165話 武田包囲網の目的

 波木井はきい城跡 今川氏真


 1566年夏


「殿、どうやら先行隊はこの地で休息をとったようにございます。形跡より出立したのはそれほど前ではなさそうですな」

「では麻呂達も一度兵を休めよう。よくここまで休息無しでついてきてくれたものだ」


 波木井城とはかつて武田に仕えていた波木井一族が入っていた城である。三国同盟が成る前、お祖父様の時代に波木井城城主であった波木井はきい義実よしざねは今川に内通し武田信虎殿に滅ぼされた。

 その際にこの城も廃城となり、今はその跡だけが残っている。

 そのような場所だ。

 だが40年程前の城跡であるが故に、何もないその辺りで兵を休ませるよりも幾分か良いと思われた。


「信忠、物見を放ち先行隊を捉えるよう命を出すのだ。麻呂達は先行隊に追いついてはならぬ」

「では武田方が万が一奇襲を仕掛けてきても救援には入らぬのですか?」

「いや、そうではない。先行隊はここまでよくやってくれておる。見殺しにするわけがない」

「では」

「奇襲を仕掛けてきたのであれば、そやつらにさらに奇襲を仕掛けてやるのだ。故に我ら後方支援隊を武田に勘づかせてはならぬ」


 納得した様子の信忠は早速物見を出すよう、その支度に向かった。


「正綱、南信濃の進行具合を知りたい。元信に使いを出してくれ」

「かしこまりました。兄上にあちらの詳細を送っていただきましょう」

「うむ、此度の甲斐侵攻。やはり麻呂はあまり深入りすべきではないと思うのだ」


 正綱はただ黙って聞いていた。

 反応を示さぬは最後まで聞いてからということであろう。麻呂もその続きを気にせず話した。


「甲斐は何やら不気味である。北条の撤退、そしてそれを知っていたかのような武田の守り。麻呂達はうまくおびき出されたように思えてならぬ」

「では如何いたしますか?駿河まで兵を退き、武田勢が駿河に入って来れぬよう防衛を行いましょうか?」

「いや、それはならぬ。他の地では危険を承知で前へ前へと進んでいるのだ。麻呂達が退けば、また今川は混乱する」

「では?」


 正綱はじれったそうに尋ねてくる。


「我らが此度おこした戦いの最優先目的はなんであった」

「井伊直盛の討伐と、同盟関係にありながら我らに揺さぶりをかけた武田への制裁にございます」

「つまり我らは武田家を弱らせることが出来れば、それで満足なはずだったのだ。だがちょうど上杉が北信濃や上野方面に兵を起こす時期と重なり、ことは大きくなった。したのは麻呂であるがな」


 正綱の表情は硬いままである。麻呂が何を言いたいのかわかったのか?

 いや、まだ流石に核心をついておらぬ。わからぬとも当然よ。


「甲斐の国を疲弊させる。たとえ甲斐の領民に恨まれようとも、今川が甲斐を支配するつもりはないのだ。問題はあるまい」

「直に秋がやって来ます。甲斐は元々米の出来が余りよくない土地柄」

「それを刈って、荒らす。武田はこれ以上の戦には臨めまい」


 当然わかっておる。甲斐とは山に囲まれており、元々米の収穫量も多くはない。故に周辺国に比べてよく飢饉が発生し、国も弱っていた。

 故に信虎殿の時代よりは外を外へと進出するようになったのだ。

 海があれば尚良い。

 信玄は越後を取れぬと判断すると、同盟関係にあった我らを敵とした。今川家中の対立を煽り、崩れた遠江から海への進出を目指した。

 唯一判断を誤ったのは、美濃か遠江どちらに進出するかというときに、上洛を意識して美濃へ兵を出し、織田信長に惨敗したこと。


「最早武田と手を取り合うことなどない。徹底的にやり返すのだ。麻呂達は武田領内をとにかく荒らし、敵の目をひく。他の者らが少しでも楽に戦えるようにな」

「かしこまりました。殿のお覚悟しかと胸に刻み、私もこの戦に臨みましょう」


 ただ唯一この戦で気がかりなことがある。それは信玄の嫡子義信の元へ嫁いだ妹のこと。

 嶺松院と呼ばれる妹は、今どのような状況なのか。

 氏政殿は三国同盟の破棄と同時に、妻である黄梅院殿を甲斐へと返されたそうだ。しかし武田からは何とも言ってこぬ。

 つまり2人は未だ離縁せずに、夫婦でいるということ。


「正綱、此度もしこちらが有利な状況で和睦を結べたら、妹を返すよう条件に加えることは可能であろうか?」

「嶺松院様にございますね。もはや甲駿同盟の決裂は決定にございます。あちらでのお立場も良くはないはず。条件次第では離縁していただき、殿の元へお連れすることも可能かと」

「・・・何としてでも勝つぞ。武田が弱るのは勝手である。だがそれに妹まで付き合わせる必要は無いのだ」


 正綱は強く頷くと、陣の外へと出て行った。

 麻呂も少し休むとしよう。日が明ければ、また兵を進める。

 必ずやこの戦で戦果を得るのだ。

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