176話 北条分裂の余波
下山城 今川氏真
1566年秋
「殿、これ以上甲斐領内に入るのは厳しそうにございます。思った以上に馬場・穴山両家の抵抗が激しく、陣を整える隙さえ与えてくれませぬ」
「穴山と馬場の親族だけでも人質として捕らえておきたいと思ったが、どうやら厳しそうであるな」
甲斐侵攻の先行隊と合流した麻呂達は、
しかし本来の目的としていた、親族らの捕縛はあえなく失敗してしまう。
さらにこの地より北東に位置する馬場氏館より援軍を得て、こちらの邪魔立てを何度もしてくるのだ。
「忠胤殿らを奇襲してきた一条信龍を退けることには成功したが、それ以降はあまり成果がありませぬ」
「いえ、あの日ほど正綱殿に感謝した日はありませんよ」
先行隊の大将を任せていた
「正綱、功を焦ってはならぬ。麻呂達が功を上げるのではなく、他の者らが上げてくれれば今川としては十分なのだ」
「確かにその通りでございました。そのために我らは敵地に残り敵をおびき出しているのでございましたな」
「そういうことだ。今後も武田は我らを駿河へ押し返そうと攻撃をしてくるはず。直に他方面からも援軍が寄越されるやもしれん。気を抜かずにな」
2人は頭を下げて部屋より出て行った。
これまで数度にわたる武田の攻撃を退けた者らの話によれば、馬場家の援軍は
昌房は重臣馬場信春の嫡子。
親が親なら子も子である。手強い。何度でもやってくる。
しかし決して退いてはならぬ。むしろ麻呂達が他戦線より敵を引き抜かせねばならぬのだ。
「殿、こちらにおられましたか」
「氏元か、如何したのだ?」
突如部屋へと入ってきたのは葛山氏元。
麻呂はこの男が信用出来ぬ。葛山家の領地は今川・武田・北条との国境にあり、古くより良くも悪くも三家とは深い繋がりがある。
この男の父である葛山氏広は、北条家の祖である北条早雲様の三男であった。葛山家に養子入りし、葛山が属していた今川家に出仕したのはよいが、父上と北条氏綱様が戦った河東の乱では氏綱様について今川と戦っている。
そんな氏広に葛山家より養子入りし、その跡を継いだのがこの男氏元なのだ。
そして麻呂が嫌っている最たる理由は、麻呂が信頼している1人である政孝を毛嫌いしていること。
一色家は遠江が今川領になって以降ずっと忠義を尽くしてくれている御家である。一門衆になったのも父上がその事実を認めたからなのだ。
だが駿河衆の一部の者はそれが面白くない。一度は今川を裏切っておきながら何を言っているのかという話ではあるが、都合の悪いことは忘れてしまうようでそれが余計に麻呂を腹立たせた。
「葛山城より報せがありました。何やら北条できな臭いことが起きているようにございます」
「北条で?詳細は分からぬか?」
「はい。ですが伊豆方面の北条家臣らが活発に動いているようにございます」
北条が盟約に背いての撤退。そして上杉も盟約に背いて関東方面で兵を動員した。
どちらかが必ず麻呂達を裏切っている。でなければ、このような事態が起きるはずは無い。
「殿、私は伊豆方面を警戒するべきであると考えます」
「・・・麻呂も同意見である。今駿河の東側は手薄。北条を全面的に信頼したからではあるが、もはやそのような事も言ってられぬ」
「はっ!ですので我らに撤退、そして北条との国境防衛のご指示をお願いしたいのです」
信用していないとはいえ、前線から人を引き抜くのは難しい判断である。しかし本国を攻められるのは拙い。
今北条との国境はがら空きであるからな。
「わかった。兵を退くことを許す。急ぎ伊豆国境の警戒をせよ」
「はっ!お任せくだされ」
氏元はそれ以上は何も言わずに部屋を後にした。
しかし此度の戦に集中していたとはいえ、本国を手薄にしてしまったのは失敗であったか。
氏元が何も言ってこなければ、背後を突かれていたやもしれぬ。
だが・・・、葛山家か。麻呂にとって不安の種はまだまだ尽きぬのやもしれぬな。
塩崎城周辺 直江景綱
1566年秋
「殿、
「うむ」
殿は現在包囲中の塩崎城をただ黙して見上げられている。これまで何度も周辺の城からの奇襲を仕掛けられたが、前回の川中島でのこともあり、我ら上杉勢の奇襲への備えは完璧であった。
そして逆に敵援軍の出所を探り、塩崎城と共に我らの足止めに動いている城の攻略を進めておる。
「義清は張り切っておった」
「屋代家は村上家の庶家にございますので。さらに今代の当主である
「義清の心中は察する。我も側近に裏切られることは多々あった」
「残った者らで殿をお支えいたします」
殿はあまり感情を露わにされない御方。だがたまにこうして強い感情が表に出てこられる。それを見ると殿も人の子なのだと安心出来た。
「景綱、信用しているぞ」
「勿体なきお言葉にございます」
「して、憲政様の方はどうなっておる」
儂は思わず口を強く結んでしまった。景家殿からの報せでは未だ沼田城に滞在されているというからだ。
殿は早々に箕輪城で助けを求めておられる長野業盛殿の救援を別働隊に命じられた。だが何故か憲政様は兵を動かさないとのこと。
しかし問いに答えぬ訳にもいかぬし、嘘をつくわけにもいかぬ。
ここは正直に話すほかないであろう。
「景家殿からの報告では未だ沼田城に滞在されているとのこと。しかしこの報せ自体少し前のことですので、今は・・・」
そう言いかけたところで何者かが走り寄ってくる音が聞こえた。
「景綱様」
「・・・今大事な話し中である。あとにせよ」
殿は腕組みをされているが、その手に僅かばかり力がこもったのも確認済みである。これはお怒りやもしれぬな。
そう思いチラッと背後を見ると、走ってきた者は困惑した様子でその場に残っておった。
「先ほども言ったであろう。あとで」
「構わぬ。我がおっても問題はないか?」
「もちろんにございます!」
その者は慌てて平伏し、そして懐より1枚の紙を差し出した。一瞬刀に手をかけたが、差し出された物を見てその手を離す。
受け取り中を確認してみると、差出人はちょうど話に出ていた景家殿であった。
「殿、こちらを」
「景家か」
殿はその紙を広げられ、ただ黙々とその内容を読まれた。だが時間が経つにつれ、その様は非常に厳しいものとなる。
そして無言でそれを儂に差し出された。
「これを託されたのはいつのことか」
「はっ!数日ほど前にございます。急ぎのことだと言われましたので急ぎ運んだ次第にございます」
「数日前、か」
殿と景家殿の使いの者との会話を聞きながら、その文を読んだがどうやらこれはあまり良くない話であった。
憲政様は厩橋城に入っている北条高広殿から送られてきた文を見て、沼田城から動かれていないようなのだ。
その内容は関東方面の上杉勢を武田領に進軍し敵の兵を分散させるため、今しばらく待って欲しいというものなのだ。
今川家との盟約のため、あちらの者らの武装は解除させておる。そして此度の戦が終わるまであの地の軍事的活動は控えねばならぬのだ。
ならば何故高広殿が兵をおこす。理由は1つしか思い当たらぬ。
「景綱、我らはもたつくことを許されぬ状況となった」
「そのようにございますね」
「城攻めを任せた将らに使いを送るのだ。これより迅速に信濃を制する。信濃より上野に兵を進め、裏切り者を滅するのだ」
「はっ!ではそのように」
「その方、急ぎ景家に伝えよ。脅してでも構わぬ。憲政様を箕輪城へと向かわせよ」
「はっ!!」
殿の迫力にその男は怯えた表情で外へと駆けでていった。
「塩崎城主、真田幸隆に降伏の使者を送るのだ。拒絶したら最後、我らはこれより塩崎城を落とす」
「かしこまりました」
真田幸隆よ、そなたの知略を失うのはまことに大きな事である。大人しく降伏し、我らに服従してくれれば良いのだがな。
しかし儂の願いが叶わぬ事はすぐに報された。これより我ら上杉勢は信濃を取り返す。
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