6-1
「あ、バス来た。じゃ、また来週だね」
ジーンズのポケットに手を入れたまま、ドノヴァンが紗月の頭ごしに道を見やった。
「……うん」
「と、思ったんだけど。どうしようかな」
「……えっ?」
思わず見上げてしまったとたんまともに目が合った。日曜以来ほぼ五日ぶりだった。反射的にそらしたがもう遅い。逃げるように踏みだした足に上半身が追いつく前に手首をつかまれた。あらかじめそこで待ちかまえていたかのような鮮やかさだった。
「やっぱり帰っちゃだめ」
「え、だってバスが」
「また来るでしょ。すみません、行ってください」
ドノヴァンが運転手に向かって手を振る。プシュ、と扉が閉まる音を残し、バスは無情に走り去った。
「さって、と。あれ、おかしいな、急にめまいがしてきた。ちょっと休憩したほうがよさそうだなあ」
額に手を当てたドノヴァンが木のベンチのそばで振り返り、手招きする。条件反射的に動きだす足をとめるすべもなく、紗月は人が二人座れるほどの間をあけてドノヴァンの横にそろそろと腰をおろした。
「紗月、今何考えてる?」
「……え、と」
「待って、やっぱり俺が当てる。そうだなあ、私が早く帰らないとドノヴァンが時計屋さんに遅刻しちゃうのに、かな。大丈夫だよ、三十分くらい。何時からって厳密に決まってるわけじゃないし」
「でも」
「紗月と違って店は逃げないし」
まっすぐ伸びてきた言葉が心臓を大きく揺さぶった。顔が熱くなる、同時に膝の上で握りしめたこぶしがきんと冷えていく。
「もう少しそっちに行ってもいい?」
だめ、とつぶやいたはずの声は自分にも聞こえなかった。ここで、ここまでで充分。だってこれ以上近づいてしまったら――
「沈黙は肯定とみなすよ」
嘘ばっかり、と別の声がする。次のバスなんて来なければいいと思ってるくせに。ずっと隣に座っていたいくせに――「よいしょ、よいしょ」と歌うような節をつけてドノヴァンがおしりを二回ずらした。
「手、つないでもいい?」
「……」
大きな手が紗月のこぶしを上からおおった。五日ぶりの感触、それだけで体全部が心臓になったかのように激しく脈打ちはじめる。じんわりと熱くなっていく指先をはがすように、こぶしの間にそっとドノヴァンの指が入ってきた。手のひらがふれあい、指と指がからまる。ぎゅっと目をとじたとき「あー、元気出てきた」とのんびりした声が聞こえた。
「俺さ、今週どうも調子が出なかったんだよね。でも今どんどん復活してる。ほら見て、もうすっかり全快」
ドノヴァンが力こぶをつくった。不恰好な鳥のような姿だった。ふ、と思わず息がもれた、その拍子に必死で水平を保っていた胸の奥がぐらりと傾き、いっぱいにたまっていた重い泥水が勢いよく流れ出ていくと同時に自分の顔がふにゃりとゆるんだのがわかった。
「紗月も元気になった?」
「……うん」
「よかった、安心した。――あ、バス来たよ」とドノヴァンが立ちあがった。
「じゃあね。また来週」
「うん。あの、修行頑張ってね」
「ありがと。来週はまた手つないでもいい?」
「……うん」
「よかった。これで週末頑張れる」とドノヴァンは笑って手を振った。
扉が閉まり、バスが走りだす。窓に顔を押しつけるようにして手を振り、座席に座り直したとたん胸の奥が再びどろりと重量を増し、紗月は膝にのせた鞄に顔をふせた。
今週ドノヴァンは一度も紗月の手を握らなかった。ルンゲと別れて二人になったあとも両手をジーンズのポケットに入れたまま、紗月の様子に気づいていないかのように、いつも通りのんびりと隣を歩いてくれた。
一緒にいると嬉しくて、同じくらい苦しい。また明日と笑う顔から目をそらしてしまうのに、バスに乗ったとたん振り返りたくてたまらなくなる。土曜と日曜、たった二日会えないだけで絶望的な気持ちになるのに、会おうと言われなかったことにほっとしてもいる。
いつか別れなければならないなら一緒にいる時間を大切に、素晴らしい正論だと思う。何かの標語のようだ。きっちりと、疑う余地もなく正しい。でもその正しさに何の意味があるのだろう。いつか別れなければならないのに。二度と会えなくなる日が、あの笑顔が永久に紗月の中から消えてしまう日が、いずれ必ず来るのに。
――でも。それでも。
そこから先の言葉はいつも頬を流れ落ちて消えていく。
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