第3話 地上生活
セオディア・メレ・エトゥールは、すぐに兵を率いて北部に向かった。
こんな初対面の男の話をよく
ファーレンシアは兄の指示を得て、カイルに部屋を用意したが、それは豪華すぎるものだった。
「本当にここを使っていいの?」
「はい」
ファーレンシアは微笑む。
「等価交換の条件ですから。兄から最高級のもてなしをするよう、申し付かっております」
結局、あの時カイルは戦術的に必要になる数枚の周辺地図しか渡さなかったが、セオディアはそれで満足だったらしい。とりあえず滞在先は確保できた。重大な問題の一つが解決できたのだ。
次に立ちふさがったのは、当然ながら言語の問題だった。
予想通りファーレンシア以外と会話が成立しなかった。少女は通訳をかってでたが、いつまでも領主の妹姫に頼るわけにもいかない。
カイルはエトゥール語を学ぶ決意をした。
カイルはファーレンシアに基本文字を教わり、子供用の教本と辞書を借りた。辞書の内容を丸暗記することは容易く、基本発音をファーレンシアに協力してもらい、
翻訳インプラントが言語情報の記録をはじめた。
言葉の通じない使用人は、身振り手振りで突然の異国の客人と意思の疎通を試みたが、カイルは借りた辞書を片手に筆談という形で問題を解決した。
3日後には、カイル自身が流暢な現地語を話し、周囲の人間を驚かせた。
言語に問題がなくなったある朝、カイルはファーレンシアの侍女集団に取り囲まれ壁際に追い込まれた。あろうことかそれを指揮していたのはファーレンシアであった。
「お風呂に入っていただきます」
「風呂?!」
にこやかにファーレンシアは執行した。
「いってらっしゃいませ」
疾風のごとく、カイルは浴室に拉致られ、女性達に服を脱がされ、浴槽で洗われるという最大のセクシャル・ハラスメントを受けた。ディム・トゥーラあたりが大笑いしそうな事案だった。
体内インプラントで代謝コントロールされているから清潔さは維持できることをファーレンシアに説明するのは困難だったため、毎日風呂に入るかわりに、一人ではいる権利を勝ち取った。
侍女達が舌打ちしたのは気のせいだろうか。
慣れてくると湯を使う古典的な風呂は悪くない習慣だった。宇宙ではエアー・シャワーが常識だったため、お湯につかり脳が溶けるような未知の感覚は楽しめた。
――もしかしてこの湯には、人間を駄目にする未知の成分でもあるのだろうか?
カイルは本気で成分分析を考えた。
カイルの研究員服は体温調節がきき、他にも様々な機能があったため、ファーレンシアに相談して研究員服の上から着れる
エトゥールの刺繡がほどこされた
エトゥールの城には領主が招待した異国人がいる、と噂が広まるにはそう時間がかからなかったが、当の本人は気づかなかった。
とりあえず、居場所を確保したからあとは救出を待てばいい。カイルはそう気楽に考え過ごしていたが、ある可能性に気づいた。
――あれ?もしかして地上にいるってわかってないのでは。
こんなありえない転移移動に誰が気づくのか。
地上への探査も観測も不能で、唯一の探索候補者である自分までもが地上にいるのに?
一番の可能性は事情を知っているディム・トゥーラだったが、あれからどうやっても
観測ステーションで最高の
行方不明者が出れば、
戻るには早急に所在を知らせる必要がある。戻れなかった場合の対処も考えるべきだ。
カイルは焦った。
カイルがファーレンシアに事情を伝えると、彼女はきょとんとした。
「お仕事ですか?」
「地上で僕ができる仕事はなんだと思う?」
「兄の助言者などいかがです?」
「それは禁じられている」
「戻れなかったら、
それは
「……それは最後の手段にとっておきたいんだ」
「では
「実は僕の絵には致命的な欠点がある」
「欠点ですか?」
「僕の絵は記憶した光景を再現しているだけだ。ご婦人が自分のシワの数まで再現されて喜ぶだろうか?」
ファーレンシアは吹き出した。
「それは……確かに致命的な欠点ですわね」
彼女の笑い声にカイルは
無難なところで動植物に関する博物誌の
相変わらず上とは連絡が取れず
そこは図書室だった。
蔵書数の多さにカイルは驚き、興奮した。
「……これ、読んでいいの?」
「もちろんです。
「ありがとうっ!!」
自分より年上のはずなのに、子供のように目を輝かせるカイルに、ファーレンシアは
カイルはその日から、図書室に通い、全書物に目を通すことを始めた。文字通り、パラパラとめくり全ページを記憶し、膨大な情報を記憶領域にアップロードした。
知識習得は生き残りをかけた手段であった。たとえ、地上に取り残されても、この知識は武器になるはずだった。
既刊の博物誌の
一方、カイルを悩ましたのは『精霊』という概念だった。ファーレンシアに何度も説明されたが、わからなかった。
世界と自然を支配するという『精霊』――
『精霊』の加護を得られるのは、ほんの一部の人間だという。
「その精霊の加護があるなしで、身分がわかれるの?」
「そういうわけではありません。貴族でも加護を持たないものは多数います」
「どうやって、その見えない存在と会話を交わすの?」
「声が聞こえたり、夢をみたり……」
「――」
「おかしな話に聞こえますか?」
「よく、わからない」
「困りました。兄ならもっと上手く説明できると思うのですが」
ファーレンシアは説明の難しさに途方にくれていたが、カイルも困惑していた。
子供の絵本にも精霊は登場していた。
道徳を教えるための架空の存在かと思えば、そうではないという。
だが、カイルが思念の
カイルには見えない。感じることもできない。
何を基準に『精霊』は加護を与える人間を選ぶのだろうか。
もしかして『精霊』が
そうすると『精霊』は物理的破壊力をもった恐ろしい存在になる。
初代エトゥール王は建国のおり、幾つもの
赤い精霊鷹はその
――いやいや、僕が同調した鷹は、たまたま赤かっただけで、人目のつかない絶滅危惧種とかだったに違いない。
ところが、そう決意したにもかかわらず、中庭にいると幾度か精霊鷹を目撃した。
周囲は吉兆と繁栄守護の
――見ていない。僕は何も見ていないぞ。
あるときなどカイルが
「……」
カイルは無視を決め込んで本を読み続けたが、鷹も動かない。
そのうち、近くを通りかかった侍女がその光景を目撃した。邪魔をしないよう遠巻きに傍観者がわらわらと増えていくのをカイルは感じた。
――いや、邪魔してくれっ!
忍耐競争はカイルが負けた。
無視だ、無視。
呪文のように唱えると、さも本を読み終わったように立ちあがり、東屋をでた。
すると背後から羽音がし彼の肩付近を赤いものがすり抜け、目の前で急上昇した。驚いたカイルは思わず見上げてしまった。
鷹は彼の頭上を三回旋回すると、彼方へ羽ばたいていった。
――この野郎っっっ!
それはカイルが子供をからかった時の
カイルは無視を決意したことを忘れ、去っていく赤い鷹を心の中で罵倒した。
その日、精霊鷹が異国の客人を祝福したという噂が流れた。
目立たないように生活したかったのにどうしてこうなる。カイルは嘆いた。
いろいろあるが三食昼寝付きの生活に慣れてきた頃、事件は起きた。
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