第一章 出逢い
その日、僕はあてもなく、昼下がりの町を歩いていた。つまらない学校を四限で早退し、目的もなくぶらつく、そんな時間が、色あせた僕の人生の、ピークのような気がする。今もクラスメイト達は、退屈な授業を、うだうだと文句を言いながら受けているのだろうと思うと、少しの背徳感と、罪悪感に見舞われた。それと同時に、心のどこかで、そんな時間が羨ましいと思ってしまっている自分から、僕は目を逸らした。
見慣れた町も、今日見る町は昨日のそれではない。そう思うと、何気ない町並みが、風が、雲が、太陽が、とても色鮮やかに見えてくる。景色とは、そういうものだ。見る人の価値観や考え方、その時の心境や心持ちに、それらは大きく影響される。だからこそ、風景画というものは素晴らしいのだ。そこには、その人にしか見えないものが描写される。写真が残せるのは、あくまで客観的なその光景だけだ。その人が見た、その人だけの光景を残すことはできない。
さて、今日は、どんな表情をしているだろう。
そう思って歩いていると、早速今日だけの町を見つけた。道、標識、家々、看板、それらが、先日の雨に濡れて、艶やかに光っていたのだ。
「とても綺麗だ、今度は、雨上がりの町を描いてみようか。」
独り言をつぶやきながら、それらに心を奪われていると、すぐ近くから、四つの車輪がけたたましい音をあげたのがわかった。
心が自然と一体化しているかのような、そんな気概を一瞬にして現実世界へと戻してしまうもの。それが、人間たちにとって、既に無くてはならない存在となった、テクノロジーだ。それが身に迫れば、僕たちは、それに注目せざるを得ないのである。
音の方向へ目を向けたところで、僕はようやく状況を理解した。一台の古い軽トラックに、危うく轢かれそうになってしまっていたのだ。
「おい、そこのガキ!どこ見て歩いてるんだ。」
急な怒声に驚きながらも、僕は、頭を下げて謝った。そうすると、おじさんは満足したように鼻を鳴らした後、窓を閉めて、車を発進させた。なんて単純な人間だ。
途中で邪魔が入ったが、町は、思った以上に美しかった。学校から駅までの道、それはたった十五分ほどの道のりだが、とても魅力的だ。校門から坂を下ると、海沿いの道に出る。そして、そこからしばらく歩くと、市街地に入る大通りがある。そこは、町では一番賑わっているとも言える市場がある場所で、それに付随した飲食店が立ち並ぶ。夜は、オレンジ色の灯りと共に、連日連夜人々の笑い声や話し声がこだまし、それは活気のある場所になるそうだ。僕は、生まれてこの方、一度しかその光景を見たことがないが、たまには、そういった喧騒も悪くないものだ、と感じたことを覚えている。
今は、というと、朝の卸売りが終わって、ちょうど品を店頭に出し終えた頃だ。そのため、そこは夜とは打って変わってもの静かで、とても数時間後に人で賑わうような場所だとは思えなかった。
大通りを抜けると、そこはちょっとした商店街になっていて、いろいろなお店が犇めいている。しかし、それらへの客足は、車で十五分ほど行ったところに新しくできた、大型商業施設に奪われてしまったようで、今では、まるでゴーストタウンかの如く廃れてしまっている。その様は、少しもの悲しく感じられる光景ではあるが、そんな光景にも、そこにしかない情緒があって、僕は結構好きだ。
そこから少し歩くと、道は大きく開き、いよいよ駅が見えてくる。この駅は、ここら辺では結構大きな駅で、バスターミナルがあるロータリーを備えている。ここから町の至るところにバスは走っているようだが、残念ながら、乗客はいつ見てもまばらだ。
今日の僕は、学校からここに至るまで、雨に濡れた町を、ぼーっと眺めながら歩いていた。そのため、特にこれといった特別な光景を見つけることはできなかったが、しいて言えば、大通りへと入る曲がり角にある、濡れて光ったカーブミラーに移った、海と水たまりのコントラストが、とても綺麗だった。海という大きな水槽の端っこに、水たまりという、一か所だけ違う色の穴が開いているような、そんな光景だった。こんな風に、僕の人生にも、違う色の、今までとは異なる最後が待っていたりするのだろうか。その場所にいるときは、こんな虚しさを感じずに済むのだろうか。今までの全てを許し、それでも良い人生だったと思えるような、そんな最後が待っているのだろうか。いや、きっと、今を適当に生きている僕に待ち受ける最後は、今よりずっと酷いものになるだろう。
スケッチブックに描こうかとも思ったが、余計な妄想によって、少し気分が盛り下がってしまったために、今日は、やめておくことにした。
そうこうしているうちに、僕は、駅のロータリーに到着した。僕の今の高校は、家から少し離れており、毎日電車通学をしている。だからこの駅が、僕の日々の旅行のゴールであり、ここへ辿り着くことは、憂鬱な現実への回帰を物語っていた。
「もう終わり、か。」
そう呟くと、僕は、普段通り駅の改札の方へ向かった。
だが、その道のりの途中、信号を渡っている最中に、ふと交差点の向こう側を見た時、僕の目に、一つの光景が映った。それは、ほんの一瞬の出来事だったが、僕の歩みを止めるには、充分すぎるほどに美しく、心撃つ光景であった。
古くなったバス停の隣に、女性が立っている。リボンのついた、白いハットを深くかぶっているため、顔はよく見えないが、白いワンピースを着ていることから、その人物が、女性であることはわかる。僕の目には、その真っ白な体裁と、ちょうど日光に照らされたバス停が、妙にきらびやかに映ったのだ。
・・・きっとバスを待っているのだろう。
足を止めた僕は、暫しの間彼女を見つめ、当然のように、そう思った。バス停の前に立っているのだ、自然なことだろう。そのバス停は利用者が少なく、そろそろ使われなくなると駅の掲示板に書いてあった気がするが、こんな平日の昼間にも、どうやら利用者はいるようだ。バスが無くなれば、少なからず不便になってしまうに違いない。
だが、僕には関係のないことだ。高校生になってから、この街に通うようになってはいるものの、そのバスに、ただの交通機関一つに、深い思い出や哀愁は無い。
美しさに目を奪われながらも、点滅する信号に急かされ、それらから目をそらそうとしたとき、ちょうど、バスがそこに到着しようとしている様が確認できた。やはり、乗客はほぼいない。
「あれじゃあ、廃止になるのも仕方がないな。」
言い終わるより先に、バスはそのバス停を、当たり前のように、通過した。
・・・あれ、どうしてだろう。
僕の頭は混乱する。依然として彼女は、バス停の前に立ったままだ。運転手から見えなかったのだろうか、いや、そんなはずはない。あんな全身真っ白で、目立つ格好をしている人を、運転手が見つけられないはずがない。実際、僕も交差点の向こう側にいながら、彼女に目線を奪われてしまったのだから。
・・・どうやら彼女は、バスを待っているわけではないらしい。
そんな考えが頭をよぎる。それが事実なら、彼女という存在は、僕の中で、非常に奇妙なものとなる。平日の昼下がり、廃止寸前のバス停のベンチの前で、なにをするでもなくただ立ち尽くす、全身が純白で覆われているにも関わらず、バスの運転手にも気づかれない女性、どう考えても普通じゃない。
そう思った僕は、なにかスピリチュアルなものに出会った気がして、交差点を渡り切った先にあった、ここに座ってください、と言わんばかりの花壇に腰かけて、しばらく彼女を眺めてみることにした。
彼女は、本当に、ただそこに立っているだけだった。時々態勢を変えてはいるものの、それはよく観察していないとわからないほどだ。それから、時が経てば経つほど、僕の中の彼女は、別世界から偶然この世にまぎれこんでしまったかのような、この町という現実から著しく乖離した存在に思えてきた。なぜそんな風に感じたのかはわからないが、その時の僕は、彼女がこの世界の住人ではないと、そう思い込んで疑わなかった。
そんな彼女をずっと眺めているうちに、この不思議な光景を、絵に描いて残したいという思いが増していった。目に焼き付けるだけでも、写真に撮るだけでもダメだ。
僕は、たまらず鞄から色鉛筆とスケッチブックを取り出すと、その異様な光景の描写に着手した。
それから、どれだけ時間が経っただろう。来た時には閑散としていた駅は、学校帰りの学生で溢れ、賑わっていた。僕は時間も忘れ、ただ絵を描き続けていたが、その作業も、ようやく終わりを迎えようとしていた。最後まで、丁寧にそこにあるものを描き切った後、完成した絵を客観的に改めて見つめると、それは、彼女をスケッチブックの中心にしっかりととらえ、この奇妙かつ美しい、なんとも不思議な光景を、正確に描写していた。被写体があまりに素晴らしいから、という補正はもちろんあるが、我ながら、非常に綺麗な絵画だ。
僕はとても満足したが、それと同時に、僕が絵を描いていた間、一歩たりともそこから動かなかった彼女を、もっと眺めていたいとも思い始めていた。この先ずっと彼女を眺めていれば、彼女はいつか、見たこともないような、超常的な現象を引き起こすのではないかと、そう思えたからだ。
しかし、それから何分経っても、彼女はそこから動かなかった。何かを引き起こすどころか、人間らしい行動の一つも取りはしない。広場の時計を見ると、時刻は既に午後五時を回っており、日も暮れ始めてきた。
あまり、母さんに心配をかけるわけにもいかない。この上なく名残惜しいが、僕は、彼女の観察を一時中断することにした。やめるわけではない、あくまで中断だ。もし、彼女が本当に得体のしれないなにかなら、またいつか、必ずここに現れるはずだ。そういった神秘的ななにかは、場所というものに、執拗なこだわりを持っていると、どこかで聞いたことがある。彼女にとってあのバス停は、きっと僕の想像など及ばないほど、特別な場所であるに違いない。だとすれば、きっとこの場所で、必ずまた出会えるはずだ。
僕は、色鉛筆とスケッチブックを鞄にしまうと、駅の方へ歩いて行った。その間も僕は、交差点の向こう側にあるバス停にちらちらと目を配らせたが、彼女がそこから動くことは、決してなかった。
駅の構内に入ると、先ほどまでの神秘的な時間が嘘であったかのように、世界は、人々は、憂鬱な日常へと引き戻された。
僕は、改札に向かう途中で、あろうことか、同じクラスの同級生と、遭遇してしまったのである。
「サボってするお散歩は楽しかったですかあ?」
嘲笑しながら声をかけてきたその人たちは、この学校の生徒になってからずっと同じクラスで、なにかと僕にいちゃもんをつけてくる男女六人のグループだった。これから映画を見て、カラオケに行くらしい。彼らは、羨ましいならお前も女連れて来いよ、などと吐き捨てた挙句、笑いながらその場を後にした。
そんなことが、なんの自慢になるというのか。集団でいることや、流行りに乗ることのどこに、僕の、この人生より優位であることを示す根拠があるというのだろうか。
「気分悪いな。」
拳を強く握って、俯きながら発した僕の小さな抵抗は、ちょうど駅に入った電車にかき消された。
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