第二章 察知
ある日、僕は憂鬱な気持ちを抑え、なんとか家を出た。学校に行く、目的があるだけで、どうしてこんなに世界は色あせるのだろう。もし、この風景を描けと誰かに強いられたら、僕はきっと、色鉛筆を取り出すことはない。スケッチブックのページを使うのももったいないから、きっと、今さっき風で飛んできたチラシの裏にでも、丸まったただの鉛筆で、雑に描くことだろう。ただ、それほどまでに億劫でも、僕は学校に行く。それは、学校に行きたいからじゃない、不安定な母さんを安心させたい、それだけだ。
学校に早く着いても、なにもすることは無いので、僕は電車から降りた後、この前立ち寄った、あのロータリーへ向かう気でいた。あれから、あの時描いた絵を見返すたび、僕は、もう一度彼女を見たいという感情に駆られていた。彼女と仲良くなりたいだとか、話してみたいだとか、そんな、馬鹿馬鹿しいことではない。あの場所で佇む彼女と、それにそぐわない風景、その奇妙なミスマッチを、より美しく、より正確に、自分のスケッチブックの上に描写したい、ただそれだけだった。
それなら、写真に残してしまえばいいのではないか、普通の人はそう思うかもしれない。だが、この光景は、写真にした瞬間、それはただの日常になってしまうだろうし、彼女という神秘的な存在は、そもそも写真に写らないのではないか、という疑念もあった。ただそれ以上に、絵を描く人間にとっては、その光景を残す、という目的で写真を撮る、という行為は、なんとなく憚られる行為であるのだ。いや、こんな風に思っているのは僕だけかもしれないが、そういった目的で絵を描くのではなく、写真を撮ってしまえば、僕だけの光景が、壊されてしまう気がした。僕だけの世界に、客観的な画は必要ない。
改札を抜けて、駅の外へ向かう。段々胸の鼓動が高まっていく気がした。こんな気持ちになったのは、いつぶりだろうか、いや、そもそもそんな機会はあっただろうか。
そうこう考えていると、僕は、見覚えのある花壇に到着した。
・・・。
これまでの道中、僕は、胸を躍らせていた。しかし、いざ実際この場所にやってくると、底知れぬ緊張感が、僕を襲った。それを静めるように、一度深呼吸をした後、僕は意を決して、交差点の向こうに目をやった。
錆びたバス停、くたびれたベンチ、聞いたこともない会社の広告、雑草が生い茂った地面。
しかし、一番目を惹くはずの、それは、そこにはいなかった。そんな気はしていた。この数日間で、彼女をもう一度見たいという思いが強くなっていく反面、もう二度と見ることはできないのだろう、という思いも膨らんでいた。あの時、この絵を描いていなければ、あれは夢だったのではないかと錯覚したに違いないと、そう思うほどに、彼女という存在とあの日の光景は、僕にとって幻想的なものであった。彼女という存在を意識すればするほど、それは、現実から遠ざかった。そして、あの時また会えるなどと楽観的にに考えていた自分を恨んだ。
・・・仕方がない。
僕は、重い足を引きずって、通学路をたどった。
「おはよう、夢遊病さん。」
今日のクラスメイトとの会話は、これが初めてだった。どうやら登校中、彼は僕に話しかけてきたらしい。僕は、そんなこと全く覚えていなかったが、彼には印象的だったようだ。
「君、この前も僕らのこと無視したでしょ、なに、嫉妬?」
・・・うるさいな。
「自分が恵まれていないからって、恵まれている人を恨むのは筋違いじゃない?」
・・・恵まれている?
「もしちゃんと謝ってくれるなら、今度一緒に・・」
・・・。
僕の顔が歪んだからか、はたまた彼の気分が変わったからか。彼は、なんだよ、と言い残して去っていった。
「上手くいかないものだな。」
僕は窓の方を眺めて、消え入るような声で、そう呟いた。その言葉は、朝の喧騒と共に、チャイムの音にかき消された。
その日、結局僕に話しかけるクラスメイトは誰一人いなかった。今朝、彼にあれだけ冷たい態度をとったのだ、当然だろう。
それはそうと、クラスメイトが誰かと話している時間、僕は時間を持て余しながらも、彼らをずっと眺めている。そうすると、嫌でも見えてくるものがたくさんあるのだ。それは本来、人が隠したいと思っているであろうものばかりで、少しいけないことをしている気分になるが、それでも、僕はそれらをしっかりと観察する。話す相手がいなくなって寝たふりをしている人、話を合わせるためか、携帯電話で検索をかけている人、聞きたくもない誰かの悪口を、関係を壊さないために、苦い表情を浮かべながら聞いている人、それに全く気付かず、人を貶し続ける愚かな人。
こんなものを見ていても、なんら得がないようにも思えるが、人間、誰でも弱みがあると知りたいからか、そうすれば、自分だけが弱いのだと感じずに済むからか、僕はそれを見続けている。悪趣味な話だ。
一通り教室を見渡すと、僕は、昼食を買いにいくため、席を立った。すると、引いた椅子が、なにかにぶつかった。後ろのそれは、先日まで空席であったにしては妙に重く、僕は、椅子を大きな岩にぶつけてしまったかのような感覚を覚えた。後ろの机との間隔は、こんなに狭かっただろうか、そして、こんなに重かっただろうか。
・・・いや、人が座っているんだ。
自分の背後に、昨日までいなかった人がいる。騒がしいクラスメイトが、ただ席を移動しただけではないことは、話し声が全く聞こえないことと、椅子をぶつけても何も言わないことからわかる。転校生だろうか、いや、そうだとしたら紹介があるはずだ。なにかに気を取られることが多い僕とはいえ、さすがにそれに気づかないことはない。しかもそれが、すぐ後ろの席だというなら尚更だ。
思わず振り向くと、そこには病的なまでに白く、手足の細い女子生徒が鎮座していた。僕が、突然のことに動揺し、考えを巡らせている間、女子生徒は、心底興味がなさそうに、教室を眺めていた。まるで、この僕と同じように。その姿は、さながら悪趣味な自分を映す鏡のようで、僕は思わず目をそらした。こんなにも僕は、他人の目から薄気味悪く映っているのか、人の振り見て我が振り直せとは、良く言ったものだ。
この時僕は、クラスメイトをこそこそ監視することは、もうやめようと決意した。
昼休みが終わり、午後の授業になって気づいたことがある。それは、例の女子生徒は、恐ろしいほどに教室に馴染んでおり、まるで、元々そこにいたかのような、そんな雰囲気を醸し出している、ということだった。だからと言って、女子生徒は、クラスメイトと喋るわけでも楽しく遊ぶわけでもない。教室にいるそのほとんどの時間、押し黙って座っている、ただそれだけだ。あくまで後ろの席に座っているため、その一挙手一投足までもを確認することはできなかったが、時折、先生に名前を呼ばれると、静かに手を挙げるか、びくっと反応していることが、影の様子からなんとなくわかった。
その様子を観察するにつれ、女子生徒には、意外と人間らしい部分が垣間見えたため、先ほどまでの気味の悪さは、少し和らいだ。そうすると、一気に女子生徒への興味がわいてきた。
君は、どこから来たの?
君は、どうやって教室に馴染んでいるの?
君は、どうすれば誰ともなにも喋らなくても、平気でいられるの?
そんな疑問が、いくつも降って沸いた。
僕は、これまでの十七年間、自分のような人間をたくさん見てきたが、自分と同じ人間を見たことがない。クラスに馴染めない人、そんな人はいくらでもいる。でもその実、その人たちは、あの空気感に、憧れを抱いている。それが、充実した学生生活だと疑わずにいる。その憧れと、現実との差がその人を苦しめ、それはそのうち深い妬みへと変わる。そうなった人間は、彼らの尺度でいう、充実した人間を陰で恨み、憎み、そして、自分と同じような人間を見つけては、それらを共有し、安堵感や優越感を得る。こんなことを思っているのは自分だけじゃないんだ、自分たちだって、充実しているのだ、と。なんとおぞましい生き物か。
しかし、そんな人間ほど、その充実した人間たちに手を差し伸べられれば、簡単に寝返る。そうやって、僕は何度も裏切られてきた。聞きたくもない恨み辛みを永遠と聞かせ、関係の破綻を盾に無理矢理にでも同意を促し、散々自分の空虚感を埋める器として他者を利用した挙句、彼らはいつも、僕にこういう視線を向ける。早く君もこっちにきなよ、という視線を。誰も、そんなこと望んでいないのに。僕はただ、君と仲良くなりたかっただけなのに。
誰かに彼女について尋ねてみたいものだが、生憎僕にそんな友達はいない。なら、直接尋ねてみようかとも思ったが、あんな調子でクラスメイトを眺める人から、返答は戻ってきそうにない。なにせ、僕がそうなのだから。
興味はそこそこに、その日は、何もせず下校することにした。今日の僕には、あと二つ、楽しみが残っている。
坂を下っている間、僕は、灰色の空を眺めていた。今晩は雨らしい。この調子だと、今日は綺麗な景色を見ることはできないであろうが、見るだけで憂鬱になるような町の形相も、僕にとっては親近感があって、嫌いではない。しかし、それらはとてもスケッチブックに描くような、そんな景色ではない。市場は、相変わらず夜への準備で騒がしかったが、商店街は、さながら、心霊スポットのような雰囲気を醸し出しており、人間の力が及ばないような超常現象も、なんなく起こってしまうような、そんな町並みだった。
どんよりとした町を抜け、駅のロータリーに到着した。期待を寄せてはいたものの、交差点の向こう、バス停の前に、やはり彼女の姿はなかった。粘ってみてもよかったものの、彼女に会うことができるのは、偶然の一致が起きたその一瞬だけだと、そんな風になんとなく感じていた僕は、大人しく、そのまま改札へと向かった。
今日の楽しみは、二つとも簡単に消えてしまった。心揺さぶられる景色に出会うことは、彼女に会える日は、あと何回来るだろうか。
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