私たちが間に合わなかった日

人工知能あいちゃん

第1話 クール系美少女アイドル・九条玖久璃の場合

 ……あっ、ちょっと待って? これうんこのやつだ?


 おならだと思ったから通したのに裏切られた。

 うんちはまずいよ!

 目の前が真っ白になる。


 だって私はいま、武道館で引退ライブの真っ最中だもん。


「くくりぃぃぃん! ポッカルやめないでぇぇぇ!」

「ずっと! ずっと! 大好きだよぉぉぉ!」

「愛してるって! 何万回言ったら! 俺と付き合ってくれるんだよぉぉぉ!」


 場面はちょうどアンコールの2曲目が終わったところで。

 ファンのみんなが私に向けて愛を叫んでいた。

 そんな中、私はすました顔して急にやってきた便意を我慢している。


「みんなー! ありがとー! でも、もっとちょうだーい!」

 メンバーの一人が武道館のステージ上をぴょんぴょん跳ねてファンを煽っていた。

 我らがリーダーは静かに息を整えつつ、遠くを見て呆然と立ちつくしている。

 やがて、震える声で言った。


「……じゃあ、みんな。いよいよラストソングだよ」

 とたん、会場のあちこちから悲鳴が上がる。


「寂しいね……」

 メンバーの一人が目尻の涙を拭った。

 つられて、思わず私も目頭が熱くなる。


 私は今日、5人組アイドル『ポップカルチャー』を卒業する。

 だからこれが最後のライブだった。


「……」

 会場のざわざわした音がゆっくりと小さくなっていく。

 メンバーと視線が交差する。

 みんなが私の言葉を待っていた。


 ……これが最後、か。

 マイクを握る手が少し震える。


 グループ結成から5年。

 誰一人欠けることなく、ここまで駆け抜けてきた。

 乙女の青春を捧げて、全員が全力でトップアイドルを目指す。

 そんな日々は誰もが心に余裕なんてなかった。


 メンバー同士も、周りの大人も、本気で傷つけたし、傷つけられた。

 イライラして物に当たることはしょちゅうだったし、稽古場の鏡は何度も割れた。

 そんな日々も、今日で終わる。


 踏んで罵られたいアイドルとして不動の1位にいるクール系美少女の私だが、あやうく泣きそうになった。


 会場は水を打ったような静けさで。


「……いよいよきちゃったね」

 私の声も少し震える。


「……色々と、言いたいことはまとめてきたつもりなんだけど……。ごめんね、やっぱり言葉にするのはやめます」

 うんちもやばいし、ね。


 小さく、静かに押し寄せる便意がこれから始まる死闘を予感させた。

 絶対に、絶対に負けられない戦いだ。


 ……大丈夫、耐えてみせる。

 私は絶対に便意なんかに負けたりしない! と固く決意する。


「……だから、みんな! この1曲に私たちの魂を乗せるから! だから……魂の歌を聴いてけぇぇぇ!」


 瞬間、武道館が雄叫びで震える。

 イントロが流れると、メンバー4人が中心にいる私を引き立てるようにして踊り始めた。


 ラストソングはポッカルの存在を国民に知らしめた代表曲だ。

 実は今日2度目だが、このラストソングは私が主役になるように大きくアレンジされている。


 気がつくと、武道館のペンライトはそのほとんどが青色に変わっていた。

 無秩序に暴れるペンライトは躍動的で。


 私は思った。

 ……あぁ、うんち漏れそ。


 5年間のアイドル人生を飾る集大成が、いま始まる。

 私はケツ穴締めて、ありったけをマイクに乗せた。


           〇


 そして。

 ……ああ。

 ああ!?


 うんち、うんち、うんちがやばいよ。


 私が歌いだしてからまだ1分も経っていないよ。

 特別アレンジ版だから、まだ最初のサビにも入っていないよ!


 下腹部で下痢のようなものが激しく荒ぶっている。

 長くは持ちそうにない。


 うんちが漏れそうだから険しい表情になってるだけなのに。

 うんちが漏れそうだから上手く歌えないだけなのに。


 会場のみんなはありがたがって泣いていた。

 私の切なそうな顔がいいのだろうか?

 それなら、酷いすれ違いだ。

 そう思ってしまうと肛門が笑ってしまうので必死に耐える。


 少しして、便意の波が引いていった。

 私はほっと安堵して、小気味よくステップを踏む。

 盛り上がるファン。


 まもなく最初のサビだ。

 私はこれから定番の煽りコールと共に元気よくジャンプしなければならない。

 いざ、地獄のカーニバルの開催だ。


「さぁ……みんなー!」

 私はお腹をさすりたい気持ちを抑えて叫ぶ。


「行ーくーよ、はい!」

「「「チャーミング、ゴー!」」」


 みんな揃って大きくジャンプ。

 ただし私だけは内股ぎみにちょこんと跳んだ。

 一瞬、ムっとした顔のリーダーと目があったけど……しょうがないじゃないか。


 サビは私がメインコーラスを担当し、4人が支える形だった。

 私の歌声が少し不安定なことを除けば、概ね上手くいっている。

 むしろ心地よい一体感を感じるぐらいだ。


 そんなことを思っていたところに、


 ……ふぎぃ。

 強いやつがきた。


 ダンスが狂い、歌声が細くなって――ほとんど口パクになる。


 ……いやだ。

 途中退場なんてしたくない。

 だけど、うまく歌えない。踊れない。

 苦しくて脂汗が止まらない。

 肛門括約筋を締めることしかできない。


 会場の空気が少し冷める。

 チラと見ると、リーダーがおこの形相で私を睨んでいた。

 私がごめんって表情を作ると、リーダーは少し逡巡したのち、メインコーラスを担当してくれた。

 私はありがとうと笑いかけるが、もしかするとその笑顔は引きつっていたかもしれない。


 とても苦しい。

 お腹がゴロゴロピャーでたまらない。


 ……ちくしょう!

 それもこれも、私がアルコール依存症になってしまったのが悪いんだ。

 昨日もほどほどにしようと思っていたのに、つい飲みすぎてしまった。


 私はアイドルという職業に精神が耐えられなかった。

 他人の心ない誹謗中傷に意外と心が耐えられなかった。

 クール系美少女を演じることにも疲れてしまった。


 そうして逃げるようにお酒を飲んでいくうちに、取り返しのつかないところまできてしまったのだ。

 だから私はアイドルをやめる。

 もうお酒なしではアイドルを続けられないから。


「(ふぅ)」

 苦しい便意がサビと共に引いていく。

 私は額の脂汗をぬぐった。


 ……どうしよう。

 まだ1番だよ。


 いまから抜ければトイレに間に合う自信はある。

 しかし最後まで歌った場合は、ステージ上であえなく脱糞してしまうかもしれない。

 その可能性は十分にあった。

 限界は近い。


 どうする。

 どうするのよ私!?


 しかし私は決断が出来ず、ズルズルと2番に入った。


 2番はメンバーのソロパートを中心に構成されている。

 私が歌う番はサビまでないので踊るだけでいい。

 それがいまはありがたかった。


           〇


「(……ううっ)」

 踊っているうちに、またお腹が痛くなってきた。

 便意の間隔が短くなってきている。

 苦しい!


 まもなくサビだ。

 これから2度目の煽りコールだ。

 私はファンのみんなを煽ってジャンプしなければならない。


 ……どうしよう?

 いやだ、くるしい。

 跳んだら漏れちゃうかもしれない。


 いやいや。

 クール系美少女の私が武道館でうんこを漏らす?

 こんなところで漏らしたアイドルは絶対にクールじゃない。


 もしも漏らしてしまったらと思うと……ゾッとする。

 そんな咎を背負って生きろだなんてあんまりだ。

 そんなことを考えていると、サビ前の煽りコールまできてしまった。


「……」

 もう、腹をくくるしかない。

 ここからは私のソロパートだ。

 肛門をきつく締め、瞳孔を開いて武道館を睨む。


「じゃあ……みんなっ! いーくーよ、はい!」

「「「チャーミング、ゴー!」」」

 煽りコールと共に、大きくヤケクソジャンプ。


 もしも漏らしてしまったら――転職先が悪の組織に決まってしまう。

 私が漏らしたことを知ってしまった奴はたとえ聖人だって許さない。

 未来永劫闇に葬られるまで私は殺戮マシーンになるのだ。

 そんな決意を胸に秘めながらサビ入りした。


 私は踏ん張って歌声を出す。

 そして、すぐに後悔した。


 漏れそうだった。

 ……あぁ、もうだめかもしれない。

 漏れそうだ!


 脂汗が止まらない。

 全身を冷たいものが走る。

 まだ辛うじて歌えているが、どちゃクソ苦しい。

 本当にピンチだ!


 ヤケクソの特大ジャンプがいけなかった。

 会場を埋めつくす青色ペンライトの巨大なうねりがトイレの流れを連想させる。

 私は引き際を見誤ったのかもしれない。


 ……うんこ、漏れる、漏れちゃううんこ!

 待って、まだフィニッシュしないで。

 便器はここにない。

 私はいま、うんちができない!


 押し寄せては引いていく地獄の輪舞曲。

 今回の波はさっきの数倍強烈だった。

 ひょっとすると今世紀最大かもしれない。

 臨界点突破まで5秒前って感じだった。


 いやだ! お願い締まっていて肛門!

 神様お願いします今じゃないって!

 もうちょっとだけ!

 まだ頑張れるでしょ? 頑張れるよね? ねぇ頑張ってよ!?

 アイドルはうんちしないの!

 しないんだから! 漏れないで!!


 いくらなんでも、サビの途中では抜けられないの!

 トップアイドルとしての矜持もあるの。

 だからお願い!

 神様!


 幼い少女のようにひたすら祈りつつ、私はいま出来る全力で歌う。

 軽い眩暈に襲われて世界の輪郭が少しボヤけた。


 便意がピークを迎える。

 それは、世界が一瞬滅んだんじゃないかと思うほどの隔絶だった。

 うんこの出産を我慢する私の意識だけがそこにあった。

 武道館のステージ上で歌う私はその一瞬だけ抜け殻になっていた。

 

 そんな地獄のピークが、いま去っていく。

 私は辛うじて、ソロパートのサビを歌い切った。


「(……ガチで、あぶなかった)」

 生死を賭けた緊張感から解放される。

 私は小さく身震いした。


 間奏をはさみ、ここからラストパートだ。

 メンバーはここが最後の見せ所と汗を飛ばして踊っている。

 しかし私は、任されているダンスパートを捨てるしかなかった。

 8000m級の峠は超えたものの、お腹の中のうんこが暴れているからだ。

 油断したら出産してしまう。


 だから私はその場に突っ立って、俯き、猛攻する便意に耐える。

 お腹の調子を整えることに集中する。

 次のビッグウェーブに備えるのだ。


 何があっても、決して、脱糞する瞬間は人には見せられない。

 見せられないんだけど、どうしてもステージを降りる決断はできなかった。

 もう少し……!

 もう少しだけだから……!!


 メンバーは私が抜けた構成の穴に構わず、決められたダンスを踊りきった。


 ――間奏が終わる。

 最後は全員が歌うパートだ。

 私は顔を上げて、魂を溶かすようにして絶唱した。


 ほどなくして、強烈な便意に襲われた。

 周りの音が耳に入ってこない。

 いま立っているはずの武道館が遠くなる。

 うんこがもうそこまできている!


 ……私は。

 うんこなんかに負けない……!


「(うっ!)」

 ここにきて、今世紀最大のビッグウェーブ(2度目)がやってきた。

 肛門括約筋がピクピクする。


 私のアイドル人生はこの曲でおしまいだ。

 だから、すべてを出し切ってもいい。


 うんこだけはお腹に押しとどめ、他一切のエネルギーは細胞一つ残らず歌声に変換する。

 極限の我慢状態によって自我は溶け、歌うという行為が意識からこぼれ落ちる。

 私は武道館と一体になって溶けあった。


 そう思ったのも束の間、それは急にきた。


 ……あ。

 限界だ。

 限界です。

 出ちゃ、出ちゃう……!


 急に意識が戻ってきた弊害なのか、もう我慢できない便意だった。

 絶対外に出るぞという固い決意に満ちたうんこだった。

 歌声がかすれ、全身が小刻みに震える。

 あと3フレーズだけなのに……!


 動けない。


 もうダメだ……もうダメっ!

 もう舞台袖にも間に合わない!

 クール系美少女こと私が、舞台上であえなく脱糞してしまう!


 やっちゃった。

 お母さん! やっちゃったよお!

 神様どうして……!

 どうして見捨てるのぉぉぉ!!


 全身を硬直させ、目をつむり、自分でもわかるぐらい顔を真っ赤にさせて肛門をロックする。


 神様、何でもしますから!

 お金も払います!

 だから、漏れないでぇぇぇ!!


 そう祈った瞬間――便意の波がすぅっと引いていった。

 神の救いだと思った。

 いまならアイドル生活で貯めた2000万円の貯金だって喜んで寄付できる。

 そんな気分だった。


 メロディーが終奏に向かっていく。

 終奏だった。


「はぁ、はぁ」

 ……私は、逃げきったのか……?

 クール系美少女アイドルとして私は引退できるのか!?

 ところどころ学芸会の木の役のように棒立ちになってしまったが、それはともかくとしてだ。

 うれしい!


 チラとメンバーを見やると、彼女たちは憮然とした表情で私を見ていた。

 とたん、浮ついた気持ちが立ち消える。


 ……ごめん。わざとじゃないんだ。

 あとでしっかり謝ろう。


 私は息を整えて、いまと向きあう。

 さっきまで嵐のようにどちゃクソ暴れていたお腹が、いまは嘘のように凪いでいる。

 ただ、この状態は長くは持たない。

 きっと次は耐えられないだろう。

 ここが限界。

 引き際だ。


 ――メロディーが終わる。

 私たちは頭を深く下げた。


 武道館は一瞬だけ静寂に包まれて。

 それから、万雷の拍手が起こった。


「「「くーくりん、くーくりん!」」」

 どこからかラブコールが始まり、それは瞬く間に会場全体に波及した。


 本当ならそれに答えるべきなんだろう。

 みんなに贈る最後の言葉だって、もちろん用意はしていた。

 しかし。


 私は舞台袖を見やる。

 一番近いトイレまでおよそ50メートルほどだろう。


 ……ああもう、ここが引き際だっていうのに!

 私は顔を上げて前を向き、マイクに向けて短く言った。


「みんな……ありったけの応援をありがとう! ごめんみんな、じゃあね!!」

 小さく手を振って逃げ出そうとしたら――リーダーに強く肩を掴まれた。


「ちょっ、玖久璃! まだ終演じゃないし、締めの言葉とかどうすんのさ!?」

「適当に答えておいて!」

「はあ!?」

「ごめん!!」


 無理やり手を払い、ダッと走る。


「玖久璃! 戻って!」

「無理、ムリ、むりぃ!!」


 静止しようとするメンバーの手を振りほどく。

 少し遅れて、泣き叫ぶような奇声が会場から上がった。

 

 ……すまない、どうか許してくれ。

 このままステージに立っていると、みんなの今日の記憶がうんこまみれになってしまうんだ。

 私は惜しまれながら引退したいんだ。

 アイドルとして有終の美を飾りたいんだ。

 うんこマンはいやなんだ。

 許して。


「ありがとー! ありがとー!」

 それだけ言ってマイクをオフにする。

 そして武道館には一瞥もくれず、まっすぐ舞台袖に走った。

 

「……玖久璃!」

 舞台袖から飛び出してきたマネージャー。

 殺す気で睨みつける。

 マネージャーは両手を上げて固まった。

 その横を無言で通り抜ける。

 スタッフさんたちも絶句した様子で通路の脇に避けていく。


 私はもうアイドルの顔をしていなかった。

 いまこの瞬間に、女としての尊厳がかかっている。

 私は必死だった。


 肛門括約筋がピクピクと震えている。

 いまにもスカートの中に手を入れてお尻を抑えてしまいそうだった。

 うんこが待ちきれないといった感じで顔を出そうとしている。

 マジでやばい。

 やらかす。

 私はできるだけ体を揺らさないようにしてトイレに急いだ。


「はぁ、はぁ」

 ようやくトイレに続く一本の細い通路に入った。


 ここまで我慢してきたんだ。

 私は頑張れる子だ。

 私はトイレでうんこが出来るアイドルだ。


「はぁ、はぁ……うっ!」

 人生が終わりそうな今世紀最大のビッグウェーブ(3度目)がきた。


 もれる。

 少し産まれてる。

 うんこがやぁしてる。


 歩けない。

 歩いたら人生が終わる。

 金縛りにあったように体が硬直する。


 トイレまであと15メートル。


 うんこが『もう出ていいですか?』と肛門から顔を出してくる。

 許可してないだろ! いい加減にしろ!!


 ここで立ち止まってやり過ごす余裕がない。

 

 ちょこちょこ。

 歩いては止まり、歩いては止まる。

 あと10メートルが果てしなく遠い。

 決壊しそうだっ!


 ……いやいや。

 私は人生で一度だって漏らしたことはない。

 だから今回も大丈夫。

 必ず間に合わせてみせる。

 一心不乱に、スリ足で、お腹に刺激を与えないようにして急ぐ。


「(……あぁ!)」

 とうとう私はトイレの入口にまでたどり着いた。

 艱難辛苦を乗り越え、ついに私はたどり着いたのだ。

 ここが私のラフテルだ。


 今日一で泣きそうになりながら女子トイレに入り個室に近づく。

 もう限界!

 スカートの中からパンツに親指をひっかけたところで――

 愕然となった。


 ……なんてことなの。

 5つある女子トイレの扉がすべて閉まっていた。

 無慈悲な拒否がそこにはあった。


 緊張の糸が、切れる。

 ……あぁ、終焉が。

 ケツから終焉が!


 ここまで頑張ってきたのに、便器にはたどり着けなかった。

 頭がそう理解してしまった。


 ブリッ。

 もちろん、私は力を振り絞った。


 ブッブリブリブリブリブリブリ~~~~!!

「……………………」


 私はあっけなく漏らした。

 トイレの個室を目の前にして盛大に漏らした。

 為す術がなかった。


 ブリブリッ。


「あっ」

 第2波がきた。


 もう私は抵抗しなかった。

 むしろ歓迎した。

 もう私に出来ることはない。


 ブリブリブリブリブリブリブリブリ~~~!


 肛門括約筋はガバガバに緩んで止まらなかった。

 パンツの中に汚物が溢れる。

 これが人生初のおもらしだった。


 「……っ」

 全身を突き抜ける不思議な快感に頭が真っ白になる。

 すべてがどうでもよくなるような圧倒的解放感だった。

 私はよだれをたらしたまま呆然と天井を見上げた。


 それから、どれくらい経ったのだろう。

 トイレの鍵が動く音で私は現実に帰ってきた。


 申し訳なさそうな顔した若い女性が個室から出てくる。

 一瞬だけ目が合った。


「ひっ!」

 若い女性は小さく悲鳴を上げると、すぐさま頭を下げて、手も洗わず逃げるように外に出ていった。


「……あぁ、そっかぁ」

 私、漏らしたんだったや。

 その事実が嫌すぎて意識が飛んでいた。


 見れば、私の股から漏れる茶色い液体が床と手を汚していた。

 生暖かい液体が両足を伝う不快感。

 エクスタシーのようなものはすでになく、あるのは絶望だけだった。


「……はぁ」

 そのとき、私はふと思った。

 キレイな左手でジャケットのファスナーを下ろしてスマホを取り出す。


「Hey Siri、うんこを漏らしたときに役立つ効果的な対処法をナショナル●オグラフィックで検索して」

『すみません、動画が見つかりませんでした』

「ないのかよ! ……クソったれ、なんて日だ!」


 さんざん我慢した末にうんこを漏らしたなんてことはメンバーにだって言えない。

 ……そうだ、墓場まで持っていこう。

 そう決意して、私は個室に入った。


 (完)

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