257話 2人目の妻

 大井川城 一色政孝


 1570年春


 武田家は対北条戦に向けた両家の関係強化のために、急ぎの輿入れを申し入れてきた。

 つまり菊姫が俺の元へと嫁いでくるのだ。

 氏真様としても、北条と接している甲斐との連携は重要事項の1つであり、よりよい関係を築くためには嬉しいことだと輿入れの支度を早急に進められた。

 そして甲斐巨摩郡にある南部の地、富士川の西岸に位置する真篠城で菊姫を迎え入れた。

 かつて三国同盟のおりに各々の大名が行った輿入れとはほど遠い賑わいであったが、それでも多くの民が沿道にて菊姫の出国を見送っていた。

 その民達の行動の意味が果たしてどういうものであるのか。いくつか想像することも出来るが、今川傘下となった限りは甲斐の民も守るべき対象となる。

 それは氏真様も武田家に約束された。

 だから安心すれば良いとは思った。

 そんなこんなで色々あって、今川館にて菊姫と共に挨拶をし、その後も色々あってようやく大井川城へと戻って来てくる。


「ようやくゆっくり出来そうだな」

「ようやくにございます」


 昌友は俺の側に控え、時真は城の者を全員広間に集めるために走って行った。現状俺の前にいるのは昌友と俺の身内、菊姫と武田より一色家にうつる一行、そして城の到着を出迎えてくれた主要な家臣達である。


「みなに挨拶をする前に、そなたらに改めて挨拶をしておくべきであろうな」


 菊姫と側に控えている者たちが頭を下げた。さすがに先日のこともある。

 余所から人を迎える場合は、嫌でも慎重になる。俺は菊姫の側にいる男に目をやった。

 そもそも迎え入れた時点で挨拶をされたのだが、武田は思った以上に優秀な男を一色へと送り込んできたものだ。

 最初耳を疑ったからな。


「改めて、一色政孝である。まだ実感はわかぬであろうがそなたの夫となる。甲斐より遠く離れた地で過ごすのは大変であろうが、とりあえずゆっくり慣れてくれればよい」

「ご配慮感謝いたします。今後は一色家の一員として殿をお支えいたします」


 菊姫はたしか高瀬より少し幼いくらいのはず。だが流石に信玄の娘であっただけはある。

 武家の女である立ち振る舞いは高瀬より出来ており、そして既に整った顔立ちは、幼さすらも感じさせないものであった。

 久と初めて会ったときも見惚れたが、菊姫からは別の種類の感情を抱いてしまう。

 だからといって節操ない行いをすることはないのだが。


「昌続も今後は一色をよく支えてくれ」

「かしこまりました」


 土屋つちや昌続まさつぐは武田家より、菊姫と共に大井川城へとやってきた者の1人である。

 そしてこの男、真田昌幸と同様に奥近習六人衆の1人であり、信玄に寵愛された者の1人であった。奥近習六人衆には『昌』の字が与えられたそうで、昌続も信玄より貰った名であるようだ。


「殿、お待たせいたしました。城の者、全員揃いました」


 時真がやってくる。広間にはたしかに多くの者たちが集まっているが、こうして全員集合するのはおそらく久が輿入れしてきたとき以来では無いだろうか。

 あの時よりも人が増えたということは、一色家も繁栄している証拠であろう。


「菊、隣へ」

「はい」


 昌続は外へとはけ、菊姫は・・・、菊は俺の隣へと座った。その様子を母や久が見極めるようにジッと見ていたが、これは最早恒例行事のようなもの。

 菊も気にした様子は無く、堂々と正面を見ていた。


「武田家より参られた菊である。俺の新たな室として迎え入れる。慣れぬ地である故、何かあればみなも助けてやって欲しい」


 俺の言葉にみなが頭を下げた。やはり懐かしい感覚が呼び起こされる。


「菊、何かいいたいことはあるか?」

「よろしいのですか?」

「遠慮無く申せ、今の内に言いたいことを言っておかねば、こうもみなが揃う機会などそうそう訪れはせぬ」

「では」


 すでに正されていた姿勢を改めて伸ばすと、菊は正面に軽く一礼した。それは対等な関係で無いが故の動作であったのかも知れない。かつては名門であったとはいえ、武田は今川に臣従するという選択をした。

 だからこそ菊はその立場を明確にするべく、一度みなに頭を下げたのだ。


「菊と申します。此度ご縁がありこの地へと輿入れすることとなりました。私の出自より色々思われる御方がおられるかもしれません。私もそのことは覚悟しております。ですが、私は今後一色家の為に、政孝様のためにこの身を捧げるとお誓いいたします。ですので、私を含め武田より参りましたこの者たちのこともどうかよろしくお願いいたします!」


 菊は再び頭を下げると、昌続らも慌てて頭を下げる。まさか自分たちのことも話すとは思っていなかったのだろう。

 だが顔を上げた菊は満足げに頷いた。どうやら言いたいことは言えたらしい。


「そういうことだ。菊につれない態度をとった者は俺が許さぬ、みなもそう心がけよ」

「「はっ!」」


 昌友と時真の返事と共に再びみなが頭を下げる。久や母は嬉しげに見ていたな。


「とはいえ、まぁ追々慣れていくであろう。それと言うまでも無いとは思うが、俺と菊の婚姻は今川と武田の関係を象徴するものである。そのことも決して忘れぬようにな」


 というわけで解散した。多くの者は持ち場に戻り、主だった者たちが広間へと残る。

 昌続のこともある。

 今後は一色に馴染んで貰わねばならぬからな。


「久、菊を部屋に案内してやってくれ」

「かしこまりました」

「私も参りましょう」


 久と母が立ち上がると、菊にはそれに付いていくように合図した。菊は頷くと、甲斐より同行した侍女と共に広間をあとにする。


「疲れた・・・」

「殿、気が緩みすぎにございます。昌続殿も驚いていらっしゃる」

「いえ、某は」


 首をぶんぶんと振ってはいたが、少し動揺していた。そんなことはどうでもよい。

 それよりもこうして主だった者たちを残したのには理由があるのだ。だがその前にしておくべきことがあった。


「昌続殿、気を悪くして貰いたくないのだが聞いて貰いたいことがある」


 俺はかつて今川家で起きたことを話した。先日町田興勝の首を北条に送ったのだが、その原因となった話も全て伝えた。

 俺が余所からの家臣を信じられぬことを先に話しておかねば、今後また同じ事を繰り返してしまう可能性がある。

 だから先に話しておくのだ。

 昌続殿は真剣な表情で最後まで話を聞いてくれていた。


「なるほど・・・。では私の本心も申させていただきます。私の主は昔も今も御屋形様・・・、ご隠居様だけにございます。ですが菊姫様はご隠居様が某に託された大切な御方、故に政孝様が姫様を大事にしていただける限りは某も一色家に忠義を尽くしたいと思っております。都合の良い話であると思われるかもしれませぬが」

「いやそれで良い。むしろそう言って貰えた方がよほど信用出来る」


 昌友や信綱が確かに、と頷いていた。重治は何故か楽しげに昌続を見ていた。

 そういえば信綱が俺に仕官した際も同じような表情をしていた気がする。


「まぁ確認はもう良いか。あまりこの手の話をされて気持ちよくも無いだろうしな。早速本題に移る」


 四臣と各奉行の者たち、水陸の指揮官にその他重要な用件を任せる者たちが集まるこの場で俺は話し始めた。


「まずは商人だ。関東へ者を入れるのは一時控えさせる。だがこれは商人の利益に直結する事態。一色としては強制しないが、水軍からの護衛も出さぬ。そのことを庄兵衛に・・・、いや新たな長に伝えよ」

「かしこまりました」


 未だ長の座は空白のままである。正確には庄兵衛であるのだが、暮石屋はすでに喜八郎へと代替わりしておるため庄兵衛は隠居の身。


「不満に思う者がいれば、一時的とはいえ安房や上総に入れてやるが良い。義弘が気をよくするであろう」

「ではそのようにも伝えておきます」

「頼むぞ」


 昌友は頷いた。


「水軍の増強にあたって、抱え大筒が圧倒的に不足している。雑賀より購入したいと思っているのだが、その分の金を捻出することは可能であろうか」

「・・・急ぎの用件であれば、他に回すはずであった金を削れば多少は」


 時真は昌友に確認をとりながら答えた。

 出せるのであれば良い。今は一刻も早く戦える状況に持っていかなければならない。民が困窮するような事態になるのであれば抱え大筒の購入は見送るが、そうでないのであればなるべく買っておきたいところ。


「狐島吉次に人をやれ。優先的にこちらに回して貰うのだ」

「ではそのように」


 時真も頭を下げる。その後も適時指示をしていき、命を受けた者たちはそのまま広間から出て行った。

 残ったのは重治と道房、そして昌続だけであった。


「重治、しばらく城を出てくれぬか?」

「・・・何故そのような回りくどい言い方を?調略を、と申されれば良いではありませぬか」

「驚く顔が見たかったのだ。まぁその通りなのだがな」

「それで私はどちらへ向かえばよろしいでしょうか?上杉は北信濃の統治を比較的上手く進めております。越後とは大違いにございますね」

「北信濃に戻った者たちは上杉家に大恩があるからな。だが俺が狙うのは上杉では無い。そちらはいずれな」

「では北条にございますか?北条家は前の御家騒動で、現当主に不満を持つ者は大方一掃されております。調略に乗ってくる者がいるとも思えませぬが」

「たしかにそちらはそうだろう。俺がしたいのは、今川の裏切り者を浮かび上がらせたい。そのために北条を使うのだ」


 おそらく両家がぶつかるであろう河東地域。あの地は今川の家臣に限らず、北条や武田の家臣も他の大名家の顔色をうかがいながら生きてきた。

 故に寝返りやすいし裏切りやすい。

 元よりあの地を任される者は、どこまでも信用出来ぬのだ。

 今まではそれでもどうにかやってこれた。だが此度の戦はそうもいかぬ。

 氏真様も手を回されているようだが、俺もある程度は動いておきたかった。


「ではそのように。方法は任せていただいてもよろしいのでしょうか?」

「任せる。もし必要であれば栄衆も使え」

「かしこまりました」


 重治は楽しげに出て行った。そしていよいよ残るは道房と昌続だけである。


「お前達2人には付いてきてもらいたい」

「ついて行くとは?どこかに出られるのでございますか?」

「あぁ、少々呼ばれていてな。昌秋と護衛の者も数人連れてちょっと遠出だ」

「遠出、にございますか」


 昌続も話しについていけないようで、ただ呆気にとられた様子でそう呟く。

 これから目指すのは、泰朝殿の居城である掛川城。ようやくあの御方とゆっくり話す機会に恵まれたわ。

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