第51話 不可解な撤退
大井川城 一色政孝
1562年謹賀新年
「おかえりなさいませ。今川館は如何でしたか?」
「そうだな。去年の正月に比べればだいぶマシであった」
「あまり楽観視は出来ないということですか?」
「そういうことだ」
謹賀新年は今川館で新年の挨拶をすることになったいた。先ほど大井川城へと戻って来たのだが、やはりこちらの方が落ち着く。
久にマシだと言った意味だが、昨年は離反に次ぐ離反でそもそも今川館に登城する者がかなり少なかった。もちろんその中には様子見をしていた者もいるだろう。
例えば井伊だ。
今年は去年の新年の挨拶に比べればあまり人が減っていない。滅ぼした家や切腹を言い渡された者らがいるにしてもまだマシな方だと思えた。
「それよりもよろしいのですか?みな旦那様が広間に人を集めるよう指示を出されるのを待っていますよ?」
「よい。小十郎を時宗の元にやったから当分は誰にも邪魔されず久と一緒にいられる」
だいたい、良いのかと聞いていながら膝枕から解放してくれないのは久の方だ。こんな姿、母や時宗に見られれば何を言われるかわからないが、もう夫婦なんだからいいじゃないか。だいたい昨年末、一色内は相当バタバタした。主に内政面でだ。
重要な案件の判断は当主である俺に求められる。あれにこれにと目が回るかと思った。
夜は多忙に絶えきれず全く久と共に過ごせておらず、家臣の中には俺達が不仲なのではと不安がる者までいたのだそうだ。その者には佐助が厳しく言い聞かせたらしい。
まぁ俺達の関係は今川のいち家臣の事とはいえ、注目されているのもまた事実。俺が久の元に通わないことを一色の家臣が不安に思うのもまた仕方がない話なのだ。
「難しいお顔をされていますね」
「あぁ、どうやって久と過ごす時間を増やすか考えていた」
「本当ですか?そのお気持ちだけで嬉しいのですが」
「しかしな、じいさん連中が騒ぐのだ。死ぬ前に俺の子が見たいと。あとは母上も孫の顔を一刻も早く見せろと、顔を合わせる度に言われる始末。だから俺が久の元に通わなかったことを相当不満に思われている」
今度は何も言わずにそっぽを向かれてしまった。聡明だが初心ではある。あの日は昂ぶっていたのだと言っていた。
「・・・本当のところを教えてください。殿は何を考えられていたのですか?」
「だから久と俺の子の」
そう言っている最中に頬を両手で挟まれた。前世の俺が知ったらのたうち回って羨ましがるやもしれない。久の顔が逃げられぬ俺の顔へズイッと寄ってきた。
「思い悩んでおいでなのは分かっております。みなを不安にさせたくないということもまた同様に。私では頼りになりませぬか?」
至近距離で見る久の顔はやはり可愛らしかった。ジッと見られれば今世の俺だって恥ずかしさが出てくる。顔を逸らそうにも頬を掴まれていて逃げられない。
もう降参しよう。久にごまかしは効かぬ。
「わかった。言うからその手を離してくれ」
「はい。わかりました」
満足そうに頷きながら手と顔を離した。膝枕からは解放してもらえない。
「落人より報せがあった。織田が尾張と美濃の国境より兵を退き始めている。俺の予想ではこれから本格的に美濃攻めが始まると思っていたんだがな」
「尾張で何かがあったということでしょうか」
「わからん。久は犬山城が落ちたことを知っているか?」
「はい。織田様が尾張を完全に掌握されたことは家中でも随分話題になりましたので」
「犬山城主であった織田信清は美濃の斎藤と手を結んで対信長の関係を築いていた。当然信長が犬山城を攻撃すると美濃からも援軍が出たわけだ」
「でなければ見殺しだと非難されかねません」
「そういうことだ。しかし犬山城は斎藤の援軍到着を待つことなく落城した。であれば斎藤家は如何する。尾張内に拠点を得るために疲弊している織田の兵を攻撃し犬山城をそのまま攻め獲る可能性もあった。それを警戒した信長は美濃との国境に兵を配置していた」
「それを退かれたのですね」
俺は頷いた。膝枕の影響で首が上手く動かなかったが、久には伝わったらしい。
「尾張で信長に反抗できる勢力はもういない。三河の情勢には興味を示していなかったはずだ」
「何か別に理由があるのでしょうか」
「それがわからんから怖いのだ。もし気まぐれに元康を援助すれば三河の情勢は一気に変わるぞ。三河は元康が統一し、その流れのままに遠江、そして駿河まで落とされる」
久は困惑顔であった。まぁ元康の話であるから仕方ないのかも知れぬが。
「他に可能性はありましょうか」
「・・・あることにはある。しかしこればかりは俺には予想がつかん」
「聞かせていただけますか?」
「あぁ、可能性はほとんど無いに近いと思っているのだがな・・・。幕府、いや足利義輝公が絡んでいる可能性だ」
「・・・公方様に御座いますか?」
久の沈黙はどう受け取れば良かったのだろうか。俺は室町幕府の行く末を知っているからこれだけ冷めて話すことが出来る。しかし実際のところ世間一般の感覚として室町幕府の影響力や、三好や政所執事である伊勢の傀儡のようになった公方様に武家の棟梁たる価値をどの程度感じているのだろうか。
「そうだ。数年前に何度目かの京への復帰を果たされたな」
「何故可能性が無いに等しいのでございますか?」
久の足がわずかに強ばったような気がした。これ以上先を聞いて良いのか迷っているのやもしれん。
「俺が先ほど何故幕府から足利義輝公だと言い直したか分かるか?」
「・・・何故で御座いましょうか?」
「公方様の言葉ではあっても、それは幕府の意向ではない。幕府よりその国を任された守護大名ならともかく、下克上を成し遂げた大名らにとって力を無くした公方様のお言葉など聞く価値を持たぬ」
「そのようなこと・・・」
「ないと言い切れるか?三好など公方様の命を一切無視して幕政に参加しているぞ。それに政所執事ですら三好の機嫌を伺っている。公方様のことなど無視に等しいようだ」
一色家臣内でも有名な俺の突拍子もない発言に絶句したか?久は何も言わずに俺の顔を見ていた。その隙を突いて俺は跳ねるように身体を起こして立ち上がる。
「つまらん話を聞かせたな。また夜来る。今日は一緒に過ごそう」
「つまらない話だなんて・・・。とても為になるお話でした」
「それはよかった。これは義父様が跡を継がせたがったという気持ちが分かる気がするな。それと先ほどの話、俺達2人だけの秘密だ。他の者らに聞かれればうるさく言われるでな」
部屋から出ると案の定時宗に捕まった。すでにみなが広間に集まっているようだ。
「しかし久姫様とお過ごしであったのであれば何も言いませぬ」
「そうか、では今後仕事を抜け出すときは久の部屋に行くとしよう」
「日中、必要以上に通うのはどうかご勘弁を」
「冗談だ」
俺は時宗を従えて広間へと向かった。
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