2章

もう一つのプロローグ

第38話 月の天使と、俺と

 俺の高校には、『月の天使』がいる。


 ……いや、もちろん天使っていうのは比喩で、ホンモノじゃないんだけど。


「なあ。月乃先輩、何読んでるんだろうなぁ」

「んー……やっぱ、純文学、とか?」


 放課後の、生徒会室。書記の席で集会が始まるのを待っていると、そんな後輩二人組の会話が聞こえた。

 後輩たちが見つめる先にいるのは、一人の少女。

 小夜月乃さよつきの――俺の幼馴染、だった。


「………………」


 月乃は一人、静かに文庫本に目を落としていた。

 その表情には感情なんて一切なく、神秘的な瞳が見つめるのは紙の本だけ。時折風にカーテンがふわりと舞って、夕陽が月乃の綺麗な髪をきらきらと輝かせた。

 なるほど。まるで海外の名画のような、幻想的な光景だった。


「確かに月乃先輩ってそういう難しい本とか読んでそうだもんなぁ。ドストエフスキーとか、そういう高尚なやつ。いや待てよ、もしかして詩集って可能性も……?」

「そんなに気になるなら本人に聞いてみればいいじゃん」

「バカ野郎! なんて畏れ多いこと言うんだよ。月乃先輩はな、俺みたいな俗物が話しかけていいお人じゃないんだよ」


 いつから月乃はそんなお嬢様みたいな立場に……?

 けど、後輩の言いたいことも分かる。月乃は無表情で無口だから、近寄りがたい印象を与えてしまうんだろう。小さい頃から一緒にいたから、よく知ってる。


「俺は月乃先輩と仲良くなれなくてもいーの。こうして素晴らしい光景を眺めさせてもらえるだけで、俺にはもったいないくらいの幸せなんだから」

「まるで信者みたいなこと言い出したな……」

「そりゃそうだろ。なんてたって、相手は天使様なんだから。あー今日も可愛いなー……」


 まるで別世界の存在と思えるくらい、神秘的な少女。

 それが月乃という少女であり、『月の天使』、だった。


                   ◇


 その月乃が、だ。

 たった今、風呂上がりのパジャマ姿で、髪の手入れをされながら読書をしていた。

 ちなみに、手入れをしているのは、俺だ。


「嫌だったら正直に言ってくれよ。女の子のヘアケアなんて、よく分かんないんだから」

「別に良いよ? 悠人がしてくれるなら、ちょっとくらい変になっても気にしないから」


 何故俺が月乃の髪にブラシを通しているのか、発端はほんの数分前。

 いつものように月乃の夕飯を用意し終えた時、読書をしている月乃の髪が微かに濡れていることに気づいた。


 もちろん、言った。せめてドライヤーくらいした方が良いって。

 けれど、月乃は本を閉じようとしなかった。髪を乾かす時間が惜しいくらい、本の続きが読みたいらしい。

そして甘えるような表情で俺に言った。


 ――ね、悠人。お願いがあるんだけど……わたしの髪の手入れ、して欲しいの。


 そして今に至る、だ。


「髪の手入れなんてすぐに終わるんだから、その後に本でも読めばいいのに。宿題を急かされてる小学生じゃないんだから」

「だって、続きが気になるから。それとも悠人、わたしの髪のお手入れ、迷惑だった?」

「いや、全然。月乃の髪が痛む方がよっぽど嫌だな」


 それに、誰でもない月乃のお願いだ。俺にはきっと叶える義務があるんだろうな。

 月乃のどんなお願いでも叶える。そう、約束したんだから。


 ドライヤーを当てながらブラシを髪に通すと、さらさらと綺麗に流れる。風呂上がりだからか、仄かな良い香りがした。

 きっと、生徒会のみんなは知らないだろうな。ミステリアスな月の天使様が、実は幼馴染に髪の手入れをされるくらい生活能力がない、だなんて。


「けど、月乃がこんなに熱中するなんてな。何を読んでるんだ?」

「サン=テグジュペリの『星の王子さま』。おもしろいよ?」


 後輩よ、月乃が読んでるのは純文学でも詩集でもなく、児童文学だったぞ。

 って、待てよ。『星の王子さま』?


「それって、中学生の頃に読んだとか言ってなかったっけ? 何度も読み直してるのか?」

「今は別の出版社の本で読んでる。出版社が違うと翻訳も違うから、読んだ時の印象が全然違うの。だからすごく楽しいよ?」

「はー。すごいこだわりだな」

「わたしって、一度好きになるとずっと夢中になっちゃう性格なんだよ? だって――」


 そして、月乃は天使のような微笑みを浮かべた。


「悠人のことだって、。もちろん、今でも、だよ?」

「…………そ、そっか」


 ずるい、と思う。いきなり、好き、なんて単語を口にするなんて。

 月乃の一途さなら、俺だって十分に理解してる。

 だって、一ヶ月前。

 俺は、一〇年以上も一緒にいた幼馴染の月乃から、告白されたんだから。


 けれど、そこは色々と複雑な事情があって。今はまだ、幼馴染以上恋人未満、みたいな距離感になっていた。

 思えば、俺と月乃の関係も少しだけ変わったな。

 こうして何の緊張感もなく月乃の髪を梳かすのは、幼馴染だからこそだ。今更、羞恥や照れなんてない。


 だけど、たった今。好きと言われて恥ずかしさを覚えてしまったのは――月乃を、一人の少女として見てるから、なんだろうな。


「……ああ、そうだ」


 そこで、ふと思い出す。俺は、月乃とある約束をしているんだった。

 今まで俺と月乃はお隣さんで、幼馴染って関係だった。

 だけど、月乃が俺を好きだって言うのなら。

 きっと俺も、みなと悠人として、月乃の気持ちに向き合わなきゃいけないから。


「……? 悠人、どうしたの?」

「あのさ、月乃。今度の日曜日だけど、俺と――」


 そして、俺はある提案を口にして。月乃は驚いたように、目をぱっちりと開けるのだった。

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