から離れようとする。元よりあまり相性は良くなかったのでな、今も新たな後ろ盾を探しておるのではないか?」
わかっておった。義秋と俺は元来結びつくようなものではなかった。
光秀という存在が両者の縁を無理矢理結んだに過ぎぬ。それは酷く脆いものであった。
そしてこの三好家による混乱が収まれば、きっと義秋は俺をどうにか押さえ込もうとするであろう。そんな義秋を俺は見捨てるつもりでおる。
最早関わりなど無い。幕府の要職への就任要請も断り、アレから距離をとった。
予想では近く義秋と敵対すると思っておる。
「私に生き恥をさらせと言うが、はたして如何するつもりなのだ」
「なに、しばらく遠方で療養すると思えば良い。俺がよい場所を紹介してやろう」
「療養?」
「その国は非常に京と似通っておるらしい。公家からも人気があり、俺の妹も気に入っておる。そして何より、ほどよく京より離れておる。あとは同族であるな。心配せずとも俺が文を出せば、すぐに返事が来ようぞ」
「足利と同族であり、京と似通った国として公家からも人気のある大名など1人しか思い浮かばぬ」
「駿河へ行ったことはあるか?」
「無い。たしかに公家の方々は良い場所であったと口を揃えて言われていた。もはや彼の地に赴くなど叶わぬ話であると思っていたが」
「そう難しい話では無かろう。ここで決めよ、全てはお前に判断を任せる」
義助の背後に回り、手首を拘束している縄を切ってやった。
義助の目の前に、今縄を切ったばかりの小刀を置き、そして俺の手を差し出す。
「好きな方を選べ。俺はお前の選択を尊重する」
「後悔するやもしれんぞ」
「それはお互い様よ。今ここで腹を切っておけば良かったと後悔するやもしれん」
「それはそうか。慣れぬ地で、生き恥をさらしてまで生きよと言われたばかりであった。武士がそれをすることがどれだけ辛いことか、分かってやっているのであろう」
「当然だ。だが俺がそちらの立場にいたとしても迷わず手を取る。死んでしまっては何も成せぬ。生き恥をさらそうが、何であろうが、目的を達するためには生きていなければ仕方が無いのだ。そしてその後にでも、恥だと罵った者達を見返してやれば良い」
天を仰いだ義助は小刀を手に取り、整った髷に刃をあてがった。
僅かに腕に力を入れたかと思えば、ハラハラと髪が床へと散っていく。
「こうすれば私だと分かるまい。多少恥をさらさずに済めば良いが」
そう言いながら俺の手を取る。
たしかに力の込められた手を握り返して、引っ張り立たせてやった。
「しばらくは身を隠せ。ちょうど良い時期を見計らって美濃へと戻る。そのまま駿河へと送り届けよう」
「ところで氏真殿は此度の話を」
「全く言っておらぬ。だが奴の側には頭の切れる男が付いておる故、此度の意味をすぐに理解するであろう。光秀、早々に支度をせよ」
「かしこまりました」
廊下に控えていた光秀を呼び、光秀は予め決めていた通りに配下の者達に指示を出す。
大きな籠のような物を用意させ、その中に義助を押し込んだ。
「呼ぶまではその中から出てくるな。それとおぬしの奥も俺が責任を持って後ほど駿河へと送る。だがこれまで付き従ってきた幕臣らは如何する」
「・・・降伏してきた場合のみ、その命を助けてやって欲しい。以後はどうか信長殿の元で使って貰えれば私は嬉しい。本人の気持ちもあろうが」
「わかった。ではそうするとしよう。すでに何人かの降伏は受け入れておるのでな」
だがその後、義助が話しかけてくることは無かった。次に外に出たときは、すでに京から出ているであろう。
思うことはあるであろうが、俺は義助に将軍としての器があると認めた。少し前からではあるが。
後ろ盾が三好という不安定なものであったが故のこの事態。俺であればもう少しうまくやれるであろう。
義助こそが俺の本命である。
必ずや邪魔者を排除し、幕府を武家の頂点に置く日ノ本の統治を実現させよう。
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