第86話 一線を越えない男
瑞樹が海外へと旅立って4日目の夜。
くるみはついに決行する。
ウラシマに薬を盛るのだ。
(ど、どうなるかな……?)
異世界の聖女の生まれ変わりである古井コガレ謹製の一品。勘の鋭いウラシマにすら悟らせぬ無味無臭の媚薬。
ウラシマは何も気づかず、いつものようにくるみと談笑しながら席につく。
今日の晩ごはんはカレーだ。
食欲をそそる匂いが部屋中に漂っている。
2人で手を合わせた。
「いただきます」
晩ごはんを作るのはウラシマの役目だ。
そこに自然に薬を盛ることは難しい。
だから選んだのはお茶だ。
ウラシマが来て以来、くるみはぐーたら生活を送っているとは言え、たまにはコップとお茶を用意したりすることもある。
今回、お茶を用意したことに不自然さはなかったはずだ。
「ん? どうした?」
「な、なんでもないよっ!」
慌てて首をふる。
(自然体でいなきゃ)
バレたら全部瓦解する。
恥ずかしい思いをしてまで秘密の薬を手に入れたことが無駄になってしまう。
彼の信頼を失ってしまう恐れもある。
動揺を隠すために食事に意識を移してスプーンを口にした。
「か、からいぃぃっ!」
舌が焼ける。
口から火が出そうだ。
「あー、やっぱ辛かったか?」
「だ、だひじょふぶ」
辛すぎて呂律が回らない。
でも文句は言えなかった。
辛口カレーを望んだのはくるみだからだ。
くるみが辛口を求めたのには理由がある。
媚薬は無味無臭であるとはいえ、バレないか心配だった。辛口カレーという強烈なスパイスで、お茶に仕込んだ媚薬を誤魔化せるのではないかと思ったのだ。
くるみは普段辛口カレーは絶対に食べない。
辛いのは苦手だった。
あまりの辛さにウラシマに媚薬水をのませることなどすっかり忘れてしまう。
コップを手に持ってお茶を飲む。
氷で冷やされたお茶が口内を癒していった。
「ぷはー、冷たいお茶が美味しい!」
心の底からの言葉であった。
そして、だからこそウラシマにも響く。
「辛いものを食うとお茶が美味いよなぁ」
そう言いながら彼もコップを手にとる。
「あっ……」
意図したことではなかったが結果として、凄く自然にお茶を飲ませることができそうだ。
「ん?」
「あ、えっと、なんでもないよ」
「今日は様子がおかしいぞ」
そう言いながらもウラシマはお茶を飲み始めた。
喉ぼとけが上下に動くたびに、媚薬の溶け込んだ液体が身体の中に入っていく。
コップを大きく傾けて飲み干した。
「ぷはぁー!」
カツンと小気味のいい音を立てながら空になったコップをテーブルに置く。
(全部、飲んじゃった)
もう後戻りはできない。
後は効果が出るのを待つだけだ。
何気ない風を装いながら彼を観察する。
「ふぅ、あついな」
ウラシマが少し気だるげに息を吐く。
Tシャツの胸元を掴んでパタパタと空気を入れ始めた。
ドキっとする。
無意識の行動なのだろう。
ウラシマにとっては特に意味のない動きのはずだ。
でも意識しまくりなくるみの視点では、まるで性的な仕草のように思えた。
「おー、顔真っ赤だな」
「あ、えっ、あっ」
「くるみちゃんに辛口は合わなかったかもな」
けらけらと笑っている。
どうやら辛さで顔を赤くしたと誤解したらしい。
好都合だ。
「無理して食べる必要はないぞ?」
「でも折角作ってもらったし……」
食べないと晩ごはん抜きになってしまう。
辛いのが苦手であるとはいえ、カレーのスパイシーな香りに空腹を刺激されている。
辛口カレーであっても挑戦したくなるほどにはお腹が空いていた。
「安心していいぞ。こんなこともあろうかと甘口も用意している」
くるみが晩ごはんに辛口カレーを要望した。
そしてウラシマ自身は辛いものが苦手ではない。
にもかかわらず辛口カレーを食べられなかったときのために甘口カレーを用意していたということは、くるみが辛口カレーを食べられないと予想していたことになる。
ウラシマにそんな予想をされて、しかも的中した。
情けないことではあったが、くるみは素直にウラシマの心配りを喜んだ。
新たに机に出されたカレーの皿を見つめながら礼を述べる。
「ウラシマさん大好き!」
「お、おう」
ウラシマが動揺している。
くるみは男を誘惑することが下手である。
だが余計なことを意識せず、素直な気持ちで感謝を表現した笑顔。
それは媚薬が効き始めたウラシマに突き刺さった。
「ん~、おいしい! やっぱりカレーは甘口じゃなきゃね」
くるみはウラシマの様子にも気づかず、無邪気にカレーを味わうのであった。
◆
くるみは湯舟につかりながら呟く。
「おかしいなぁ」
『魔女』で購入した媚薬。
その効果は絶対のはずだ。
媚薬を飲ませてから既に2時間が経った。
もう確実にウラシマにも効いているはずなのだ。
お湯を手ですくって肩にかけて、ほぅと息を吐く。
浴室の扉を見つめた。
本来であればウラシマが媚薬の効果で暴走して、お風呂場に乗り込んできても不思議ではない。
(それこそ、今すぐにでも)
何があってもいいように、しっかりと身体を洗う。
身体の隅々まで念入りに。
だが結局、ウラシマが浴室に入ってくることはなかった。
おかしいなぁと思いながら、ベッドに横になりながらウラシマの来訪を待つ。
そして――。
――チュンチュン。
野鳥の鳴く声が聞こえてくる。
すっかり朝になっていた。
「ん~」
軽くノビをして目を覚ます。
窓のカーテンを開ければ、暖かな陽の光が差す。
今日はいい天気だ。
適度に暖かく、こんな日はどこかに出かけるべきだろう。
「……あれ?」
くるみは昨日、自分がしたことを思い出した。
ウラシマに媚薬を仕込んだのだ。
ウラシマが夜這いをかけにくるはずだと思って待っていたのに、結局何もなく、気がつけば寝てしまったらしい。
(こんなはずじゃなかったのに!)
もしかしたら効き目が薄かったのかもしれない。
効きすぎたら身体に悪影響が出るかもと量を少なめにしたのがよくなかったのかもしれない。
今日はもう少し量を多めに仕込んでみようとくるみは決意した。
「今日こそ、抱かれる!」
◆
昨日からどうにも調子がおかしい。
身体の芯が熱くなっているような感覚になる。
眠る前に体温を測ろうとした。
「あれ? どこだったかな」
体温計を探すも救急箱の中にはない。
くるみちゃんか瑞樹が使ったまま、元の場所に直し忘れているのだろう。
「どうしたの?」
「風邪をひいたかもしれない。ちょっと身体が熱っぽくてな」
「そうなの? 大丈夫?」
心配した様子のくるみちゃんが傍に寄ってくる。
彼女の匂いが俺の鼻をくすぐった。
シャンプーの甘い香り。
いつも嗅いでいるはずの匂い。
それが特別にかぐわしい香りのように思えた。
「どれどれ」
額にひんやりとした感触。
くるみちゃんが俺のおでこに手を当てて、反対の手を自分のおでこに当てていた。
「ん~、熱はなさそう」
至近距離に彼女がいる。
心配そうな様子で俺を見つめていた。
吸い込まれてしまいそうになる赤い瞳。
今日はなぜだかその瞳を見ていると心が焼かれてしまいそうになる。
このまま見ているのはまずいと目を逸らす。
「ッ!?」
視線を下に逸らしたその先には、くるみちゃんの胸元が見えた。
パジャマの隙間からは巨乳を強調する谷間が覗いている。
思わず伸ばしそうになる手を気合でおさえつけた。
「あっ! いいこと思いついた!」
くるみちゃんはポンと手を叩く。
どうやら俺の動揺には気がついていないらしい。
ホッと安心したのも束の間、くるみちゃんが俺の腕に抱き着いた。
「どう? 癒されるでしょ?」
見上げる彼女の顔は、まさにドヤ顔だった。
まるでテストの点数を褒めてもらいたいこどものようだ。
色気よりも微笑ましさが勝ってしまう。
理性が本能を上回る。
くるみちゃんのおでこにデコピンをした。
「いたい!」
涙目になりながら額を手でおさえている。
「ふっ」
思わず笑みがこぼれた。
「あっ、今笑ったでしょ!?」
頬を膨らませてプンプンと怒りを示す。
小動物みたいで可愛らしい。
くるみちゃんらしい魅力的な姿だ。
見守っていたいと思わせる何かがあった。
なのに目の前の女を孕ませろと本能が訴えている。
気づかぬ内に疲れが蓄積し、種を存続させようという本能が働いたのかもしれない。
さっさと寝よう。
◆
瑞樹が海外へと旅立って6日目になった。
明日、彼女はくるみたちの元に戻ってくる。
3人での暮らしが再会してしまえば、ウラシマの理性がより強く働いて、くるみに手を出す可能性は限りなく低くなる。
くるみの企みの期限は今日までと言えよう。
媚薬が効いていない訳ではない。
実のところ効きすぎていると言っていいレベルだ。
ウラシマが鋼の精神で耐えているだけで、常人の男であれば発情したオスと化して即座にくるみに襲い掛かっている。
古井コガレ特製の媚薬を盛られ続けて、ウラシマは限界を迎えていた。
足取りもフラフラと覚束なくなり、怪しい人物のようだった。
もしもこの日、普通にウラシマとくるみの2人で生活していれば、ウラシマはくるみに手を出してしまったかもしれない。
だが幸か不幸か、そうはならない。
あと少しでウラシマが陥落するというところで2人はコガレに呼び出されたのだった。
元勇者はリセットしない~異世界で魔王を倒したおっさんは魔法少女の世界に帰還する~ ほえ太郎 @hoechan
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