287話 対上杉の相談
高遠城 一色政孝
1571年夏
現状、今川領で上杉と接しているのは信濃のみである。そしてその信濃、正確には南信濃であるが、全権を氏俊殿に任せられている状況だ。
場所が場所なだけあって、氏真様の考えをいちいち伺うには遠すぎるという事情がある。
だから対上杉の話をするならば、氏俊殿に通せばある意味話は完結する。
そして俺達一色家は、相模の一部を拝領したため北条国境の最前線に城と領地を抱えているわけだが、今川家の武器、特に火縄銃の供給は俺達が受け持っているため信濃方面にも口を出すことが許されている。
だから今日はこうして高遠城にまでやって来たわけだ。
側には商人の源左衛門も居る。
「伊豆では随分と活躍されたようですな」
「あれほどまで追い込まれるとは。やはり北条は手強うございます」
「義元公が戦を避けられるわけよ」
氏俊殿は愉快げに笑われた。だが今生きているから笑えているわけで、本当に生死の境を彷徨ったと言っても過言でないほどに厳しい戦であったと改めて思う。
「それと先に政孝殿に伝えておかねばならぬ事がある」
「いったいなんでございましょうか?」
「儂もそろそろ当主として、今川家の最前線に立つには限界が近づいておる。それは数年前より殿にもお話ししていたのであるが、未だ倅は大軍を率いる功も自覚もない」
「そのようなことは・・・」
たしかに氏詮殿の功は少ない。それも長年今川家のため、最前線で戦われてきた氏俊殿に比べれば圧倒的なほどに。
「事実でありましょうや。それ故に、上杉との戦が一段落すれば、儂は倅に瀬名の家を託すことにいたした。それに伴って、政孝殿に信濃の上役を任せようと考えておるのだ」
「何を・・・」
「未だ若くはあるが、殿の事を1番理解しているのは間違いなくおぬしであろう。そして初陣が遅れたものの、功は十分にあげておる。桶狭間で弱腰になっていた年寄り共とは違って、常に今川のことを考えて、今川の道を示してこられた。そのことを殿も、そして多くの方々も感謝しておるのだ。年齢など関係ない、おぬしであれば上役としての任を全うすることも出来よう」
俺の知らぬところで、随分と大きな話になっていた。それも最早俺の断ることが出来る段階をゆうに超えている。氏真様にまで話がいっているのだからな。
確かに一色領以外のことに口を出すことが出来るのは、俺にとっても非常に好都合。もっと言えば、全権を預かることが出来るというのはさらに良い。成果を出す限りは、氏真様にお伺いを立てずとも、好きに動き回れるわけだ。
「もう1つ理由があるとすれば、儂の補佐をしてくれておる藤孝殿と昌輝殿はおぬしとも関わりが深い。上役を引き継いだ後、上手くやってくれるであろう。それに菊様もおられる故な。武田の旧臣らも安心して従うことが出来るであろう」
「そこまで考えられていたのですね」
「菊様のことは好都合と儂が使ったまでよ。殿は納得されていたがな」
「ちなみに上杉との一件が終わり次第というのは・・・」
上杉を滅ぼした後の話なのか、それとも政虎の後継者の話なのか。それともまた別のことを指しているのか。それによっては、この話が一体いつ頃の話なのか。それが大きく変わってくる。
「此度政孝殿がはるばる遠いこの地に来た理由が解決した頃であろうかな」
「なるほど」
一度だけ氏俊殿も顔を合せている源左衛門。真田と縁を持ったあの時の話だ。
だがその時に源左衛門がどのようなことを生業としているかは伝えている。今回この場にいることで、俺が何かをしようとしていることを察されたのであろう。
「実はとある情報筋より、越後上杉家が親北条派で染まりつつあるとの報せがありました」
「北条氏康の子であるな。三郎とか言うたか、いや今は景虎か」
「はい。その者が、正確にはそれに付き従った者らの仕業でございましょうが、急速に上杉家中を掌握しつつあると」
「なるほどな・・・。しかしそうなれば、次の戦は前の戦のようにはならぬであろう」
「上杉の兵を率いた北条の血筋の者が信濃にも襲いかかりましょう。しかも未だ越中方面の安寧は訪れておらず、幕府による停戦令の期日が切れると同時に再び織田様と上杉は共闘を始めるはず」
信長の当初の目的は、恩を政虎に売りつけて今川への手出しをさせないつもりであったこと。
だが今となっては少々事情が異なる。
織田との同盟は確かに継続されるであろう。北条にとっては上杉と織田の同盟は都合が良い。なんせ今川を孤立させることが出来るからな。
だが信長としても、越中と加賀の平定は必須事項だ。あの地と越前をどうにか織田方へ組み込まなければ、いつまでも背後を気にしなければならない。
「故に我らとしては上杉をかき乱すほか無いと考えました」
俺はそう言って1枚の紙を氏俊殿の前に広げた。
「これは・・・?」
「我が忍びに探らせたものにございます。ここに名のあるものは現状上杉景虎に従っている者達。従っているとは少々異なりましょうか。ただその理由は様々にございます。例えばこの者達」
俺は3人の名前を指さした。
「鮎川・黒川・加地。これら3人は揚北衆と呼ばれる者達にございますが、元よりこの地に領地を持つ者達は独立志向が強く、強引に押さえつけていた政虎に対する抵抗から景虎に従っているのかと思われます」
「つまりこの者達は景虎へ心服しているわけではないのだな」
「おそらくは。故にこちらで煽ることが出来れば、上手くいけば独立騒ぎを起こすやもしれません」
そこで俺は源左衛門を見た。
「なるほど・・・、そういうことであったか。たしかかつての上杉との共闘において、一色家は独自の交易路を発見しておったな」
「その通りにございます。此度もそれを用いて奴らに武器を流します」
「しかしあまりに危険であるな。その者らが蜂起しなければ、ただただ我らが武器を流しただけとなる」
「それ故盛大に奴らの心を揺さぶらねばなりません。揚北は越後の北に位置します。あの地で混乱が起きれば、上杉はこちらに力をかけることは出来ません。また越後を狙う蘆名の介入も防ぐことが出来るやもしれません」
現に現蘆名家当主である
俺達はいくつもの大名家を相手取る余裕など全くない。北条と上杉は大身なのだ。それ以上は完全にこちらのキャパを越える。だからこそ介入を防ぐ策も講じる必要がある。
ちなみに完全に余談なのだが、政虎によって山内上杉家の当主を降ろされた憲政は越後に連行されていた。上野にいれば余計な混乱の種となりかねないからだ。
その憲政であるが、こいつも景虎の味方となっている。完全に政虎に対する逆恨みであった。恨んでいる父が景虎方についているのだから、山内上杉家は大人しくしていてほしいものである。
「蘆名までもが絡んできておったのか。しかし忍びとは・・・。いったいいつから引き込んでいたのだ」
「随分と前からにございます。私が家督を継承した際には、未だ家中に裏切り者が多くおりました。故に明かすことが出来なかったのです」
「責めているわけではない。ただ役立つ者達を味方としているのだと感心していたのだ。まぁそれはよいか」
氏俊殿は改めて名簿を覗き込んだ。
「上杉景信・・・。たしかこの者は」
「古志長尾家の者にございます。長尾家は見事に割れました」
とは言っても、上杉を名乗る前からのある意味因縁だ。
これも揚北衆同様に、景虎に心服しているからではない。単に政虎のもう1人の養子を認められないだけのこと。
そう、後の上杉景勝のことである。今の名は
後は言わずともわかるはず。
面白くないのだ。同じく分家である者が、宗家を継ぐなど到底受け入れることなど出来ない。故に余所者を支援するらしい。
その理屈もよく分からないのだがな。分家同士長年いがみ合ってきたのであるから、それも仕方が無いのであろう。
「ただし一門衆の問題は外からひっかき回ることは難しいかと」
「であろうな。ここは気にせずいくべきであろう」
その後も上杉家に対する備えを延々と話し合った。今日決定した方針を軸に、氏俊殿は信濃衆に命を下す。あとは武田にもある程度は命が下されるであろうが、こちらは一度氏真様を経由してのものとなる。
上役とは言え、さすがに武田に対する命令権までは持っていない様子だ。
「・・・わかった。ある程度今日の話を元として、みなにも話を伝えることとしよう。たった数日のためにご苦労であられたな」
「いえ、この後も他の方々のもとへ向かう予定にございましたから」
「そうであったか。しかし気をつけよ」
「もちろんにございます。このような時に倒れられませんから」
1日ゆっくりと休息を取った後、俺達は出立した。
次に目指すは真田領。その後は藤孝殿に挨拶に向かい、そのまま西に進んで木曽谷。あとは信濃と遠江の国境部を任されている方々の元を回りつつ大井川城へと戻る。
戻ればその足でおそらく真鶴半島へと向かうこととなるであろう。あちらの城の進捗を確認するついでに、福浦の発展具合と晴朝殿が挨拶に参られる予定だ。
戦がないというのに、本当に忙しいな。いや、もちろん俺だけが忙しいわけではない。
家康も前の戦での功が認められ、俺同様飛び地であるがいくらか拝領している。そしてそれは他の方々も同じである。
「昌続、しっかりと休んでおけよ。明日以降、ゆっくりしておられぬぞ」
「かしこまりました」
しかし道中馬の用意をしておくべきだな。本当に馬が持たなさそうな過密スケジュールである。ため息が漏れるわ。
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