190話 甘い蜜
今川館 一色政孝
1567年春
「信濃より大井川城に帰還した日、家臣の者よりとある物を受け取りました。それがこちらにございます」
懐より文を取り出して俺は自身の目の前に差し出した。
氏真様の小姓がそれを取りに来て、上座に座っている氏真様に手渡し引き下がる。
「これはなんである」
「一色家が拝領した港に尾張の商人が寄港した際、代官を任せていた者に託した文にございます」
"尾張"という言葉に周りは過剰な反応を示す。信濃進行時に織田も信濃へ兵を進めていると発覚した時と同じような雰囲気だった。
だが今はまだ俺の番である。
話を止めることなく、此度持ちかけられた話を進めた。
「中を確認しましたが、文の最後には織田の紋が押されており本物であると思われます。差出人は織田家当主、織田信長殿」
「織田だと!?」
最初に反応したのは、やはり元信殿であった。先日のアレがうまく作用してくれていればと思うが、現状判断は付かない。
しかし元信殿の驚きは、織田を敵視し続けている方々に連鎖した。
その中には内心織田をどう思っているのかは分からないものの、とりあえず俺を嫌っている方々も含まれている。
「織田の手の者と知ってそのまま帰したのか?」
「織田の手とは言いますが、相手は正真正銘商人にございます。それは港を管理している者らが確認しておりますので、間違いはありません」
真っ先に噛みついてきたのは、久の師が雪斎様であると知らず先走って罵倒したうちの1人である孕石元泰殿だ。
これぞ好機と言わんばかりに周りに反一色感情を持たせるように話されている。だがそれに同調するのは間違いなくあの方々。
「商人であろうと織田の息がかかっておるのだろう?そもそも今川家の仇敵である織田の船を港に入れているとはどういうことか」
「それは反逆行為ではないのか?」
などなど、元から俺を嫌っている方々が好き放題言い始める。
横から小さくため息が聞こえたが、泰朝殿の援護はまだ先のようだ。何も言うつもりがないらしく、ただ顔を顰めておられた。
「一色家の財源は商人にあります。商家の保護を率先している我らが商人を殺せば、その信は無くなり貴重な財源を潰すことになる」
「財源などいくらでも作りようがあろう。それとも先代当主の遺産にすがりつくつもりですかな?」
嘲笑の含まれた笑いに我慢の糸が1本切れた気がした。だいたい先代当主の遺産にすがりついている最たる者は、間違いなく俺を一番小馬鹿にしている葛山氏元殿だ。
養父である氏広殿が北条の出身であるということと、代々葛山家が有している領地が今川・北条・武田の国境沿いであるという戦略的要所であるという点から随分と大きな顔をしている。
何かにつけて後ろ盾である北条家をちらつかせ、高位の地位を手に入れているのだ。
もし仮に俺が父上の残した物にすがりついて甘い蜜を吸っていたのだとしても、そのことを氏元殿に笑われる筋合いなど決して無い。
そもそも今の大井川領の発展は、先代当主様方の築き上げてきた土台の上に俺も上乗せした成果であると自負している。
それをあのように言われれば黙っているわけにもいかなかった。
「氏元殿、1つよろしいですか?」
「な、なんだ?」
「北条家の支援は得られそうですか?」
ガヤを飛ばしていた者らまでもが静まりかえる。
俺の言葉は氏元殿を慌てさせるには十分だった。
「何を言っているのかさっぱりだ」
「本当にさっぱりでしょうか?先日、今川家と北条家の将来的な同盟の決裂が確定いたしました。氏元殿は北条家へ寝返る算段を立てているのではないかと思ったのですが?」
「でたらめを申すでない!だいたいなんの根拠があってそのようなことを!」
「いえ、今はまだ根拠と呼べるものはないのですが、いずれわかる日が来ましょう」
大井川城を発とうとした日、栄衆より1つの報告が上がった。信濃に潜伏していたと思われていた井伊直盛は武田領を用いて北条領へと逃げ込んでいたのだという。
そして御家騒動の最中、今川との関係が絶望的とみた北条氏政はかつて武田との戦の原因となった井伊直盛を抱え込んだ。
割と驚きの事実が判明していた。そしてその井伊はというと、今川領の各地に間者を忍び込ませていたのだ。
当然だが一色領にも入り込んでいた。数人が昌友配下の者に捕らえられ、拷問にかけたが口を割らず昌友の手で斬っている。
直盛は今川に反感を持っているものの、未だ表明していない者にも声をかけており、どうやらその中には葛山家も含まれていたようなのだ。しかし確たる証拠が無い。
だから疑惑を持たせるだけにはなるが、今はそれでも十分だろう。
たとえ今、氏元殿が反旗を翻しても北条は不可侵同盟があるから介入はしてこない。武田も今や虫の息だ。誰も助けてはくれない、孤立無援な状況に陥る。
「・・・憶測で1つの家を潰すおつもりか」
「同じ事をあなた方も申したではありませんか?いや、違うな。ほとんど全軍を信濃や甲斐に向けていた最中、私の家臣が織田の商人を斬って織田家が怒り狂い三河に攻め寄せれば、一色だけでは済まなかったでしょう。今あなた方が言ったのはそういう事です」
「・・・」
氏元殿は黙ってしまった。言い過ぎただろうか?
俺は視線を正面に戻して、それとなく両隣や氏真様、そして早川殿を見た。
誰も特に俺を咎めるような表情をしていないが、逆に氏元殿を見る目は厳しい。
「氏元」
「はっ!」
「今の政孝の話は本当なのか?」
「全くの作り話にございます!私は先代義元公より生涯今川家に尽くすと誓っておりますので」
「ならばよい。政孝も憶測で家中の和を乱すでない」
「申し訳ありませぬ」
しかし十分に釘は刺せただろう。少なくとも氏元殿が動けるのは3年後。
果たしてそれまでにどう状況が変わるか、そこが重要である。
「話を戻しますが、織田からは今川家と同盟を結びたいとのことにございます」
先ほどのことがあったからだろうか。俺が憶測で氏真様の信用を落とす発言を無闇矢鱈に仕掛けてくると思われたのかも知れない。
ザワつきはするものの、誰も声を上げて罵倒してくるようなことは無かった。
「信長の同腹の妹である市姫を氏真様に嫁がせたい、と。それで同盟を組むよう提案してあります」
「お方様は如何するのだ?」
「しかし北条とは手切れであるぞ・・・」
背後が一段と騒がしくなった。だが氏真様が咳払いすることで収まる。
「私が正室で居続けるのは殿にとってもよろしいことではありません。私は正室から退き、この席を譲ってもよいと考えております。それが例え誰であったとしてもです」
早川殿からの言葉は暗に織田との同盟を支持していると言っているようなものだ。だが流石に早川殿に大きな決定権があるわけでもない。
「春、本当にそれでよいのか?無理を強要するつもりは」
「殿!しっかりしてください!あなた様は私の夫であると同時に、この場にいるみなの主なのです。あなた様がしっかりしなくてはあの日のようにまた家中は混乱します。殿はいったい今のお話、どのように考えられているのですか?」
泰朝殿の文にあったとおりだ。すでに早川殿も織田との同盟に賛成してくださっていた。だからこの場で演技をしてくださったのだと思うが、多少本音も混ざっているのでは無いだろうか?
氏真様が微妙にたじろがれた。
「・・・春、すまぬ。・・・麻呂は織田と同盟を組んでもよいと考えておる。もはや東海の安寧は守られたのだ。そして新たな敵が着々と戦支度を進めている」
「上杉と北条、にございますね」
泰朝殿の言葉に氏真様は頷かれた。
「両国の同盟は間違いなく我らを敵と想定したものである。現に関東方面を北条は完璧に掌握するように動いているのだ。誰の目にも明らかであろう」
「北条との同盟も3年で終わる。上杉とも共闘はしたものの、同盟までは出来ていない。今は新たな脅威に備えるべきであるとお考えなのですね」
「そうだ。故に麻呂は織田の提案に乗ると決めた。異論のある者はおるか」
先ほど氏元殿を牽制したからだろうか?思った以上に氏真様の判断に反対する者はいなかった。
というよりも異議の1つもあがらない。
「春、決して不便はかけぬ故許してくれ」
「あまり気負わないでください。これは私が決めたことでもあるので」
最後まで氏真様夫妻は仲がよさげで安心した。
織田への同盟承知の返答は俺では無く、正式に氏真様より遣わされることとなる。
絶対にあり得ないと思われていた、今川・織田の同盟はここに決定されたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます