第21話 膝枕/小さな頃から隣に/甘え上手の月乃さん

「はい、完成。後は具材を煮るだけだから、月乃一人でも大丈夫だよな?」


 鍋自体は簡単な料理だから、準備はあっという間に終わった。

 時計を見ればまだ五時三〇分。多分、まだ日向が夕飯を作ってる時間だろうけど……。


「もう出来ちゃったんだ。残念、もうちょっといたかったのに」

「いや、俺は構わないけど。夕食までまだ余裕はあるし」

「ほんとに? じゃあ、何をしよっかな」


 月乃と二人の時にすることなら、大体決まってる。ゲームで遊んだり、あるいはテレビを眺めながら学校のことを話すのがいつもの流れだ。


「えっと、じゃあね……膝枕をして欲しい、かな」


 新しいパターンだ、これ。


「膝枕、か……」

「だめ?」

「い、いや、駄目ってわけじゃないけど。でも膝枕なんてしたことないし、俺の身体の感触なんて硬いぞ? 正直、がっかりされそうで恥ずかしいっていうか」

「わたしは、むしろそっちの方が良い。悠人のぬくもりを感じていたいから」


 またそういう恥ずかしい言葉を真っ直ぐな目で言うんだから……。


「ねっ、お願い」

「……分かった。ただし、感触が悪い、って文句は受け付けないからな」


 月乃のお願いは出来るだけ叶えるのが、俺なりのケジメだ。じゃないと、勇気を振り絞って告白してくれた月乃に向ける顔がない。

 俺がソファに座ると、ぽふん、と月乃が俺の膝を枕に寝転がる。月乃の頭は小さくて、それこそ天使の羽みたいに軽い。


「こんな光景、初めて。見上げたら悠人がいるって不思議な気持ち」

「気分はどうだ?」

「すごく落ち着く。悠人の匂いがするから、かな」


 いつもの幼馴染の関係なら、なんだよそれ、と笑い飛ばせたかもしれない。

 けど今は、そんな言葉にちょっとだけ緊張してしまう自分がいた。

 気恥ずかしさを隠すように、明後日の方向を見ながら、口にした。


「こうしてると、月乃って本当に猫みたいだよな」

「そんなに褒めても何も出ないよ?」

「猫に似てる、って褒め言葉なのかな……」

「猫、好きだから。生まれ変わったら猫になりたい。それも野良猫じゃなくて、飼い猫。毎日ご主人様からご飯を食べて気ままに生きるの」

「何か、今とそんなに変わらないな」

「じゃあ、わたしのご主人様は悠人ってこと?」

「……いや、やっぱ俺はお世話係だろ。猫を飼ってる人って、好きで自分から奉仕してるみたいだし。あんなに過保護に世話するんだから、むしろ飼い猫の方が自分のことご主人様って思ってるかもな」

「でも、多分猫だって感謝してると思うよ? わたしだって、悠人がいてくれて良かったって思ってるもん。いつもありがと、悠人」

「まあ、幼馴染だからな」


 月乃が全身を弛緩させたような表情で、ごろんと寝返りを打った。


「悠人って、いつもわたしの傍にいてくれたもんね。……覚えてる? わたしがミアと出会って、悠人と一緒にこの家を飛び出した時のこと」

「……覚えてるよ。あの時は、本当に大変だったから」


 近所の公園で、月乃の膝の上で寝ていた三毛猫のミア。

 初めニアは捨て猫で、それを見つけて拾ったのが小学生の頃の月乃だった。

 一度人間に飼われた猫は、決して野良では生きられない。その時のミアも酷い状態だった。

 月乃はがりがりに痩せていたミアを連れて、大慌てで両親に助けを求めて。動物病院に駆け込んで、ミアは何とか一命を取り留めた。


 そして月乃はミアの飼い主になってめでたしめでたし……となれば良かったんだけど、話はそう上手くいかない。

 ペット不可であるこのマンションでは、ミアを飼うことは出来なかった。ミアと離れ離れになるのは、初めから決まっていた。


 それはもう、月乃は大泣きした。

 その頃からいつも無表情だった月乃が泣きながら、絶対に飼うと言って聞かなかった。そんな娘の気持ちを知りながらもルールを破ることは出来ず、両親はミアのために里親を探し続けた。

 月乃がミアを連れて家出したのは、そんなある日のことだった。


「びっくりしたよ。ミアをランドセルに入れて、ミアと暮らせる場所を探そう、って言い出したんだから。俺に声をかけたのって、やっぱり心細かったから?」

「……だって、その時はもう家に帰らないつもりだったから。一人じゃ寂しいって思った時、一番初めに思い浮かんだのが悠人の顔だった」


 でも、月乃の家出はそう長くは続かなかった。

 一日が経ち、食料もわずかなお小遣いもなくなって。まだ小学生だった俺たちとミアは公園のドーム型の遊具の中で夜を過ごそうとしていて、月乃が涙を流しながら口を開いたのは、そんな時だった。


 ――帰りたい。お父さんとお母さんと、お姉ちゃんに会いたい。


 その言葉で、俺と月乃のささやかな逃亡生活は幕を閉じた。


「月乃は大泣きで家に帰るし、それに娘が帰って来て月乃のお父さんも号泣するし。間違いなくあれが一番の大騒動だったな」

「あの時は、悠人に迷惑かけちゃったね。……でも、今だから分かるけど、あの時の悠人って本気でわたしと家出しようって思ってなかったよね」


 月乃は口元を緩めながら、透明に澄んだ瞳で俺を見上げる。


「悠人は、わたしのこと見守っててくれたんだよね。わたしが帰りたいって言ったら、いつでもこの家に帰って来れるように」

「……月乃にもしものことなんて、絶対にあったらいけないしな」


 家出が上手くいくって思えるほど、俺は子どもじゃなかったのだと思う。

 一緒に家出をしたのも、ただ月乃が心配だったからだ。もし食べる物が無くなったら。もし誰かに連れて行かれそうになったら。ポケットに防犯ブザーを忍ばせて、子どもながらに月乃を守ろうとしてた。

 だって、それが月乃のしたいことなら、精一杯叶えてあげたかったから。

 だから、どんなことがあっても大丈夫なように、どこまでも月乃と一緒にいようって決めた。

 ……まあ、月乃の家出を止めなかったって理由で親父にはこっぴどく怒られたけど。


「今では笑って話せることだよな。ミアとだって会いたい時に会えるんだし」


 月乃が家に帰った後、俺と親父も里親探しに協力して、何とかご近所で猫を飼っても良いというお年寄りの夫婦を見つけた。それが、現在のミアの飼い主の清水さんだ。

 あの頃の月乃は、毎日のように清水さんの家に行ってミアと遊んでたっけ。


「昔から、悠人はわたしのこと守ってくれた。だから、ね。わたしも、悠人のしたいことなら全部叶えてあげるから。何でも言っていいよ?」

「月乃にして欲しいこと……? 言われてみれば、月乃のために俺からすることは多かったけど、その逆はあんまり考えたことないな」


 けど、月乃ならきっと、俺がへこんでいたら慰めようとしてくれるだろう。

 事実、日向が姉だと知ったあの日。俺がベランダでうなだれていたら、頭を撫でて励まそうとしてくれたのだから。


「ねえ、悠人……わたしは悠人のこと、大好きだよ……?」


 ぽつり、と。やけに小さな月乃の声音。

 一途だな、と素直に思う。

 俺が日向に恋心を寄せてると知ってなお、月乃は俺の傍にいようとする。その想いは美しいと思うし、そんな月乃に迷いが生まれる自分がいた。気が付けば、一人の少女として月乃に心が惹かれそうに――……。


 ……惹かれてしまったら、いけないのだろうか。

 日向は、俺の姉だというのに。俺の片思いはとっくに終わっているというのに。


「……月乃、俺は――」


 けれど、その先の言葉は胸に詰まって出てこない。

 多分、俺は月乃の想いにちゃんと向き合えていないのだと思う。

 日向への初恋とか、幼馴染として今まで一緒にいた思い出とか。そういうものを切り離すことが出来なくて、未だに月乃の好きって言葉に戸惑ってしまう自分がいる。

 いつか、俺はまた月乃の告白に答えなければならないのに。


 さっきから、月乃は無言だ。多分、怒っているんだろうな。俺は月乃の大切な告白の答えを先延ばしにしてるんだから……いや、ちょっと待った。

 なんか、寝息みたいなの聞こえない?


「えっと、月乃さん……?」

「…………」


 見れば月乃は、それはもう気持ち良さそうにうたた寝をしていた。

 ……マジかー。俺、結構真面目なこと考えてたのになー。

 そういえば、月乃って公園で会った時やけに眠そうにしてたっけ。まあ、俺と月乃の中だし、別に寝ちゃうこと自体は全然構わないけど。

 でも、そうか。膝枕のまま寝落ちか……。


「……どうしよう、動けない」


 ミアが膝の上で寝てしまって困ってた月乃の気持ちが、今ならすごく分かる。

 穏やかな表情で眠る月乃をそのままにしてあげたいが、膝を少しでも動かせばきっと起きてしまう。けれどもう日向が料理を作り終えた頃だし、いやでも月乃を起こすのは仄かな罪悪感みたいなものがあるし……。

 ……うん、決めた。あと三〇分だけ月乃専用の枕になろう。


「もしかして、俺って月乃に甘すぎるのか……?」


 困惑したような気持ちで、すうすうと寝息を立てて眠る月乃を見下ろす。その寝顔はあどけなくて、確かに天使って言葉が似合ってるかもな、なんてちょっとだけ思った。

 小さな頃は遊び疲れて、一緒に寝てしまうこともあったっけ。


「………………」


 急に愛しさが込み上げてきて、起こさない程度に月乃の頭を撫でる。

 こうして月乃の綺麗な流れるような髪に触れていると、無性に胸が高鳴って緊張してしまう自分がいた。もし今、月乃が目覚めてしまったら恥ずかしくて跳びあがってしまうだろうな。

 今までは、月乃にそんな感情芽生えたことなかったのに。


「……一〇年以上も一緒にいたのにな。まさか、こんな関係になるなんて」


 月乃の頭を撫でたのは幼馴染としてだったのか、それとも一人の異性としてだったのか。自分でも分からない。



                  ◇



 結局、それから月乃が起きたのは三〇分後で。

 六時過ぎに帰宅すると、日向がむっとした表情で俺のことを待ち構えていた。


「もし遅くなるなら、六時までに連絡するっていうのが、私たちのルールだったはずだよね。……もちろん、どうして連絡なかったか、説明してくれるよね?」


 人間って本当の恐怖に直面すると身体が動かないって、本当だったんだな。

 それくらい、エプロン姿で仁王立ちをする日向は、怖かった。

 日向って、怒ることあるんだ。こんな日向初めて見たかもしれない……。


「え、えっと、悪い。月乃の部屋で夕飯作ってたら、ちょっと予想外のトラブルがあったっていうか。そのせいで連絡出来なくて……」

「……もしかしてご飯いらないのかな、って心配したんだよ? せっかく作ったのに、悠人君に食べてもらえないなんて残念だもん」

「本当にごめん。ちゃんと食べるからさ、許してくれるか……?」

「……こっち来て」


 つんとした表情のまま、日向はダイニングキッチンへと姿を消す。俺このまま処刑とかされるのだろうか、と真剣に考えてしまう。

 恐る恐る日向の許へ行くと、日向はテーブルに今日の夕飯を並べていた。海老や茄子の天ぷらを中心とした、和風のメニュー。

 びくびくしながらテーブルに座ると、その隣の椅子に日向が腰を下ろした。

 そして箸で天ぷらを掴み、まるで食べさせるように俺の口元まで運んだ。


「今から罰を執行します。悠人君は責任を持って、今日のご飯を完食すること。……だから、口を開けて?」

「……えっ?」


 目の前に差し出された料理に、思わずぽかんとしてしまう。

 口を開けて、って。それってつまり――。


「い、いやいやっ! もちろん食べるけど、どうして日向が俺に料理を……?」

「だって、ちょっとは悠人君が恥ずかしいようなことしてくれないと、気が済まないっていうか。無断で夕飯に遅れるって、それくらい重罪なんだよ?」

「……本気、ですか?」

「本気、だよ?」


 何かを期待するような目で、俺に天ぷらを差し出す日向。

 ……大丈夫、慌てることなんて何もない。だって俺たち姉と弟だし。こんなの家族でちょっとふざけてるだけだし。

 そう必死に自分に言い聞かせること、数秒。

 やがて意を決して、ぱくり、と日向の天ぷらを口にした。


「どうかな?」

「……気の利いたコメントが全然思いつかないけど、とにかく美味しい」


 くす、と日向が笑みを零した。


「そっか、良かった。じゃあこれ全部食べるまでやるからね。今度はこの鶏の天ぷらにしよっかな。はい、あーん♪」

「……あ、あーん」


 やけににこにこと満面の笑みを浮かべる日向にされるがまま、俺は餌付けをされる雛のように料理を食べる。

 ……さっき日向には、とにかく美味しい、なんて言ったけど。

 本当は緊張であんまり味がしなかったのは、秘密だ。

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