5-10
紗月はもう食堂にいなかった。
「紗月、よかったらおふろ先にいいよ」
部屋の外から声をかけると、ありがと、と小さな声がした。智偉はわざと大きな音をたてて自分の部屋のドアを閉める。少ししてとん、とん、と階段を下りていく足音が聞こえた。
夕食前に外から戻ってきた紗月は泣き腫らしたような目で智偉のノックにドアを開け、ドノヴァンとつきあうことにしたの、とつぶやくように言った。その横顔は智偉が想像する恋愛の始まりの瞬間の顔とはおよそかけ離れたものだった、にもかかわらず紗月はごめん、と後悔と自己嫌悪に声を落とした智偉に「ううん、違う、私が自分で」と首を振った。自分で、好きになっちゃったの――
「まあ、頭でわかってても止められないよな。しょうがない。それが恋ってやつだよ」
我ながら何の慰めにもならないことを言っていると思ったが、紗月は顔を上げた。
「あの、智偉くんは彼女いるの?」
「へっ? いやいや、いるわけないじゃん。こんな冴えない宇宙オタクに」
そんなことない、智偉くんはかっこいいし優しいし天才だし、と紗月は言ったうえ、「気づいてないだけで、智偉くんのこと好きだって思ってる人がすぐ近くにいるかもしれないよ」とまでつぶやいてくれたが、実際そんな華やかな目にあったことはないし、これからもまずないだろう。紗月は押しが強いタイプに弱いんだな、でもその前の優しさとのギャップもあるのかな、緩急つけてここ一番でちょっと強引にいくのがポイントなんだな、うーん勉強になるなあ、思いつくかぎりの軽口をたたくと「もう! いつまでも言わないで」と肩をドンとたたかれた。少し元気が出ただろうか。
「あはは、ごめんごめん」
机の上に『ぼくとロボット』が置いてある。
「これ、地球とアトラスの話みたいだよな」
アトラスは受け入れる側なんだ、とギルリッソは言った。
裏を返せばそれは送り出す側だということだ。ドネルやドノヴァン、おそらく地球人と最も近い場所で関わっているデイ、アトラスの人々はそれを知っている。別れが必ず来るものなら、いつか送り出さなければならないなら、そのぶん一緒にいられる時間を大切にすごせばいい、彼らは本能的にそう悟っているのではないだろうか。
そしてそれは地球にいても同じことだ。別れは必ず訪れる。彼らほど身近にないぶん気づいていないだけで、本当は誰の前にも平等に用意されているものなのだ。
「この前ドネルに言われたんだ、いつか別れなきゃならないなら、そのときまで、一緒にいられる間は精一杯一緒にいればいいと思うって。地球ではそんなふうに考えたことなかったけど、本来なら誰かとの出会いやつながりってみんなそういうものなんだよ。だから紗月もさ、僕もだけど、ここにいる間は思いっきり精一杯ここの人たちと一緒にいればいいんじゃないかな。ものごとには在るべき姿があって、それで僕らが今ここにいるなら、それが僕らのするべきことなんだよ、きっと。……もちろん、無理する必要なんかないとも思うけど」
唇にふれようとした指をそっと膝に落とし、密やかな沈黙ののち「智偉くん、やっぱり天才」と紗月はつぶやき――少し遅れて夕食に下りてきたのだった。
窓を大きく開ける。
夜空には相変わらずすごい数の星が瞬いている。生涯でこれほどの星を見る機会が何度あるだろうか、これだけでもアトラスに来る価値がある、ここで毎晩夜空を見上げるたびに思うことを改めて思いながら、智偉はポケットの中のものを慎重に指先でつまんで取りだした。
『ロボットはけがをしていた』
『怪我をなさってはいけませんから』
『地球にある身体にも同じことが起きてしまうんです』
アトラスに来る価値はあった。
しかし、どうしても、その先を望むことをあきらめられない。
手の中のガラスの破片はしっかりと厚ぼったく、少し丸みを帯びている。智偉はシャツの左袖をまくり、肘の下にとがった部分を当て、思いきって強く引いた。
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