百年後、どうせ世界は終わるけれど※

 静かな初秋の夜、ダイニングテーブルには白いクロスが敷かれ、色とりどりの食器が整然と並んでいた。キャンドルの赤い炎がゆらめき、美香の笑顔は淡い光の中で一層輝いている。

 夫の浩樹は幸福感を噛み締めながら彼女と共に祝う食事の準備をした。長きに渡る不妊治療を経て、ようやく授かった小さな命を祝福する特別な晩餐に心が躍っていた。


「美香、頑張ってくれたね」

 浩樹は感謝の気持ちを込めて言葉を紡ぎ、グラスを掲げた。


 美香は微笑みながら彼に優しい眼差しを向ける。二人の目には、手にした幸せに対する互いへの敬意が溢れていた。しかし、その穏やかなひとときを切り裂くように、浩樹のスマートフォンが短い振動と共に通知音を響かせた。


「何かあったのかな?」

 彼は少しだけ眉を寄せポケットから取り出す。画面にはニュースアプリのアイコンが忙しなく点滅していた。通知をタップすると、表示されたのは臨時ニュース動画の大きな文字。


「なんだろう? 開けてみたら」

 美香が不安げに促す。


「政府より速報です。地球に小惑星が衝突する可能性が高まっています。世界的な存続の危機が迫っています──」


 ニュースでは、百年後の衝突時に於ける熱放射や衝撃波がもたらす壊滅的な地上の状況。更に、その後数十年にわたる太陽光の遮断による気候の寒冷化だけでなく、衝突前から予測される人類社会の混乱が報じられた。衝突回避に向けた技術開発の利権争いで、各国間での資源争奪戦が激化する可能性と、それらが引き金となる経済の崩壊、貧困層の拡大、環境汚染。これにより、今後二十年の内に世界規模の飢饉が起こると専門家が警鐘を鳴らしている。


 浩樹は一瞬言葉を失った。見ると、美香の表情がこわばり始めている。咄嗟に握った彼女の手は震えていた。


「……まだ先のことだから、何か対策が施されるだろう」

 そうは言ったものの、心の奥では不安が渦巻いている。最愛の妻と生まれくる子供を守りたいという思いが、彼の思考を捉えていた。


「でも、この子の未来はどうなるのか、わからない」

 美香の声は上ずり、うつむいた瞳には涙が滲んでいる。彼女の胸には葛藤が渦巻いていた。理想とする母親像が、これからの社会で果たして実現可能なのかと心配していた。


「美香、妊娠を諦めていたあの頃を覚えている?」

 浩樹は美香の不安をほどくかのように、優しい口調で話した。

 その言葉に、美香はゆっくりと顔を上げる。


「どんなに厳しくても、諦めない限り未来は開ける。心を込めて育てることが、親としての務めだと思う」


「浩樹、でも、こんな世界で子供を育てることがどれほどの障害を伴うか、わからない」


「美香、思い出してごらん。僕たちはお互いを支え合うことができる、あの時もそうだったじゃないか。生むという選択が、明るい方向に繋がるかもしれない」


 浩樹の真摯な眼差しに触れ、美香の心に一条の光が射した。


 ♢


 日々のニュースは困難な現実を報じていたが、彼女の心には、あたたかい感情が徐々に芽生え始めていた。


 数日後、浩樹は小さな赤い靴下を買って帰った。それは、無垢な命を祝う決意のあらわれ。浩樹は柔らかな微笑みを浮かべながら言った。


「これが未来への第一歩だ。どんな険しい時代が待っていても、この小さな命には幸せを届けたいと思う」


 美香はその靴下を優しく包むように手にした瞬間、心にキャンドルの炎が灯った気がした。


「私も、浩樹。生まれてくる命を思うことで、私たち自身も成長できる気がする」


 静かに流れる会話の中に、二人の間に神聖なものが宿り始めた。子供を通じて、新しい未来を創る力に変わりつつある。彼らにとってこの選択は、生きる意味を見出すための根底にある決断となっていた。


 二人は日常の生活の中で、互いを大切にし続けた。「こんな時代に子供を生むなんて」との、周囲からの厳しい視線があっても、彼らの結びつきは強固なものとなった。浩樹も美香も、未来への不安を抱えながらも、前を向く選択をした。


 秋の終わりが近づく頃、二人は迎えなければならない瞬間に心の準備を整えることに決めた。どれほどの恐ろしい現実が待っていようとも、充実した家庭が築けると信じていた。


「私は、どんな暗闇でも必ず光を見つけ出せる」


 浩樹は、彼女の力強い言葉に背中を押された気がした。そして、しっかりと美香に目を向けた。


「美香、たとえ現実が厳しくても、君と共に生きることに意味がある。どんな困難が降りかかっても、愛が心の中に灯る光となり、僕たちを守ってくれる。生まれてくる子供には、二人の愛をしっかり伝えたい。命の選択がもたらす決意は、恐れを超えた希望であると信じている。百年後、どうせ世界は終わるけれど、僕たちはこの世界に生きる意義を見出し、一筋の光をもたらす存在になれると確信している。君と子供と三人で、家族の物語を紡いでいこう。きっとそれは、希望に満ちた明るい未来だ」


 浩樹の言葉は、美香の心に深く響いた。


「はい」




 了



 ・・・・


手嶌葵「瑠璃色の地球」

https://youtu.be/ZgysLX7ZQz8?si=ugjkzKSI0R0GQjCh

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静寂の刻 麻生 凪 @2951

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