292話 人質の解放

 大井川城 一色政孝


 1571年冬


 正月を直に迎えるであろう今日。

 城には家康が来ていた。それも瀬名様を伴ってだ。しかしわざわざ俺に会いに来たわけでは無い。

 今川館へ行っていた帰りである。その理由は、もうじき元服を迎えることとなる竹千代にあった。

 家康が再度臣従を表明した際に定められた条件によって、嫡子竹千代を今川館へと人質に出していたことは周知のことである。むしろ今川家臣らの前で伝えられたのだから当然か。

 だが前の伊豆侵攻において、その功績が認められて人質の存在は必要ないと判断された。つまり家康独立騒動はようやく赦されたというわけだ。


「竹千代も大きくなったな」

「私も長らく顔を合せておりませんでしたので、我が子の成長には少々感動しております」

「だろうな。だが子の成長はやはりこの目で見るに限る。そうであろう?」

「その通りで」


 家康は三河国境を守る立場をしっかりと整えるべく、一門の長照殿の妹である蓮姫を側室として迎え入れていた。もちろん独断では無く、氏真様からの命である。

 史実ではその娘である督姫が氏政の跡継ぎである北条氏直に嫁いでいるわけだが、蓮姫との婚姻が遅れたために2人の間に未だ子は居ない。

 それに加えていうのであれば、瀬名姫との間に生まれた亀姫は家康と同じく三河に城を預かっている奥平おくだいら定能さだよしの嫡男である信昌のぶまさに嫁がせることも決まっていた。直に輿入れをするとのことだ。

 俺と家康は同い年であるはずなのだが、少々子が出来たのが遅かった。豊に至っては、まだ誰かの元に嫁がせるなど考えられぬ歳である。

 いずれやきもきする日が来るのであろうか。

 そんなことを1人で考えていると、気分が沈んでくる。子らとはあまり一緒に過ごしてやれておらぬが、いざ誰かの元へ嫁ぐとなればきっと寂しい思いをするのであろうな。勝手な話であると、豊は怒るであろうか?


「しかし先ほど少しお姿を拝見いたしましたが、鶴丸様も随分大きくなられておりました」

「そうであろう?先ほど言った手前あまり大きな声では言えぬのだがな?俺もあまり鶴丸のことを見てやれておらぬのだ。赤子の頃は乳母に、乳母の手を離れれば久に任せっきりとなり、さらに大きくなれば城下にいる剣術の師の元へと向かい勉学は菊に教わっている。今は佐助に傅役を任せた故にあまり口出しするわけにもいかぬでな」

「それでも側に子がいるだけでも安心出来る。竹千代を迎えに行った際、私の顔を忘れているのでは無いかと恐ろしゅうございました」

「どうであった?」

「覚えておりました。ホッと息が漏れました」


 家康が心底安心したように言葉を絞り出すと、隣で話を聞いていた瀬名様が笑われた。とはいえ、瀬名様もようやく一安心であろう。

 家康が不審な動きをした途端に、竹千代の命が無くなることを思えば心臓に悪い日々を過ごしたに違いない。家康にその気が無くとも、そういう印象を氏真様に持たれた時点で竹千代が死ぬ可能性は十分にあったからな。


「話は変わりますが、殿はどうやら畿内に本格的に介入されるようにございます」

「畿内に?何故いきなり」

「信長様より要請があったようで・・・」

「なるほどな。越中方面での借りもある故に断れなかったか、もしくは」

「前の上洛で何やら思うところがあったのか、でございましょうか」

「わからぬ。それも正月に明らかになるであろう。それで家康はどう命じられたのだ」

「はい。伊勢北畠の残党を討伐するべく、一益殿に付き従い兵を率いることとなりました。三河の上役は元信殿となっておりますが、今は北条方面の事であちらを離れられぬ故、私と長照殿が代理として三河の者達を率います」

「そうか、しかし伊勢は俺達にとって全く慣れぬ地だ。決して油断はするな」

「重々承知しております。決して無理はせず、ですが確かな戦果を上げる。これが理想にございますね」


 俺と家康は何度も頷く。

 北畠の討伐はそれほどまでに大きな意味を持つのだ。次こそは、と上洛を目指す信長からすればな。

 実際停戦令の期間が終わると、三好は・・・、正確に言えば長治は本格的に分裂した三好の掌握に動き始めた。

 初期から分裂していた義継・久秀勢力、不穏な動きを続けている丹波の赤鬼赤井直正率いる赤井家、三好本国にて半ば独立している十河存保・細川真之勢力の再統一によって盤石な三好家を、とな。

 だが四国方面では着々と長宗我部が勢力を伸ばし、最早三好本国の大半が掌握されている。大和や河内では織田の手が入りつつある上に、義継や久秀の守りも堅くなかなか攻めあぐねている様子。

 赤井家は朝廷内において最大の親三好派である前久の血縁者。故に手を出すことが躊躇われている。

 長治には勝ち筋が見えているのだろうか?俺がこうして現状を整理してみる限り、すでに詰んでいると思うのだが。


「志摩の国衆もあまり信用するな」

「志摩の?そういえばいくらか前に信長様に国ごと臣従を申し出たと聞いておりますが」

「そうだ。だが澄隆殿らのこともある。寝首をかかれかねない、例え臣従しているのだとしても俺達は織田の勢力ではない。何をしてくるかはわからない」

「一応気にしておきます。此度はあちらも兵を出すとのことにございましたので」

「そうしてくれ」


 その後も今川館での情報を聞いていた。代わりに俺は畿内の情報を提供する。

 栄衆の情報収集効率が、あの者達も慣れてきたのか非常に良くなってきている。少数しか潜り込ませていないというのに、多くの情報を持ち帰ってくるのだ。

 本当に頼もしいことである。

 そんなこんなで様々な話で盛り上がっていると、誰かが廊下をやや早歩きでこちらに向かってくる音が聞こえた。

 すぐに襖が開いて、申し訳なさそうな顔で菊が入ってくる。


「申し訳ございません。遅れてしまいました」

「気にするでない。家康が急に尋ねてきたのだ、菊に非はない」


 俺がフォローをすると、家康も申し訳なさそうに菊に頭を下げた。

 菊はそんな家康の謝罪に頭をフルフルと振りつつ、久の隣へと腰を下ろす。閉まる襖の隙間より、菊の侍女とした小柴の疲れ切った表情が見えた。

 栄衆ですら振り回すというのか、末恐ろしいな菊は。

 俺がチラッと菊へと視線を向けたのだが、本人には自覚がないらしい。まったくもって恐ろしい。もう少し成長して、側室としての役割を担い始めたとき、小柴や他の侍女同様に俺も振り回されるのであろうか。

 逆にそれはそれで新鮮かもしれないが・・・。


「まぁよいか」


 軽く息を吐いた様を見た俺。それを久はおかしげに笑った。

 久も菊の腕白ぶりは知っているのであろう。というか城内では有名な話だ。それも含めて微笑ましいのであろうが。


「こうして顔を合せるのは初めてであろう。菊、この者は俺の幼き頃の友である家康だ」

「初めましてにございます」

「お見苦しい姿をお見せいたしてしまいました。菊と申します」

「その隣に座られているのは、家康の正室である瀬名様だ」


 2人は揃って頭を下げた。


「まぁ今後とも付き合いがあるであろう。その時はよろしく頼むぞ」

「かしこまりました」


 俺が家督を継いではや10年と少しが経った。先日の話ではないが、あの日目指した俺の目的は1つ叶えることが出来たのではないだろうか。

 信長と家康の関係を疎遠にしたことで、瀬名様と竹千代が死ぬ未来が潰えた。現状では。

 だがそれだけでも十分すぎるほどの成果であると思う。

 今後も精進していくとしよう。

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