10 200回の受け身は練習のうちに入らない

 選手たちが「ジム」と呼んでいる練習場からは、マットで受け身を取る音が響き渡る。


 170cmの長身を誇る高町カンナは、自分より丸々二十歳以上も年上のマックス流子を容赦なく背負い投げる。プロレスの風習に従って、左構えのみで200回。これはもちろん『アマゾネス』の若手である高町の練習目的でもあるのだが、47歳のベテランプロレスラーである流子の受け身技術を更に向上させる効果も含んでいる。


 どのような角度からの落下も確実に受け止める流子の技術は、女子プロレス界でも一、二を争うほどのレベルだ。


 高町が最後の背負い投げを終えると、流子は仰向けのままブリッジして首の支えだけで上方に半回転。そのまま立ち上がった。


「ありがとうございました!」


 高町の挨拶を聞きつつ、彼女と握手。流子はリングを下りた。


 多少の汗は掻いているが、疲労は全くない。というより、受け身200回如きでどうして疲れようか。これはあくまでも、受け身の動作を微調整するための練習に過ぎない。


 そう、疲れていないはずなのだが、


「今日の流子、ちょっとスタミナが切れてる感じかな?」


 首を軽くマッサージする流子に対してそう話しかけたのは、四半世紀も彼女とタッグを組んでいるファルコン李乃である。流子と同い年の李乃は、先ほどまで別のマット上で30分のスパーリングを実行していた。


「年に1回か2回あるかどうかだけど、流子のスランプが到達ってとこかしら」


「そう思うのは、お前の視力が悪くなっただけだ」


「またまた、強がっちゃって」


 李乃は流子に、悪役レスラーの印象とは程遠い優しい笑みを向けた。


 *****


 プロレスラーの言う「スタミナ」とは、何十分も戦える持久力を指すわけではない。


 1回投げられた時、即ちマットに叩きつけられた時に瞬時に起き上がるための回復力を指す。それができなければ、回避より受けることを重視するプロレスの試合などこなせない。最後に勝ちさえすれば内容は塩試合でもいい格闘技よりも、肉体的な強靭性を必要とする。


 それはさておき。


 李乃の指摘は、まんざら的外れでもない。流子は数日前から気がかりなのだ。かつて結婚していた男子プロレスラーとの間に儲けた、一人息子の勝明のことが。


「アキちゃん、最近いろいろ悩んでいるそうね」


「……お前には関係ないことだ」


「あら、そんなことないわよ。だって私にもアキちゃんが相談しに来たもの。“李乃さんはどんな記事なら読みたい?”って」


「私にはそんな相談はしないがな」


「それは、流子とアキちゃんは“同じ者同士”だからじゃないのかしら? 自分と同じ発想の人にわざわざ相談なんかしないわよ」


 と、李乃は再び微笑み返す。


 *****


 流子と勝明は“同じ者同士”と言うが、そうなったのは仕方ない。


 未成年だった頃の流子が所属していた団体は、とある男子プロレス団体と同資本だった。その関係で綾部勝敏という選手の付け人になった。


 女子選手が男子選手の付け人になるなどというのは、この業界では例外的なことだ。しかしこれにはもうひとつ、「構えの問題の解消」という背景があった。


 プロレスというのは相手と組む時は必ず左構えで行う。日本もアメリカもヨーロッパもこれは共通の習慣なのだが、当時の日本の女子プロレスはどういうわけか右構えの文化だった。これをどうにか矯正したい、という団体代表の意向で女子選手を男子選手の下につけさせたのだ。


 ところが、この時代の男子選手の野獣ぶりは半端なものではなかった。流子と勝敏の場合もそこからいつの間にか男女の関係になり、気付いたら勝明と名付けた男の赤ん坊が……というプロセスを踏んでしまった。もちろん、下手すれば一大スキャンダルになってしまう行為だ。初めて性を交わした当時の流子はティーンエイジャーだったのだから。コンプライアンスなどという言葉を、当時の男子選手は知る由もない。


 その上、あれだけ自分をその気にさせて子供まで産ませた勝敏は、息子の誕生から9か月後に垂直落下式ブレーンバスターを受け止め切れずに落命する。


 が、偶然というのは恐ろしい。ちょうどその頃の女子プロレス界は大再編の時期で、今までよりも多くのレスラーを必要とした。選手が売り手市場に回ったのだ。何が何でも生計を立てなければならない流子は、土下座までして旗揚げ間もない団体に滑り込んだ。それが今いるアマゾネスの前身団体である。


 流子はパートナーのファルコン李乃と悪役に徹することによって、日本列島を恐怖に陥れるほどの極悪人即ち人気レスラーになった。他に頼るもののないシングルマザーは、ここぞという場面で120%の能力を発揮しなければ生きていけない。


 当時は女子中学生がこぞって女子プロレスを観ていた。全国巡業も頻繁に行っていて、看板レスラーの流子は新幹線やバスに揺られて各地を旅した。まさに女子プロレス華の時代である。


 この旅には、幼い勝明も極力連れていく。育児の観点からやむを得ないというのもあるが、それ以上に教育の観点から有益だと流子が判断したからだ。小学校入学後も、わざわざ校長に掛け合ってまで母子全国巡業を優先させるようにした。


 1年の大半を同じ顔触れのクラスメイトと担任教師だけで過ごす、というのは子供を密閉容器に入れておくのと何ら変わらない。小学校で教わる算数くらいは私と私の仲間たちで教授してやれる。勝明には小学校生活の中で触れる以上の本を読ませつつ、外の世界も見せてやりたい。そのような教育方針だから、勝明が流子にノルマとして課せられた読書量は凡百の現代人には想像もつかないものだ。


 そして流子は、全国の寺社仏閣や歴史名所を見学するのが好きだ。というより、プロレスラーという商売をしているとそれくらいにしか気分転換の道楽を見出せない。今の女子プロレス界は規模が縮小して全国巡業も行われなくなり、同時にレスラーの趣味も多様化した。言い換えれば、それだけ昔の流子は団体に酷使されていたのだ。もっとも、その分だけ報酬も大きかったが。


 そんな彼女の道楽を、そのまま勝明の教育に接続させた。


 別に学者になれとは言わない。将来はホームレスになっても構わない。ただ、何をやるにも己の感情を下支えできるだけの読書量と実体験を積むべきだ。


 以上のような方針で育てられた男の子は、結果として母に酷似した人物になった。


「あの頃の巡業生活を、アキちゃんは今でもやってるの。流子の代わりにね。だから今のアキちゃんは、あの頃の流子といろんな意味で瓜二つってわけね」


 と、李乃は流子にスマートフォンの画面を見せる。そこに映っていたのは、


「……これは薩田峠だな? 静岡県の名所だ」


「昨日、アキちゃんが私に写真送ってくれたの。メアリーちゃんも一緒よ」


「メアリーも? あいつ、日本に来てたのか」


「あら、知らなかったの? 何でも羽田からそのまま車で静岡まで行っちゃったそうよ」


「何でそんな不合理なことするんだ、あいつら。静岡ならこの前行ったばかりだろ」


「……やっぱり絶不調ね、今日の流子」


「何がだ?」


「あの子は歴史メディアでライターをしているのよ。歴史考察に必要なのはそれぞれの地域や事柄との関連性だって、流子も言ってたじゃない」


 李乃はそう言うと、流子に別の画像を見せた。


「これは……浜名湖?」


「ご名答。ちなみにこれは、私のスパーリングが終わった後に届いた写真。つまり、あの子たちは今浜松あたりにいるってことね」


「……あいつら、何を考えてるんだか」


 そう言いつつ流子は、李乃のスマホを取り上げて写真をじっと見つめ始める。

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