227話 緩衝国上野
大井川城下 一色政孝
1569年冬
「やぁーー!」
「えいっ!!」
俺の目の前では懸命に木刀を振る鶴丸の姿があった。かつての俺と同じく、じゃっかん身体に合っていない木刀に振り回されているのが妙に微笑ましい。
ちなみに今日この場にいるのは、鶴丸と虎松、昌友の長子である亀吉の3人だ。他にも数人、一色の家臣の子が通っているが今日はこれだけだった。
「茶でも如何ですか?最近良質なものが手に入ったのです」
俺の側へやって来たのは、この道場の主である主水であった。まだこの地にたどりついて数日しか経っていないというのに、道場には様々な身分の者で溢れている。
その事実がこの者がどれだけ優れた剣術家であるのか証明していた。
「頂こう。それとこの道場の主はおぬしであろう?あまりかしこまると、門下の者どもが困惑するぞ」
「それは政孝様を知らぬ者であればです。みなこの地の民であり、政孝様の事をよく知っております。私が腰を低くしてもなんら疑問に思いますまい」
「確かにそうか」
俺は主水の言葉に納得して茶をもらった。たしかに美味しいが、まぁ飲み慣れた茶だ。
前世ではほとんど意識したことはないが、やはりこの地の茶は美味い。
特に駿河の足窪から取り寄せる茶は絶品であった。
「それで今日はどうしてこのような場へ?」
「鶴丸の様子を見に来た。いずれ一色を継ぐのだから、一度くらいその稽古を見ておくべきであると思ってな」
「なるほど・・・。ですがそれは城でも見ることができるはず」
「そういうことだ」
俺が頷くと、主水は立ち上がって俺を奥の部屋へと案内する。この場は主水に従いこの地にやって来た弟子達が見るらしい。
時宗にあとのことを頼み、昌秋と共に主水について行った。
「それでわざわざ私の元へやって来られて、いったい何をお知りになりたいのですか?」
「主水、いや上泉泰綱と呼んだ方が良いだろうか?」
「・・・いったい何を言われているのやら。私の名は主水であり、それ以外の何者でもございません」
「そう緊張するな。何も北条や上杉に引き渡そうというのではない」
俺の言葉に主水は小さく動揺した。昌秋がいる手前、迂闊なことは口に出せない。表面上は栄衆の情報収集結果としておくが、本当はこの男のことを知っているだけなのだ。
「何故私のことをお調べになられたので?」
「簡単なことだ。何故この地に道場を開こうと思った?剣術というのであれば塚原卜伝を師に持ち、その腕を認められた氏真様のおられる駿河の領内の方がその価値が認められよう。だが何故かこの地に来た」
俺には隠れた理由があるように思える。それは先日とある理由でこの地に逃れてきた者とまさに同じであるように感じた。
その者とは江原久作。
この地は商人の出入りが激しい。北畠の追っ手もここまでは探せぬだろうし、万が一があったとしても身を隠すことが出来ると考えたと言っていた。
主水が上野で城を持っていたにも関わらず、何故かこの地に流れ着いた。その理由はまさにそれであると思う。
「たしかに。政孝様の領内に滞在させて頂いている最中に面倒事を起こすのは、私としても不本意にございます。全て話させて頂きます」
観念したかのように主水は話し始めた。
「ことの発端は北条に我らが故郷を落とされたことにございます。我が祖父は北条との戦に敗れ城を失い、その後長野家の家来となりました。長野家は山内上杉家に仕えており、北条による上野侵攻の際に上杉憲政様が越後へ逃れられた後も必死に北条や武田の侵攻に抵抗いたしておりました」
この辺までは史実と一致する。だが以降の史実と違うのは武田の西上野侵攻において箕輪城が落城していないため、長野家が滅亡していないという点。
だがそれだと、何故主家が滅亡していないのに、この地に主水が流れ着いているかの説明がつかなかった。
「ですが関東管領と山内上杉家の家督が越後の政虎殿に継承されてからは変わってしまった。上野は政虎様の名の下に再編され、北条や武田に対する防衛策が練られたのです。そしてそれは我が上泉家の城や領地にまで影響を及ぼした」
「越後の将が上野の城に入ったということか?」
「その通りにございます。祖父より家督を譲られた父、
一呼吸あけた主水は俺の顔を正面から見た。その表情にはまた覚悟が読み取れる。
「私は上杉家の重臣であった
その後のことはある程度聞いている。袂を分かった嫡男氏政の兵により、氏康は討ち取られた。
氏康に加担した者らは、氏政に従う者らに討伐され関東は平和を取り戻す。上野の大部分は山内上杉家に返還され、越後へと避難していた上杉憲政は居城であった平井城へと帰還。かつて城に置き去りにしていた龍若丸は氏政の命で生きており、山内上杉の嫡男として平井城へと戻されたのだ。
「その通りにございます。私はどうしても生まれ育った上野の地を離れることが出来ず、憲政様にお許しを頂いてその地に残りました。当然ですが領地は減らされております。そして北条・上杉両家の間で交わされたその盟約の中には上野を緩衝地帯とし、両家の衝突を防ぐ旨のことも含まれておりました。ですが山内上杉家内で問題が起きてしまった」
その言葉になんとなく察しがついてしまった。史実で上野に憲政に置き去りにされた龍若丸は北条によって殺されている。
この世界線では生きていたが、果たして置き去りにして越後へと逃れた父を許すことが出来るであろうか。それも他人に頼り、どうにか城に戻してもらったような有様である。
「父子の溝は思ったよりも深いか」
「それはもう。そして龍若丸様に付き従い北条と戦い死を覚悟した者らも、憲政様に対して不信感を抱いております」
「それは色々と良くないな。両家が上野を緩衝地帯としておきながら、その上野で争いが起きれば周辺大名の介入理由を与えることとなる」
「その通りにございます。故に別に密約が交わされた。越後上杉家は関東管領職を今代限りのものとし、上杉政虎様以降は再び山内上杉家の嫡流に任命することを約束。代わりに上野の監視、場合によっては介入を越後上杉家が担うことを北条との間で取り決めました。そして政虎様は山内上杉家の家督を再び憲政様に返還したのです」
厄介すぎて頭がついていかない。
簡単に言えば、関東管領職と山内上杉家の家督を返還することを政虎は約束した。また無用な衝突を避けるために、上野で有事の際には越後上杉家が介入する。北条は手を出すな。
それによって北条家に生じる利とは、関東への越後上杉家の侵攻・介入を極限にまで減らすことが出来るということ。関東管領であることを理由に関東の平和を守る兵が上杉憲政か、はたまた上杉政虎かといわれれば確かに憲政を選ぶだろう。敵としてどこまで脅威であるのか、という話だ。
北条は上野の支配権を実質的に失うことで、厄介な敵を予め排除したのだ。それに同盟まで成ったのだから、上野一国にこだわる必要は無いだろう。武蔵も手に入れたのだからな。
「憲政様は政虎様の判断に大変お喜びになられました。父子の仲が険悪であるというのは、あくまで龍若丸様からの一方的なものですので。そして憲政様は龍若丸様のために、徹底的に上野の支配をされ始めた。まず最初に行われたのが不穏な御家の討伐にございます」
「北条に加担した主水は身の危険を感じたか」
「はい。あの離反の先頭に立った北条高広殿は、上杉政虎様のお許しを得て越後へと戻られました。他の方々も多くは高広殿の家臣や一族の方達です。ですが元より上野に根を張っていた我らは違った」
「だから城と領地を捨てて放浪の身となったのだな?」
「そのとおりにございます。この地を選んだのは人の出入りが多い故に目立たぬと考えたためにございます。道場を開いたのはかねてからの願いであったため。きっと今もどこにいるのか分からぬ、祖父に憧れを抱いたのやもしれません。ですが・・・」
なんとなく主水が言おうとしていることはわかった。謀反人であることを知られてしまえば、居場所はなくなる。
俺が大井川領から追い出すと思ったのであろう。
「よく話してくれた。おかげで上野の情勢がよく分かった」
「いえ、本来ならば先に話しておくべき事にございます。それを隠していたのは私の甘え。今後はこの道場を閉め、政孝様にご迷惑のかからぬ地へと旅立つよう、すぐに支度を」
「何故だ?そう慌てずとも、鶴丸が立派に元服するくらいまでは面倒を見てやってはくれぬか?」
「・・・な、何故にございます」
「何故、か。恥ずかしながら俺は刀の腕がからっきしなのだ。鶴丸には教えられぬ。だから主水に頼もうと思ってな」
それに謀反人の1人や2人増えたところで今更変わらん。虎松や虎上殿、高瀬といった井伊一族もそうであるが、おそらく滞在している竹中という男がもし思うとおりならば主殺しの大罪人である。
そこに主水が増えたところで何も問題は無いだろう。それに家臣ではない。
この時代にそこまで出生に関して細かい調べはないのだから、知人に出くわさない限りは問題も起きぬだろう。
「・・・本当によろしいのでしょうか?もし政孝様にご迷惑がかかるやもしれぬと思うと」
「そうなれば共に逃げるか。俺も色々したいことがあるからな。まずは商人にでもなろうかな」
「殿!お戯れが過ぎますぞ」
「分かっている」
昌秋に咎められて俺は口を閉ざし、改めて主水を見た。
「・・・政孝様の覚悟、しかと見させて頂きました」
「それほどのことでもなかっただろう?」
俺は笑ったが主水は黙ったままであった。
「ではもう少し、この地にて道場を営ませて頂きます」
「あぁ、よろしく頼むぞ」
その後俺は子らを連れて城へと戻った。今日の話、氏真様にも報告を入れておくとしよう。
今後の対上杉の方針も変わってきそうだな。
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