315話 引き抜きの誘い
信濃国長窪城 一色政孝
1573年冬
昨年末、降雪が思ったよりも酷くないという理由で武田から人が寄越された。だが流石に危険であると思ったのか、やって来たのは竜芳殿では無かった。
代わりの人物は
だがこの男も武田家との繋がりは深い。いや、正しくいえば深すぎるくらいか。
母親は信玄の姉である南松院、正室は信玄の次女の見性院というかなり武田家臣でも高位な存在。そんな男がやって来たわけだ。
とは言っても大方分かっていた様な話しかしていない。
佐久郡全域を本当に武田の領有として良いのかという最終確認。それと合わせて上野の動向を互いに共有し、そして万が一の際には今川からも兵を出すことを約束した。
あまり弾む話も無いままに梅雪斎殿は甲斐へと帰ってしまった。だがその際にとある助言を受けたのだ。
だから新年早々、俺は長窪城へとやって来ている。
「年も明けましたが如何お過ごしにございますか?」
「見れば分かるであろう。こうも快適に年を越したのはいつぶりか、そう考えてしまうほどには何事も無かったわ」
「そうでしょうとも。そのように命じておりますので」
俺の正面に座る男は不満げな表情で俺を見上げていた。
目の前には信濃で取れる山の幸をふんだんに使った、贅沢すぎるほどの料理が並んでいる。ただそれを食しているのは今川の将では無い。
「戦場で惨めに捕らえられた俺をこのように扱って何が目的だ」
「目的など・・・。ただ敢えて言うのであれば顕景殿とはこれからも良い関係を築いていきたいので、上杉家の方に不遜な態度は許されないかと思いまして」
「あの噂は真であったと?」
「噂ではありません。今のあなたには外の状況が全く聞こえてこぬと思いますが、すでに越後では後継者争いも大詰めにございます。越後の大部分を抑えられた顕景殿は、
「直路城であれば沼田から援軍が入る。山内上杉家も北条の要請に従い援軍を派遣するであろう」
「そうはなりません。山内上杉家は京の情勢を踏まえ、周辺国への介入をしないことを既に明言されております。佐久に援軍が来なかったのはそのためにございます。そのせいでどうなったかなど、あなたが一番ご存じのはず。そうですよね、高広殿」
「・・・」
そう、俺の目の前に座っているのは北条高広。何度も上杉を裏切っては帰参を繰り返している男だ。
こうして丁重な扱いをしているのは、先日梅雪斎殿から賜った助言のため。
「景虎殿は長く持ちません。信濃での敗戦を考えれば、最早誰も味方にはならぬでしょう。顕景殿は今後越後1国に専念されることも宣言されており、そのことを政虎様もご存じです。最早景虎殿が越後の国主となる日はこない」
「俺は誰が国主となっても問題は無い。俺の力が認められている内は、俺を切り捨てることなどあり得ぬ」
「これまでの上杉家であればそうでしょうとも。ですが越後国内に専念するということで考えれば、強すぎる力はむしろ邪魔となるのではありませんか?これ以上の拡張は無いことを考えれば、今は政に長けているという点が重視される。そんな中、あなたのように武に長けすぎた方は非常に危険でしょう。越後という土地柄を考えても」
「・・・先ほどから何が言いたいのだ。俺の存在価値はまるで無いと言いたげであるように聞こえる」
俺の言葉は間違いなく不快感を与えたはず。だがどう考えても不穏分子の最たる者であるこの男の存在は上杉家にとっても、そして上杉による越後統治の安定を望む今川家にとっても邪魔なのだ。
だから俺は手を打つ。
「・・・回りくどい話は終わりましょう。ハッキリ言わせて頂く」
俺はしゃがみ込んで、高広殿と視線を合わせた。
「今川に来い。上杉に仕え続けても、お前の不満は溜まる一方であろう。何度も反旗を翻し、そしていずれはその身を滅ぼす。実に惜しい話だ」
「・・・こちらがおぬしの本性か」
「このような態度では家中に敵が増える一方なのでな。一色の様にわずか2代で成り上がり者は特に」
「なるほどな・・・。ならば1つ問う。如何にして今の地位まで成り上がった?」
「何を、か。全てやったな。忍びを使って情報収集と調略。商人から集めた金で傭兵を雇い、火縄銃も大量に買った。俺にとって見れば武士であるが戦が一番苦手である。それも家臣らの力を借りて勝ってきた。あとは裏切った者達には手を下した。裏でも表でも、どちらもやった。すべては今川の為だ」
表は井伊直盛。裏では飯尾連龍に便乗した鵜殿やその他数人の家臣の粛正。その手助けのために多くの方達を欺した。
そうして得たのが今の立場だ。
「俺が誰か知っているのであろう?裏切りを警戒しないのか」
「する。だがそれはお前に限らず全員に対してしている。特に信濃衆は元々信濃の国人領主達だ。どのような心境の変化が訪れるかなど分からぬ。それに武田の旧臣という点も不安要素の1つだな。だから俺は常に目を光らせている。もし今川を裏切る様な真似をすれば、即刻その首を獲りに行くだろう」
「俺の首にその刃は届くのか?」
「届く。そのためならば俺は何でもする」
かつて直盛を逃したことで、井伊家の問題が随分と長く続いてしまった。
しかも結果的に虎松らには辛い選択をさせてしまった。本人にその気が無くとも、な。
だからその過ちを今後は絶対に繰り返さない。もう裏切りはこりごりだ。
「なるほど。使える内は俺ですら使う、と」
「そう思って貰っても構わない。だが使えずとも今川の役には立って貰う。人は誰にでも最低限の利用価値はあるからな。今のお前もまさにその1つだ」
「この俺が最低限の利用価値だと?」
おもしろい言葉だと高広殿は笑った。「はっ」と息を吐く様な笑いだった。
「面白い。面白い男だ、一色政孝よ。俺にその程度の評価を与えたのはお前が初めてだ。ならば聞かせて貰おう。俺にあるという最低限の利用価値とは何のことだ」
「顕景殿の築く上杉家から不要な人間を抜き取る。顕景殿には安定した越後統治が求められている。それは氏真様の望むところであり、織田信長の望むものでもある」
「不要か。であるならば俺以外に誰が不要であると思う」
「上杉憲政殿とそのご子息、あとは古志長尾家出身の上杉景信殿。それと・・・、本庄繁長殿といったところであろうか」
「良く知っておるではないか」
「言ったであろう。俺は今川のためになるならば、となんでもやってきた」
「繁長殿は近く上杉より反旗を翻す。蘆名や大宝寺の力を借りてな」
「大宝寺までもが関与しているのか?しかし何故?」
「大宝寺家もまた、周辺勢力から自立することを目論んでいる。繁長殿とは個人的な付き合いがあったようで、最近勢いを増す伊達に対抗するため蘆名や繁長殿と協力する道を開いたとのことであるらしい。はたして成功するのやら」
「しないな。今顕景殿は揚北衆に対して一定の疑いを持たれている。事を起こしてもすぐに顕景殿に従う者達に討伐されるがオチだ。黒川や鮎川の様に」
「ならば俺が繁長殿を止めてやろう。そして信濃に連れてくる。それが成功すれば、俺達を今川の配下として迎え入れてくれ。上杉に先は無い。仕えていたとしても面白くはあるまい」
俺の目論見通りだ。
北条高広はそう馬鹿では無い。これまで何度も主家に対して反旗を翻しているにも関わらず、生き延びてきただけのことはある。
「もし無事に信濃にまでやってくることが出来れば、俺が必ず助けてやる。そしていずれ、上杉にいた頃よりも多くの地を任されるまでに押し上げてやる。それで満足出来るのであれば、俺の手を取るが良い」
だいたい上杉にとってもそこまで悪い話では無い。家中の不穏分子を被害無く追い出せるというのであるのだから、俺が両名の引き渡しを条件として突き出しても最終的に断られる様なことはないだろう。
だが一応念には念を押す。上杉家中に敵がいなくなっても、外部には変わらず存在し続ける。
蘆名や、今も名前が挙がった大宝寺などな。それらから身を守るために、俺は俺の持つ力をふるう。
これも成り上がる要因の1つであろうか。
「ではその手を取らせて頂こう。もし頼りない一面を見せてみろ、首に噛みつくのはお前で無く俺であろう」
「反対も又然り。裏切りの兆候が見えた瞬間、俺は躊躇無くその首を獲りに動く。そう繁長殿にも伝えておくのだな」
「もちろんだ。でなければ、このように危険な地に潜り込ませるわけにもいかぬであろう」
俺の差し出した手を取った高広殿。引っ張りあげると、抵抗なく立ち上がった。
「俺達は案外似た者同士なのやもしれん」
「かもしれんな。俺は一度も主家を裏切ったことは無いが」
「それもそうか。だが裏切るなどほんの些細なきっかけで起こりうる。本人にその気が無くともな」
「その言葉、一応覚えておく。今後今の言葉を思い出す機会が無ければ良いのだがな」
「まったくだ」
北条高広。俺はこの男を今川に引き入れた。
上杉という目の届かぬ場所に置いておくよりは、こちらに引き込み監視するのが一番であるという考え。
それと同時に上杉家中の不穏分子も排除する。これもまた俺の思惑通りに運んだ。あとは上杉一門の三者。
山内上杉家の憲政と憲重親子はもう越後には戻さぬ。戻せば確実に火種としてあり続けるだろう。上野に戻すか、それとも北条か。もしくは鎌倉公方家でも良いかもしれん。とにかく越後上杉家には戻さない。
問題は上杉景信。あれはこちらからではどうにもならない。
・・・それくらいは顕景殿に任せるか。
「雪が降り止めば解放する。それまでに英気を養っておくのだ」
「そのつもりである」
もうすでに冷めてしまったであろう食事に手を付けていた。だがあくまで思いつきの策が思った以上に上手くいってしまった。
北条高広、この暴れ馬をどう扱うか。それ次第では上杉からの俺の評価も変わるであろう。それもまた後々の事を考えれば、決してマイナスにはならないはず。
「そろそろ信濃をいただくとするか」
このときの俺は、まだ上杉よりもたらされる疑惑など知るよしも無かった。
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