王宮篇
第4話 「魔法」
草原を抜けると小道に出てきた。
慣れ親しんだアスファルト舗装は見る影も無く、ただの土である。
風景はというと、のどかなド田舎と表現するのが一番適切かもしれない。木造っぽい家がポツンと一軒だけ建っているのは見たが、オンボロだったので人は住んでいないのだろう。
こうして歩いてみると、舗装・整備された道というのがどれだけ有り難いのかがよく分かる。ここら辺は人の通行量が少ないのか、凸凹は多いわ、ぬかるんでいるところが有るわで歩きづらい。
「矢島さん、あれ」
「ん? おー、看板だね」
しばらく道を歩いていると、道の脇の方に看板が立っているのが目に入った。ちょうど道の分岐点だ。もちろん道路標識のような金属製のものでなく、木製のそれである。木の棒に木の板が無造作に取り付けられていた。
まあ、無いよりはよほど良い。看板の手前まで歩いて、文字列を目で追っていく。
『→ σ%“♂ψ
↑ κ*”#ε』
前言撤回。何が書いてあるのかがさっぱり分からん。無い方がマシだろ、こんなの。
「読めます?」
「まさか」
「ですよねえ」
道の分岐点は右に行くか、直進するかだ。矢印はそれを表わしているんだろう。矢印は全世界共通なんだなぁと感心する。
ちなみに文字はなんのこっちゃ。何となく俺の知っている文字の形に見立ててみたが、当然ながら分かるわけが無い。
「どっち行く?」
「建物のある方にしましょう」
「だよね。じゃあ右か」
元より人が居そうなところに行く予定だったのだ。看板を見ようが見まいが、答えは変わらなかっただろう。
直進ルートはでっかい山が沢山そびえ立っている。山の大きさなんて掴めないが、静岡の御殿場で富士山を見るぐらいには大きい。
ペタペタと道を歩いて行く。裸足だからか土の感触が妙に気持ち良い。慣れてみると案外良いものだ。
あの森を歩いているときは、抜け出せるかどうかの切羽詰まった状況だったので、そんなことを気にする余裕も無かった。
「そういえば」
「はい?」
「例の匂いはしなくなった?」
「ああ、はい! 気分も良くなりました! 絶好調です!」
元気はつらつ、そんな調子で嶋村さんは話す。足を一歩、一歩と出す度にブカブカの靴がプラプラと揺れている。その様子は不格好ながら、微笑ましい。
例の匂いは、やはりあの森に関係しているようだ。
匂いの薄い場所を目指していくと、森を出られる。
じゃあ、逆に匂いの濃い場所は? 何があるというのだろう。おそらく、俺が転移した場所は匂いの濃いところだった。
あの不思議な生態系も、例の匂いが影響しているのだろうか。
「街に着いたら、まず私の靴を手に入れなきゃですね」
「そうだね。一応財布はあるけど、日本円って使えるんかな」
「さっきの意味不明な看板見た後だと……」
「だよねぇ……」
そもそもお金の概念があるかどうかも分からない。
無ければ物々交換だろうか。幸い、俺は物珍しい文明機器を持っている。それが高値で売れれば、しばらくは何とかなるか。
勿論、こちらの世界に文明が発達していないのが前提だ。まあ、文明が発達しているのにお金の概念が無いというのも有り得ないか。
「ここってやっぱり異世界なんですかね?」
「どうだろうね、自分たちの世界と異なっているって意味では間違いないけど」
看板の読めない文字列。アラビア文字とかハングル文字でも無い。見たことが無い文字。
そして見たことが無い文字だと、人間、勝手に見たことのある文字へと脳内変換してしまうらしい。
形は確かにそれっぽかった。数学、物理で使うよく使うギリシア文字に似ていた気がする。最も、一目見てすぐに読めないと判断したので文字の形すら覚えていない。写真でも撮っておくんだった。
「ふと思ったんですけど」
「どうしたの?」
「矢島さんってめっちゃ準備良いですよね。靴とか食べ物とか水とか」
気付かれた。
耳が痛い話だ。何せ二十一歳の大学三年男が異世界に行けるかもなどと、ワクワクで準備していたのだから。
いや、勿論軽い気持ちだった。失敗したらどっか山でも登りに行くかー、ぐらいのノリだったんだ。
「いや、あれね。なんかね、近くにね、たまたま山登りで使ってるリュックが有ってね。それがまあ、偶然一緒にこっちに来たって言うかね……」
我ながら苦しい言い訳だった。山登りに行くためだけに、関数電卓や手回し発電機を入れていく人間はいない。数学キチガイは電卓片手に歩いているかもしれないが、自分はそれほどでは無い。
流石に誤魔化せないかと嶋村さんを見ると、どうしてか目をキラキラとさせていた。
「凄いですね……! 私なんか何も準備せずに来たんで、恥ずかしいです……」
それが普通だと思う、とは口に出さないでおいた。
俺はどうやら嶋村さんから尊敬の目で見られているらしい。そんな少女の淡い希望を壊すほど野暮なことをしたくは無い。単純に尊敬されるって気持ちが良いし。
どうして異世界に飛ばされた主人公達は身一つで生きられるのだろうか。
まず前提として異世界語が分かるのが凄い。ここを異世界と言って良いのかは分からないが、俺にはサッパリだった。
自動翻訳スキルでも有るのか、もしくは本当に偶然で言葉が同じなのか。
まあ良い。言語が違うのならば学び直すだけだ。これでも一応は国立大生。英語はそこまで苦手じゃ無い。特別好きでも無いが。
「建物、見えてきましたね」
嶋村さんの言葉に、おれは頷く。
看板の立っていた分岐点から十分ほど歩いたところ。一際目立っている教会とその他の建物が目に入る。
そのまま進んでいくと、また読めない木の看板が立っている。ここが街の入り口か。
何だろう。
街を見たとき、酷く不格好だという印象を持った。
教会は遠目に見ても立派だ。中世のヨーロッパ的建築を思わせるフォルム、神聖で優美という言葉がピッタリと当てはまる。
しかし、浮いている。周りに建っているのは量産型の豆腐。デザイン性もへったくれもない。
違和感の正体はもう一つ。
道が舗装されていない。どうしてか俺は中世のヨーロッパの街並みを想像していた。異世界モノを見過ぎた影響か。
中世に限らず、ある程度の文明では道は舗装されているものだ。すぐに思い浮かぶのはカラフルなタイルで敷き詰められた道。歩くだけで、見ているだけでワクワクするような道だ。
しかし、そうじゃなかった。俺は変わらず土を踏んでいた。
何だ、ここ……?
太陽が照らしているはずなのに暗い。出歩いている人は極端に少なく、活気も無い。この土地に足を踏み入れることに後ろめたさを感じる。
「矢島さん、どうしますか……?」
嶋村さんも俺と同じような気持ちなんだろう。
行くか行かないか。この雰囲気で住民に何か聞けるかと言われると答えは否。スラム街なんて見た経験は無いが、例えるならこの街はそれに近い。
しかし、迂回したらしたで、次はいつ人に会えるか分からない。
現在位置が分からない。食料と水は残りわずか。寝る場所の確保なんてもってのほか。こんな状況で次を逃したら? そもそも次が有るのか?
「進もう」
進むしか無い。
誰か親切そうな人を見つけて、聞けば良い。もし言葉が通じなくてもジェスチャーなら何かが通じるかもしれない。困っていたら助けてくれるかもしれない。
ただの希望的観測だ。けれど
街に入ると独特の臭気が鼻を刺激する。下水のような、ゴミのような、何かが腐敗したにおい。
ああ、ここはそういう街なんだな、と嫌でも実感させられる。
ジロリと住民の視線が刺さる。観察をしているのか、値踏みをしているのか。
何に疑惑の視線を向けている? 顔か、服装か、持ち物か。いや全部か。
「どこに向かえば良いんでしょう……?」
先程より明らかにボリュームを落として、嶋村さんは問いかけた。
ここまで観察されていると、会話もしづらい。
「ひとまず教会に行こう。一番何とかなると思う」
教会への距離はここから歩いて五分ぐらいか。周りの建物と背丈が違いすぎて、正確な距離が分かりにくい。
背負っていたリュックが、不意に揺れた。振動に遅れるように、カツンと何かが地面に落ちる音がする。
それは石だった。俺は石を投げられたのか?
ぐるりと周囲を見渡すと、一人の少年が目に入る。
五歳か、六歳か、それぐらいの年頃。
小さい手には、大きな石が握られていた。
小さい子に蹴られたら、叩かれたらどうする?
逃げる? 放っておく? いや、俺なら叱る。
子供の頃は悪いことをしたら叱られていた。叱られて、学習して、そうやって社会に溶け込んだ。
当たり前だ。常識だ。
だから俺は、反射的にその子へと歩みを進めた。ここが自分の常識の通じない世界であることも忘れて。
「矢島さん!――」
嶋村さんがそう声を上げたときには遅かった。
無機質な四角い箱のドアが開き、人が一斉に出てくる。
――囲まれた……!
どうする? どうすれば良い?
必死に頭を回していると、大男が一歩前に出てきた。
頭部には飾り物めいた大きなフサフサの獣耳が付いている。彫りの深い顔に青筋を立てて口を開いた。
『ユッタイブ』
は? ユッタイブ?
日本語じゃ無い。言語によるコミュニケーションは不可能だ。
じわりと、手が汗で湿る。首筋を流れる汗はやけに冷たい。
とりあえず、敵意が無いことを示さなければ。俺はゆっくりと両手を上にした。
『『『――――!!』』』
瞬間、地鳴りかと錯覚するほどの叫び声が、ビリビリと鼓膜を震わす。
先程の大男を含めた五人がこちらに駆けてくる。人のものとは思えないほどのスピード。十メートルほどの距離は一瞬にして詰められる。
せめて、せめて嶋村さんだけは。
助けないと。
嶋村さんの前に立って、両手を大きく広げる。彼女への進路を完全に潰す。
どうしてか頭はクリアだった。
男たちが手を大きく振り上げる動作は、やけにスローモーションで。爪は獣のように長く鋭い爪で。俺にはそれを避ける
頭には攻撃的な爪とは対照的に、柔らかな印象のふさふさとした耳。その
なんでだよ……。俺の方が恐い思いをしてるってのに。
俺が何をしたんだ。何もしてないだろ。
なんで。なんでそんな顔で俺を見るんだ。
刹那、男たちがふありと宙に浮く。タンポポの綿が風に煽られて飛ぶように、いとも容易く。ふわり、ふわりとあっという間に五メートルほどの高さまで到達する。
何だ、何が起きた?
呆然と男たちを見上げるも、男たちも何が起きたのか分からない様子だった。
「おー間に合った。危ねー」
どこか楽しんでいるような声。今の現象を起こした張本人だろう、無意識にそう確信していた。
「浩樹くん」
ぽそりと言ったのは嶋村さん。
昨日から何度も聞いた名前だった。
「なんで咲希はこんなとこいんだよ……。たくっ……」
その声色は、呆れているようで、でもどこか嬉しそうで。
「まー、今はいっかー。とりあえず、こいつらツブせば良いんだろ」
そう聞こえたかと思ったのも束の間、高々と持ち上げられた男たちは一瞬にして地面に落下する。
グシャリと、折れるような砕けるような音が耳に残る。手足を抑えて呻いてる男たちはどこか演技をしているようにも感じられた。
どこまでも現実なのに非現実的だ。
俺はこの日、初めて『魔法』を目の当たりにした。
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