99話 難しき決断
今川館 一色政孝
1564年春
氏真様の待つ部屋へと向かうと朝比奈泰朝殿がちょうど部屋から出るところだった。政次殿が頭を下げてすれ違う泰朝殿の横を通るのだが、泰朝殿の目は政次殿ではなく明らかに俺の後をついてきている虎松を見ていた。
先日のこともある。泰朝殿は毎回俺がこっそり動こうとしているときでも察知してくる。下手に隠し事をすれば、それが今川を守るためだとはいえ疑われてしまうだろう。
「泰朝殿にも是非同席していただきたいのですが」
「私にもですか?しかし人払いまでしてする話なのでしょう?」
「泰朝殿のことです。どうせいずれかは勘づかれるでしょう。それならば今の方がいい」
困った様子で泰朝殿は氏真様と政次殿を見た。政次殿も困惑顔であるが、氏真様はしきりに頷いている。
現状氏真様の側近の中で一番優秀な御方だからな、役に立たない側近達とはそもそも信頼度が違うだろう。
もしくは俺の話が手に負えないとお考えなのか。
「政孝がそう言っておるのだ。みな座るがよい」
「では遠慮無く」
「はっ」
泰朝殿も氏真様に言われれば座るしかない。政次殿も同様に。
氏真様の左右の下座に座る2人に挟まれる形で、俺と虎松は正面に座った。そして側仕えの者らがこの部屋の襖を全て閉め切り、外の廊下に控えることで盗み聞きの対策を行う。
正真正銘、この話を聞くのは俺達5人だけだ。
「まず聞こう。その童は何者である」
「この者の名は井伊虎松、先日武田へと寝返った井伊直盛の養子である井伊直親の遺児でございます」
「虎松と申します」
俺の紹介に合わせて虎松は名乗り、そして深くお辞儀をした。礼儀正しいことは相手に好印象を与える。やっておいて損はないだろう。
「井伊の遺児だというか・・・」
「実は先日暮石屋の元へ尼僧が訪ねてきたのです。その者は次郎法師と名乗りました」
「次郎法師?」
「直盛の娘で、出家し龍泰寺にて尼僧になっておった者です。元は直親の許嫁でありました。おそらくはその縁で頼りにされたのかと」
「なるほどな・・・」
氏真様は困り果てた様子で頷くと、チラッと虎松を見る。虎松は未だ緊張している様子であるが、物怖じをしている様子ではなかった。氏真様より向けられた視線を正面より受け止めている。
「そなたはどうしようと考えているのだ」
「直親殿は間違いなく今川の忠臣でありました。その御方から託されたこの子を私が見捨てるわけにはいきません」
っていう理由もあるが、やはり後世で有名となる井伊直政を見殺しにするわけにもいかなかった。
むしろそっちが第一の理由である。
「しかし井伊は松平に次いで家中より反感を持たれています。さらに井伊が内部で争ったことを多くの者が知らない今、その童が間違いなく今川の火種となりましょうぞ。匿った一色家は他の者らにどう思われるか・・・」
「もちろん虎松には井伊の名を名乗らせません。いつかは許していただきたいとも思っていますが、少なくともそれは今ではありません。それに今後万が一、井伊でのことが公になったとき、虎松の存在はみなを納得させることが出来ましょう」
「どういうことだ?」
氏真様は前のめりになって、その真意を尋ねられた。
「井伊が今川に尽くすよう命を賭けてまで直盛を説得しようとした直親は死んでしまったが、今川家はその忠義に報いるべく虎松を守った。もし一族総意で謀反に加担していた場合は前引馬城主の飯尾のように族滅されますが、行動を起こした直親は少し事情が異なりましょう」
「それでみなが納得するのか?」
「させるしかありませぬ。このことはここにいらっしゃる政次殿、さらに直盛の元妻の兄であった新野親矩殿も支持してくださっています」
以前三河で共に戦った親矩殿。その妹は直盛の妻だったのだが、井伊が今川から距離を取り始めた頃に親矩殿の命で離縁しているのだ。今は尼として名を
そして直盛による親今川派の粛正によって、直親同様に殺された奥山家だが、親矩殿の妻の出は奥山なのだそうだ。
そういう経緯もあったからこそ、親矩殿も俺の提案を支持してくれた。直盛の一連の行動は親矩殿の、そして新野の家を危険にさらしたのだから当然だ。
「親矩までもがか。泰朝、そなたはどう思う」
「・・・難しいですな」
今度は泰朝殿が虎松をジッと見つめた。流石に面と向かって「斬るべきです」なんて言い出さないとは思いたいが、そうなれば決死の覚悟で止めなければならない。
俺の欲望を抜きにしても、やはり保険はうっておくべきだと思う。
「少し考える時間が欲しい。また追って沙汰を下す、そのときは揃って麻呂の元へと来て欲しい」
「かしこまりました」
一瞬だが史実の今川家臣時代の井伊の末路を思い出した。史実の直親は、元康との内通の疑いをかけられ、その釈明のために駿河へと向かう道中、掛川城主である泰朝殿に襲撃されて殺されているのだ。
もし氏真様が虎松を不要と判断された場合、同じ事が起きかねない。
背中をつたう冷たい汗に、ひどく寒気を感じた。
「今日はここまでにする。政孝、またよろしく頼むぞ」
「はっ!」
氏真様が立ち上がり、閉められた襖を開けて部屋から出て行かれた。
しかし嫌な予感が抜けきらない俺はその場から動くことも忘れて、頭を下げたまま固まってしまっていた。
おそらくだがその場に残っている誰もが不審げに俺を見ているのだろう。
・・・やってはいけない一線を越えるべきか?栄衆を今川館に入れるか?氏真様の考えをどうにか探らせるべきか・・・。
「そういえば主様はお伝えされませなんだが、細川藤孝殿に関して重要な報せがあります」
泰朝殿の言葉は間違いなく俺にかけられたものだろう。意識はフッとこの場へと戻って来た。
「藤孝殿が如何されましたか?」
「現在今川は難しい選択に迫られている最中である。元は幕臣とはいえ、余所者を安易に側におくことは難しい。そういう事情もあり、以前より親交のあったという政孝殿を頼り大井川城にて世話になっては如何かということになった」
「私はそれでも構いませんが?」
「そうか。事後報告になったが、政孝殿が承諾してくれるのであればよかった。別室にて待機されているであろうから、共に城に戻られるが良い」
「ではそのようにさせていただきます」
それだけ伝えると泰朝殿も部屋から出て行かれた。残るは俺と虎松と政次殿のみ。
「ひとまずは乗り切ったということでよろしいのですかな」
「さて・・・、まだ氏真様はなんとも言われませなんだ。油断は出来ませぬな」
唸る俺達だったが、虎松が退屈そうに眺めていた。
「とにかく今日は城に戻ります。虎松も退屈そうですので」
「そうですな。とにかく我らは何があっても虎松殿の味方ですから」
ポンポンと頭に手をやった政次殿もまた部屋から出て行かれた。
「俺達も帰るとするか」
「かしこまりました。それと退屈はしていませんので」
不満げな虎松を連れた俺は、別室にて待機していた藤孝殿と合流して大井川城へと戻ったのだった。
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