270 餞別
セリーヌと合流した後はエステルの家だ。セリーヌがエステル宅の玄関扉を叩くと、すぐにスティナが扉を開けてくれた。彼女は俺たちを家の中へ迎え入れながら話しかける。
「いらっしゃい、エステルの準備はできてるわよ。それからアレ、たくさん作ったから道中で食べてちょうだいね。マルク君のアイテムボックスなら入るんでしょう?」
そう言って指し示した先のテーブルには、熱々のシチューの寸胴鍋が三つも並べてあった。あれだけあれば四人で何日分の食料になるのだろうか。食料はこつこつと買い溜めしていたので十分あるけれど、アイテムボックスに余裕がある限り食料は多くて困るものではない。
「ありがとう、遠慮なくいただくね」
「うんうん。ついでにエステルも美味しくいただいてもいいんだからね?」
「も、もうっ、母さん!」
すぐさまエステルが顔を赤くして抗議をする。以前はここまで慌てることはなかったと思うけど、思春期を迎えて変化もあったのだろう。スティナからすればからかい甲斐があるだろうな。
「それじゃあ僕からもお返しで。はい、ミゲルさん」
俺はミゲルに小さな布袋を差し出した。
「中にキュウリの種が入ってるよ。マヨネーズは面倒くさいので再現は難しいけど、一本漬けでも十分美味しいし、僕の代わりに村でキュウリを売ってくれると嬉しいな」
「たしかにキュウリは村人に受け入れられたし、君がいなくても食べられるというのはありがたいことだと思うのだが……」
ミゲルは布袋を受け取らずに浮かない顔で俺を見つめる。料理人にとって食材とレシピは武器そのものだ。それを重要視しているからこそ、簡単に受け取っていいものかを悩んでいるのだろう。パクリ上等の町の連中に爪の垢を煎じて飲ませたいね。しかしこれは受け取って貰わねばならないのだ。
「気にしないで。それにね、お礼だけじゃないんだ。村からキュウリが無くなると、一人うるさそうな人がいるでしょ? 村の人に迷惑をかけないためにも対策を練っておかないといけないんだ」
するとミゲルは急に吹き出して笑い出す。
「ははっ、それは確かにその通りだ。ディールがセリーヌとキュウリを追って、村から飛び出すかもしれないな」
「だよね」
「やめてよ、ぞっとしないわ」
セリーヌが顔をしかめながら心底嫌そうに言い放つと、周囲から笑い声が上がる。そしてミゲルは笑みを浮かべながら、俺の差し出した布袋をようやく受け取ってくれた。
「そういうことならありがたく頂こう。そして君が再び村を訪れるまでに、キュウリを使ったレシピをいくつも開発してみせる。そのレシピを対価とさせてもらえるかい?」
「うん、楽しみにしてるね」
ファティアの町でもキュウリはソースを付けて生で食べるくらいにしか使われていなかった。もしかしたらミゲルは新たなレシピを生みだしてくれるかもしれない。この村でなんだかキュウリに愛着が湧いた俺としても、それはとても喜ばしいことだ。
「あっ、それから庭に魔力の込めた土も出しておくから、肥料に使ってね」
ボルダリング壁の土はここで使ってもらおう。さすがに全部となると小さい庭が埋まりそうなので三分の一くらいだけどね。
自分で言うのもなんだけど、三ヶ月間村に滞在して村の畑を見学した限りでは、畑に俺ほどマナを込めている人はいなかったと思う。あの土はきっとキュウリの栽培に役立つはずだ。
「ルミル、ファティアの町は同じ領内だし、落ち着いたら里帰りに来るからね。その時はボクのことをお姉ちゃんって呼んでくれると嬉しいな」
俺とミゲルが会話をしている横では、エステルがベビーベッドに寝かされたルミルの頭を優しく撫でながら語りかけていた。ニコラはその隣でルミルのほっぺをつついてその感触に頬を緩ませている。
そんなエステルの肩をスティナがポンと叩いて笑いかけた。
「エステル、村の外の世界を楽しんでらっしゃい」
「……うん! みんなも元気でね」
別れを惜しむような話は昨日の夜に済ませているのだろう、こちらの別れもあっさりしたものだ。
この村では若者が村を出ることは珍しいことではないのも関係しているのかもしれない。ディールのように一度も村を出たことが無い方が珍しいそうだ。
村の外での見送りとなるとディールに勘付かれるということで、エステルの家族とはここでお別れになる。エステルはスティナとミゲルにハグを交わし、それから数歩後ろに下がった。
「父さん、母さん、ルミル。それじゃあ行ってくるね!」
エステルは笑顔で別れを告げると、玄関の扉を開けてそのまま振り返らずに外へと飛び出した。
◇◇◇
エステルの家を出た俺たちは物々交換広場へ足を運び、旅で使いそうな物資を物色することにした。今日は何と言ってもワンシーズンに一度の行商人がやって来る日だ。広場は普段よりもたくさんの人で賑わってる。
その賑わいに紛れるようにまず初めにマティルダの出店へ向かうと、マティルダに村を離れることを告げた。マティルダにはお世話になっていたので、何も言わずに村から去るのは不義理だと思ったからだ。
「……そうかい。マルク坊、今日でお別れなんだね」
「うん。マティルダさん、今まで良くしてくれてありがとう」
「なに言ってんだい! それを言いたいのは私の方だよ。あんたがうちの旦那を助けてくれなかったら、今頃どうなっていたことか……」
それはもう何度もお礼を言われたし、あの事件以降はそれまで以上に良くしてくれたから気にしないでいいのにな。マティルダは俯いて少し声を詰まらせていたかと思うと、キッと顔を上げて背後に向かって声をかけた。
「アンタ! 今日の商品全部、持ってきとくれ!」
「あ、あぁ? どうしたんだマティルダ」
困惑した様子のノーウェルがカウンター代わりの長机の前までやってきた。
「どうもこうもないよ。この子たち、今日出発なんだってさ」
声のトーンを下げながらマティルダが話すと、ノーウェルは合点がいったように頷く。
「なるほど、そういうことか。マルク、こちらに来なさい」
ノーウェルは俺を招くと、奥にある荷車に積まれた大きな保存庫を開けた。……肉だ。何の肉かは知らないけれど、保存庫の中にはとにかく色んな種類の肉が詰まっていた。
「これを全て持っていくといい。アイテムボックスがあるなら存分に入るだろう?」
「ええっ、こんなにたくさんなんて、さすがに受け取れないよ!」
シチューを貰うのとは訳が違う。これはマティルダの出店で数日かけて出品するだけの分量がある。
「ん? さすがの君も、ついにアイテムボックスがいっぱいになったのか?」
「そういう意味じゃないから!」
するといつの間にかノーウェルの隣に寄り添うように立っていたマティルダが話し始める。
「マルク坊、私はあんたにどれだけ感謝しても物足りないんだ。お願いだから受け取っておくれよ」
「んん……でも……」
「あー、もう。煮え切らない子だね! 子供は遠慮するもんじゃないよ。さぁさ、ほらほら、さっさと収納しとくれよ! ディールに勘付かれたくないんだろう?」
俺が躊躇していると、マティルダは急かすように囃し立てる。確かにここで押し問答しているのはとても目立つかもしれない。こうなったら遠慮なく頂こう。
「うん、わかった。マティルダさん、ノーウェルさん、ありがとね」
「何度でも言うが、あの時は本当に助かった。今こうやってマティルダと過ごせるのも君のお陰だ。この恩は一生忘れない」
ノーウェルは静かにそう述べると、マティルダの肩を抱き寄せながら穏やかに微笑んだ。肩を抱き寄せられたマティルダは頬を染めてノーウェルを見つめている。ラブラブだね。
以前マティルダに聞いたのだけれど、マティルダとノーウェルは恋愛結婚だ。ノーウェルが冒険者時代に大怪我をして、たまたまそれを見かけて助けたのが、まだ若く美しかった(本人談)マティルダだったそうだ。
その後、怪我を治すためにノーウェルはマティルダの村に留まり、そこで世話を焼いているうちに二人は恋に落ち、ノーウェルは冒険者稼業を辞めて故郷のこの村でマティルダと暮らすことになったらしい。
人間とハーフエルフには種族差による寿命という壁がある。それでもこの夫婦は今でも愛し合っているのはよくわかる。マティルダの見た目はもういい歳のオバサンだけれど、イチャイチャしながら散歩をしてるのを何度か見かけたことがあるんだよね。これからも爆発せずにリア充を満喫してほしい二人である。
◇◇◇
肉をたんまり頂いてマティルダの出店から離れた後は、広場で旅に足りない物資を買い足した。といっても食料は十分だし、防寒具の予備を幾つか購入しただけで、すぐに用事は終わってしまった。
これで旅の準備は全て終わり、後は行商人のカズールと合流するだけだ。出発の予定時間まではまだ余裕があるけれど、用事もなく広場をうろうろしてディールとばったり会うと面倒くさいことになるのは間違いない。
さっきからセリーヌは一言もしゃべらずに気配の感知に全力を注いでいる。いざディールに見つかるようなことになれば実力行使も辞さないつもりだそうだが、とにかくしつこく粘るので動けなくするまでは相当の手間がかかるらしい。見つからないに越したことはないだろう。
俺たちはディールに見つからないよう慎重に歩を進め、行商人カズールとの待ち合わせ場所となるトリスの家を目指した。
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