262話 次代の子供達

 今川館 一色政孝


 1570年夏


 北条との関係は冷え切ってはいるが、未だ戦にまでは発展していなかった。何故か、それは里見義弘が千葉家家臣である原家の守る小弓城を攻め落とし、さらにはその勢いのままに千葉家の諸城へと攻勢を開始したからだ。

 北条は我らの同盟を知っているため、挟撃を警戒するように伊豆に兵を集め始めた。結果として氏真様は被害を大きくしないために国境部に兵を集めるだけに留められたわけだ。


「北条との戦が始まる前に目出度い話が続きました」

「確かにの。市や春の懐妊、2人とも無事に産まれてきてくれて麻呂は嬉しい限りである」

「まことにおめでたい話にございます。知っていれば、祝いの品を持参したのですが・・・」

「よいよい、気にせずともな」


 氏真様は愉快げに笑われた。

 ちなみに子の性別であるが、お市様は女子で早川殿は男子であった。じゃっかん早川殿が気にされていたようだが、お市様は素直に喜ばれていたのだという。


「茶々姫様と五郎様にございますか」

「うむ、市と春がその名が良いと言ってな」

「なるほど・・・」


 まさかこの世界でも茶々姫が生まれるとは。驚きではあるが、これは誰とも共有出来ない種類の驚きだ。

 心の奥にソッとその爆発しそうな感情をしまい込み、俺は改めて氏真様に祝いの言葉を申し上げた。


「そういえば神高島を任している澄隆も子が出来たと言っておったな」

「はい。たしか名を初音はつねと申されていたかと思います。随分可愛らしいそうで、生まれてからというもの、澄隆殿は片時も離れぬのだとか。嘉隆殿が参っておられました」

「麻呂も初めての子であるからある程度は理解してやれるが、ほどほどにして統治に専念するよう伝えるのだ」

「かしこまりました」


 ちなみについ先日、昌友の子である亀吉が元服した。昌成まさなりと称し、今は昌友の側で文官見習いをしている。

 一色分家の当主の役目はまさにそれだから、昌成にかかる期待は非常に大きい。その期待に応えられるよう頑張って貰わなくてはならぬな。

 二郎丸もそろそろであるし、小姓を複数人任じるようにしても良いかも知れない。その方が元服後多少なりとも楽になるはずだ。


「殿、そろそろ」

「そうであったな」


 実はずっと俺達の間には泰朝殿が待っておられた。何やら話したげにされているとは思っていたが、やはりそうだったのか。

 盛り上がりすぎて悪いことをした気になる。


「さて、政孝」

「はっ」

「先日武田より使者が来た。勝頼からの返事である」

「返事・・・、葛山のことにございますね」

「その通りよ。まぁ読んでみるが良い」


 俺は泰朝殿を経由して書状を受け取ると、中身を早速読んでみた。

 やはりと言うべきか、両者利害の一致であること。そして葛山の領地は今川だけでなく武田にとっても重要な土地。そのような地を任せられている葛山家へ武田一門の者が養子入り出来ることの喜びが尋常で無いほどの文量で書かれていた。


「勝頼殿は・・・。いえ、この文面を見る限り、武田家中では此度の提案は非常に魅力的に見えているようにございますね」

「うむ、だが勝頼がこちらに出す条件の中に1つ気になるものがある」

「条件、にございますか?」


 俺は該当部分であると思われる文章を探す。この書状のほとんどはお礼の言葉であったり、家中でも賛成の声があがっているなどの報告事ばかり。

 そんな中に確かにあった。


「御宿家の人間も共に入れるのですか?ですがこの者たしか・・・」

「葛山との関わりも深ければ、武田との関わりも深い。この者の妹は武田の血を受け継ぐ者の他に武田家重臣にまで妹が嫁いでおる。さらにその者の妻は長坂ながさか光堅こうけんの娘であるという」


 ちなみに妹が嫁いだという武田の血を受け継ぐ者というのは、氏真様が義元公亡き後、家中の混乱を回避する一環として領内から追い出された武田信虎の孫である。

 名を武田たけだ信堯のぶたか。駿河追放後、信虎はその身を京へと向けたが、信堯の父である信友のぶともはそのまま兄信玄に頭を下げ、甲斐へと戻ったという情報もあったのだ。

 つまり信堯と御宿の妹の婚姻というのは、駿河に縁のある者同士で行ったということである。

 あと重臣に嫁いだ妹もいるのだが、その重臣とは小山田信茂のことを指す。

 そうとうに武田に縁が深い人物が、葛山に入ることとなる。


「義久が独り立ち出来るまで何事も起きなければそれで良い。だが後見としてこの者が葛山で権勢を振るい間は十分に注意する必要があるであろう。たとえそれが起きぬであろう、ただの心配のしすぎなことであってもな」

「かしこまりました。葛山のことは今後も引き続き警戒しておくといたしましょう」

「政孝だけでは無く、泰朝も頼むぞ」

「お任せを」


 ちなみにだが、此度の国境警備に動員されたのは基本的に西三河の領主達だ。例えば家康とかな。

 織田領と接するあの地はもはや平和すぎている。だが万が一があるから手薄にすることが出来ない。

 そんな手柄を挙げにくい地であるのだが、あまりにそのような扱いを続けていればまた不満が溜まる。家康だけではない。

 他の者が独立や寝返りの動きを見せれば、また今川は混乱する。

 そのために今回はあちらから兵を動かしたのだ。もちろんそれだけでは遠い地から派遣させやがって、と不満がたまりかねないから遠江からも兵は出している。

 しかし行軍の苦労はそこまで無いはず。なぜなら基本的には船での移動を推奨しているからだ。無ければ俺達が出しているし、あるならば自前で用意して駿河へと移動してきた。

 家康も自前の船で来ていた。楽になったと喜んでいたな。


「武田から葛山へ養子を入れることも急ぎ行いたい。氏元の気が変われば話は元に戻ることとなる」

「では急ぎその話を進めましょう」

「うむ。それと最近領内で妙な者がうろついているという話もある。北条の間者であることも否定出来ぬ。じゅうぶん警戒せよ」

「「はっ!」」


 泰朝殿は継続して氏真様と話があるそうで、俺は一足先に部屋を出た。

 外からは何やら元気な泣き声が聞こえてきて、それと同時に誰かが慌てる声も聞こえる。

 それが随分と懐かしい気分にさせた。


「家康、戻っていたのか」

「これはこれは、政孝殿ではございませぬか」


 家康の腕の中には1人の赤子が抱かれていた。いっこうに泣き止む気配のない赤子が。


「お市様、春様、遅くなりましたがおめでとうございます」


 家康が邪魔で見えなかったが、部屋の奥にはお市様が座っておられた。そのとなりには赤子を抱かれている早川殿。

 おそらくあちらが五郎様であろう。

 ならば今家康の腕の中にいるのが茶々姫様だ。


「ありがとうございます。実はこの子、あまりに元気が良いので困っていたのです。そこで子を授かっている家康殿にお願いしたのですが・・・」


 お市様の視線を受けた家康は申しなさげに項垂れた。まったく期待に応えられなかったということか。

 しかし家康も情けない。


「ほら、俺に寄越してみよ」

「出来るのですか?お久様より随分と頼りないと嘆かれたと聞いておりますが」

「・・・何故それを知っている?」


 しかしそれを言われたのは鶴丸が生まれたとき。つまりは6年も前の話だ。

 豊のときにはそのような情けない姿はさらしていない。

 俺は茶々姫様を家康より受け取ると、いつも豊にやっているような調子であやして見せた。

 するとどうだ。みるみる内に茶々姫様は泣き止まれる。それどころか俺の顔を見て笑われるのだ。

 家康が「おぉ」と感嘆の声をあげた。


「流石政孝殿にございます」

「いえ、それほどのことではございませぬ。ではでは」


 そう言いながらお市様の正面に座る。そして膝で数歩分前へすり寄り、茶々姫様をお市様に預けようとした。だが何故か腕が素直にのびない。

 不思議に思い茶々姫様を見てみると、俺の衣服を掴んで離さないのだ。


「かっ・・・」

「可愛らしいことですね。随分と政孝殿の事を気に入ってしまったようで。まるで兄様のようです」


 フフっと笑われたお市様から冗談にしておくには反応に困ることを言われたが、俺はどうにか手を離して貰うべく、その小さな手の平に手を添えた。

 すると俺の指を握ってくるのだ。

 早川殿も楽しげに「まぁ」なんて言われている始末。

 家康は羨ましげに見ているような気がしたが、話が終わったのであろう氏真様が泰朝殿と共に廊下を通られた。


「そのほうらは何をしておるのだ」

「いえ、これは・・・」


 おそらく困惑しているであろう顔で氏真様に助けを求めたのだが、先に反応された泰朝殿が大いに笑われた。

 そこまで面白くは無いはずだ。

 そう言いたい気持ちを抑えて俺は茶々姫様の指を解いていく。


「そのまま連れ帰りさえしなければ、いつでも顔を見せてやってくれればよい。そこまで麻呂達以外に甘えることはこれまで一度も無かったのだ。乳母も雇えぬ始末でな」

「ではそうさせて頂きます」


 指が全て離れたことでじゃっかん茶々姫様はぐずられたが、俺は早々にお市様にお渡しした。


「では一度大井川城へと戻ります。次にこちらへ来るのは」


 赤子がいるのだ。あまり血生臭い話はしない方が良い。


「うむ、まずは様子見であるがな」


 氏真様の言葉に頷いて俺は今川館をあとにする。そう、もう北条との戦は目の前に迫っている。

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