第25話 上級ヴェノム
「痛ッ……」
一体何が起こったのか。
アイスソードは瞬時に理解することができなかった。
全身が痛い。特に腹部には激しい痛みがある。強烈な吐き気をこらえながら、お腹を手で抑えて周囲に意識を向けた。
まず目に入るのは天井だ。
アイスソードは倒れて仰向けになっていた。
すぐ傍には上下逆向きになった机が転がっている。物入れの中に『蒼城瑞樹』の文字が見えた。
(くるみの机……?)
ハッとして立ち上がる。
ここは瑞樹たちの教室だ。いつも授業を受けていた日常の象徴だ。しかし目に映る光景は日常とは程遠い。
窓側の壁を見ると窓が割れていた、いや、窓が破壊されていたと言うべきだろうか。大きく開いた穴を中心にアルミサッシもひん曲がっていた。そして、アイスソードが立つ場所との間にある机が散乱している。
(私は音楽室からここまで飛ばされた)
あの瞬間、スライムを斬ったと確信した。氷剣がヴェノムに触れる寸前まで届いていた記憶はある。だがその後、意識が飛んで教室まで飛ばされていた。
上級ヴェノムを倒せると浮かれていたのは事実だが、それでもスライムから目を離してはいなかった。にもかかわらず、スライムが動いたことを認識できなかった。目にも止まらぬ速さで突進してきたのだ。
(甘かった……)
上級ヴェノムを甘く見ていた。アイスソードが簡単に倒せるような相手ではないのだ。やはり当初の想定通り時間を稼ぐことに専念するべきか。
痛む身体を引きずるようにして窓際に歩み寄る。
ぽっかりと開いた穴から音楽室を睨みつけた。
いまだヴェノムはそこにいる。何を考えているのかは分からないが随分と余裕しゃくしゃくだ。
アイスソードの役目は時間稼ぎだ。
故に無意味に刺激する必要はない。このままスライムに動きがないようであれば、そのままでも問題はなかった。
ひとまずはここから監視していよう。得体の知れないスライムへの恐怖もあり、アイスソードは遠くで待機することを決めた。
――その瞬間、視界が赤く染まった。
音楽室にいたはずのヴェノムがアイスソードに向かって突進してきたのだ。
「ッ!」
咄嗟に右手で顔を庇った。
腕一本では勢いを殺しきることはできない。頭に衝撃を受ける。受け身をとる余裕もなく後頭部から床に倒れた。
(マズい……)
朦朧とした意識の中でよろめきながら立ち上がる。
右手の感覚がほとんどない。左手で頭を触ると、べっとり血がついた。
赤いスライムは教卓の上にひょこっと乗っている。
小さく丸い軟体生物だ。素早く動くことなどできないように見える。だが見た目とは裏腹に、アイスソードの認識できる速さを超えて動く恐ろしい化け物だ。
スライムの攻撃への対処方法が思いつかない。察知できない攻撃をどう防げと言うのか。
まして今は満身創痍の身だ。時間稼ぎすら果たせないだろう。
絶望的な状況に心はめげる。
弱まる意志に連動するかのように足から力が抜けて地面に膝をついた。
教卓にいたスライムが再び飛来し、アイスソードの頭部のすぐ上を通りすぎる。
膝をついたお陰で偶然にも攻撃を回避した。
スライムは教室の後方に接地されている黒板にめり込む。
「私は……魔法少女、アイスソード」
半人前の魔法少女だとしても、未熟な実力しかなかったとしても、その心だけは負けたくない。己を奮起しながら再び立ち上がる。
先ほどの攻撃を避けられたのはただのマグレだ。次はないだろう。敗北は確実に迫っている。
――瑞樹ちゃん!
くるみの声が聞こえた気がした。
ヴェノムが動く。
その攻撃は――半透明の白い壁に阻まれた。その壁も上級ヴェノムの前には意味をなさない。すぐにヒビが入って突き破られる。
だが無駄ではない。数瞬の間が稼げた。
その僅かな間で、何者かがアイスソードを後ろから抱きしめ転がった。敵の攻撃を回避しつつ、転がった勢いを殺さぬまま立ち上がり、加勢に来た人物――スノーラビットは力強く宣言する。
「諦めるのはまだ早いよ」
スノーラビットはアイスソードの身体を支えながら回復魔法を発動した。敵が目の前にいる。しっかり治癒するほどの余裕はないが、わずかな治癒でも今のアイスソードにとってはありがたい。
朦朧としていた意識がハッキリとしていく。
「くるみ……どうして」
彼女のことを大事に思う余り、どうしても過保護になってしまう。
知らないところで傷ついていないか。悪い輩に騙されていないか。つい心配になって、口出ししてしまう。
パートナーとしては歪な関係だろう。相手を信じることができていない。だからくるみに、瑞樹がくるみのことをパートナーだと思っていないと言われたときに、何も言い返すことができなかった。
「相手がどれだけ強くても、私たち2人なら戦える!」
自分はくるみのパートナーとして相応しくない。彼女の隣に立つ資格はないのだと思っていた。
「アイスソードは私の――スノーラビットの唯一無二のパートナーだから」
スノーラビットが男前な笑みを浮かべる。
瑞樹はその美人な顔立ちから、凛々しいとか男前と言われることも多い。だがその実、本人は自分自身のことを女々しいと評している。
(私よりもくるみの方がよほどカッコいい)
土壇場での思い切りの良さがあるのはくるみの方だ。
スノーラビットはアイスソードよりも感知能力が高い。彼女は自分よりも一層、上級ヴェノムの暴力的な気配を感じ取っているだろう。
恐くないはずがない。現にアイスソードの背中に添えられた手は震えている。にもかかわらず、スノーラビットは不敵に笑ってみせる。
「来るよ」
スノーラビットが気配を読み取り、ヴェノムが動くタイミングを察知した。
次の瞬間、目の前に赤い塊があった。白い半透明の壁――シールド魔法によってほんの少しの間だけ停止している。シールドが破られるよりも先にスライムの進行方向から避ける。そのすぐ後に、スライムは壁にめり込んだ。
アイスソードはげんなりしながら呟く。
「これの繰り返しね……」
スライムの高速移動を防ぐ手立てはほかに思い浮かばない。スノーラビットのシールド魔法によってわずかに動きを止めて、その間に避けるのだ。一瞬の気の緩みも許されないし、相手に対する有効打も持ち得ていない。
「それでも、やるしかないよ!」
治癒魔法で多少マシになったものの、全快には程遠い。
それでも不思議と身体から元気が湧いてくる。
頼りになるパートナーが隣にいるからだ。
今日一日の中で、最高のコンディションだとアイスソードは思った。
「そうね……1秒でも長く時間を稼いでみせる!」
校舎にはいまだ生徒たちがいるかもしれない。彼らが逃げる時間を確保する必要がある。
2人では上級ヴェノムを倒せない。応援が来るまで粘る必要がある。
アイスソードとスノーラビット。
2人の魔法少女による決死の時間稼ぎが始まった。
◆
2人は教室の中で一方的な死闘を続ける。いつも授業を受けていた教室は天井も壁も床も、いたるところが壊されてボロボロになっていた。
少しでも気を緩めれば確実に死んでしまう状況下で、ただひたすらに時間を稼ぎ続ける。
何度も避け続ける中で、アイスソードは氷剣で敵を斬りつけた。
「防御に徹するしかないか……」
相手のボディはその柔らかそうな見た目とは裏腹に驚異的な硬さであり、傷一つつけることができなかった。一番攻撃力のある【斬鉄氷剣】ならまだしも、シンプルな氷剣では何の意味もないらしい。
【斬鉄氷剣】を使用するだけの余裕はない。アイスソードは役立たずだった。
「スノーラビットにばかり負担をかけてごめん」
「気にしないで。行動パターンも掴めてきたし」
一方的な防戦を強いられて不利な立場ではあるが、アイスソードたちはヴェノムを倒す必要はない。応援が来るまで時間を稼げばいいのだ。
スライムの動きは単調だ。恐ろしく速いというただ一点が脅威ではあるが、それもスノーラビットのシールド魔法でギリギリ回避することができる。
油断は許されない。スノーラビットの魔力量にも注意が必要だ。だが恐らく、このまま続けていけば十分な時間を稼げるはずだった。
2人には光明が見えていた。
「えっ?」
ヴェノムはその行動パターンとは異なる動きをとる。教室の真ん中でゆっくりと上に跳んだ。
「一体何を――ッ!?」
スライムが急激に膨張した。何かが爆発したのかと思ってしまうほどの勢いで一気に身体が膨らむ。
巨大な赤い物体が眼前に迫り来る。
突然の事態にアイスソードは固まってしまう。
今から教室の外に出ても間に合わない。逃げる前に潰されてしまう。逃亡は不可能だ。
何もできず、その巨体に押し潰されてしまう――。
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