第9話 恋は恥でも逃げはしない
「全く…すっかり遅くなった」
聖也が寝た後少し疲れてそのまま横になっていたが、用を思い出し外出していて思ったより遅くなってしまった。
どうも人間の世界に降りてきてから、時間が経つのが早く感じる。前まで何もなかった生活が50年続いたから、ゆったり時間をもて余す事に慣れてしまった。
朝焼けが近いビルだらけの街を後は帰るためだけに歩いていると、誰も歩いていない街に、急に感じる気配に立ち止まった。
……懐かしいものだ。いや、感じたくはない懐かしさだ。遭遇したくなかった気配に自然とため息が出る。
「そこにいるのは分かってる。姿を見せるがいい」
___コツッ
僅かだが、靴底の音がする。さほど固くはないが走りやすいように設計されているブーツの音だろう。
思った通りの奴が、背後の建物の角から出ていた。あまりにも目立つ外見だというのに、あまり噂にならないのも不思議だが、何十年ぶりか。人間でも吸血鬼でもない半端者の姿は、変わっていなかった。
聖也よりも遥かに背の高い、黒人の男。夜なのにサングラスをかけていて、コートで隠した腰には、いくつか武器が隠れていた。
「久しぶりだな、マナナンガル」
「ロサンチーノに逃げられたの?スナイプス」
「俺が取り逃がすわけないだろう。今のところ、お前以外はな」
不死身のスナイプス。この男はそう呼ばれている。何故不死身かって?この男は、吸血鬼を狩るハンターにして、"ハーフヴァンパイア"だ。
少なからず、個体は昔から噂に聞けばいるらしいの程度だったが、この男が100年ちょっと前に出てきてから、噂は確信になった。
何らかの形で人間と吸血鬼の交配が成され、出来たのがこの男。
吸血鬼を狩る理由は、自分を生んで死んだ母親…いや、育ての親が吸血鬼に殺されて、復讐に走ったらしい。
半分とは言えど、吸血鬼の血を持つ者が吸血鬼を狩っている。しかも、太陽への耐性を持っているから厄介な存在だ。
純血の吸血鬼には劣るが、身体能力は高く人間離れしていて、とにかくしつこい。何人もの同族が死に、純血貴族も何人かやられている。
人間みたいにほっとけば死ぬ存在でもないから、不死身のスナイプスと呼ばれている。
「50年ぶりか。いや…60年。お前を殺したつもりだったが、まさかあの怪我で生きていたとはしぶとい女吸血鬼だな」
「おかげで嫌なドイツ旅行になった。…そっちも、まだ傷が治ってないのか」
昔、純血貴族の会合でドイツにいた時、この男が飛び込んできて戦争に巻き添えにされた思い出が蘇ってくる。
あの時、50年か…正確には60年か。酷い傷を負わされて日本に隠居するはめになった。
だがただ無傷だったわけでもなく、スナイプスの顔には私のつけた引っ掻き傷が濃く残っている。
むしろ、消えてなくて安心した。
スナイプスがその傷を気にするように触れているのも、また滑稽。
「手ぐせの悪い女だ。今度は日本で男漁りか」
「人聞きの悪い想像しか持てんのか」
「マナナンガル家最後の血筋を取り逃がしたのは致命的だな。お前の血筋が、これ以上広がってもらったら困る」
他の周りの貴族とは逆の考えだが、基本ベースが一緒なのが癪に障る。何故私の頭の中が繁殖にしか興味が行ってないと思うんだろう。バカ男ども。
「人を病原菌みたいに言うのは勝手だが、お前に構ってる時間はない。ロサンチーノを殺ったのならさっさと消えろ」
「お前を殺したら帰る。日本に潜伏してる他の吸血鬼どもも駆除したいところだが、雑魚は他に任せるとしよう」
あーほら、もうめんどくさくて堪らん。
「私はこの1年人間を殺してない。そして50年も、静かに過ごしてきた。人間を狩るのもお前達と揉めるのも今は休業中だ。邪魔するな」
「1年前からベジタリアンになったからってなんだ?どうあがいても、お前が殺してきた人間の数が0になることもなければ、化け物だって事にも変わりない」
「貴様も同じだろう。人間にも吸血鬼にもなれない半端者。我らの仲間を沢山殺した。人間とうまく共存しようとしていたコミュニティまるごともな」
「…あの時のように、無事では済まさん。たとえ女でも、エウメニデスの血筋は潰す」
何があっても。
スナイプスは躊躇なく、隠していた銃を私に向けた。
________***
今日は仕事が休みだ。
少し暖かくなった気がする、まぁもう春だからかな。
遅めに起きてリビングに向かうと、遮光カーテンが締め切ったままの暗い部屋、誰も…いないね。
最近はシェリルが朝方起きてることが多かったから、また天井で逆さになってるかもしれないと電気をつけて一応確認する。
今日はいない。自室の棺桶の中で寝てるのかな。
「久しぶりに、日光でも入れるかな…」
彼女がいないことだけを確認して、開けないままのリビングのカーテンを開いた。暗いリビングに、眩しい朝日が差し込んで、僕の目も潰れる。こんなに眩しかったっけ?やっぱり、時々開けてないと、ダメだよね。
カーテンを開けて、太陽の光を部屋に入れた後、換気のためにベランダの戸も少し開けた。彼女が部屋で寝ている間にしか出来ないこと。
あまり広くもないリビングに広がる陽光に電気を消し、コーヒーでも入れようかと思ってテーブルの上の粉末になったコーヒーの瓶を持った時、テーブルに置いたままのスマホが震えた。
何かの通知かと思って手に取ってみた。
開いて確認してみると、寝ているはずのシェリルからラインが入ってた。
「え?シェリル?」
寝てるんじゃないの?
思わず瓶を置いて、彼女の部屋に向かった。
ノックをしなきゃ怒られるけど、構わず開けて、目の前にドーンと置かれた存在感のある棺桶に声をかけた。
「シェリル?寝てるのー?」
声をかけてみたけど、返事がない。おかしいな。今日みたいな快晴の日に、好き好んで出掛けるはずがない。同時進行で開いたラインのメッセージは、不在着信3件、メッセージ6件ぐらい入ってた。
寝ていて全然気づかなかった分、いつから来てたんだろ。急いで確認すると、朝の7時から今の時間にかけて何度も同じ内容が発信されてる。
「聖也、迎えに来て」「帰れなくなった」「早く!!見ろ!まだ寝てるの!?」……嘘でしょ。シェリル、今、外にいるの!?
「やっばい…全然気づかなかった……マナーモードにしてたし」
今また来たって事は、何処かで太陽を避けて隠れてるのかな!?やばっ………気づかなかった事、絶対怒られる。
すぐに電話でかけ直したら、2コールもいかないぐらいで彼女が出た。
「も、もしも~…」
「バカッッッ!!何で出ない!!」
案の定、怒られた。
「ごめんごめん。君今何処にいるの!?寝てるって思ってたから」
「寝てたらこんな電話かけてない!!いつも寝てる側にスマホ置いておくのに気づかないのか!?」
「マナーモードのままだったんだよ。それで、何処にいるの?迎えにいくよ」
「………すぐに来て。後充電15%しかない」
「危機的状況じゃんそれ!!」
「お前に電話かけ続けるのに使ったんだけど」
完全にイラついた声で彼女は僕に居場所を伝える。思ったほど自宅よりは遠くはないけれど、彼女とはあまりにも無縁過ぎる場所にいることが分かってびっくりした。
「何でそんなところにいるの?」
「いいから。説明するから、早く来て」
「分かった。待っててね」
すぐに行くと約束して、充電がないシェリルとの会話を切り上げた。
でも、本当にどうしてあんなところに?
疑問を持ちながら、すぐに着替えて彼女の部屋にあるニカーブと日除けの傘を持った。
家を出て、彼女が待ってる場所まで歩く。
休日だからか、家族連れとか付き合ってるかと思う男女とよくすれ違った。
いい天気だしなぁ……それも休みになると当然か。晴れた休みの日は、友達と出掛けたりデートしたり、それが普通のこと。
人間だって、夜に出掛けたいって思う人もいる。
だから別にどうとも思わないけど、シェリルと付き合ってから、昼間の外出ってあんまりしなくなったなぁ。
出掛けるような友達も今は悠斗とか先輩とかぐらいだし、地元の友達とも連絡は取ってない。実家にも、しばらく帰ってないし。
そう考えると、友達付き合いが減ってる気がする。まぁでも、シェリルと付き合う前から、変わらないか。
いつの間にか僕も日陰で生きてきたんだろう。
……日陰?いつから、明るい場所から外れたんだっけ。
すれ違う人並みと車を眺めて歩道を歩いていると、またスマホのブザーが鳴る。
彼女かと思って開いて見ると、別のメールだった。
「……あぁ、忘れてた。今日か」
メールの内容を確認して、そっとポケットの中にしまう。
ただの予約確認メール。なのに、定期的に来るこのメールを見ると、忘れていたいのに思い出してしまう。
この間は優愛との再会だ。正直ついてない。
シェリルには今のところ悟られていないと思うけど、心配はかけたくない。
「この辺…だって言ってたよね」
シェリルから聞かされた場所に着いて、辺りを見回す。どう考えても、普通こんなところには来ない。
自分の家からそう離れてもない工場倉庫の廃墟だ。
草で覆われてるのが特徴的で、シェリルから何処と聞かされた時はすぐに分かったけど、金網の前には立ち入り禁止の看板がある。
どうしてこんなところに……流石によじ登るしかないか。
辺りを見ても開いてる入り口はない。仕方なく裏手に回って人気のない所から塀を登ることにした。
充電がない彼女に連絡はつかないだろうし、中のどこかにいるのは確か。
「よいっしょっ……」
気づかれないように注意しながら、近くのゴミ箱を台にして塀をよじ登る。手荷物があるし、意外に塀が高くて苦労したけど、何とか敷地内に入ることは出来た。
問題は、戻るときだけど。
敷地に入ると、廃墟だから当たり前で誰かがいる気配がない。すぐ目の前には、草だらけの工場が見えた。
どこかに入る場所は……。
工場の周りをとりあえずぐるっと回ってみることにしたら、すぐに入れそうな入り口の隙間を見つける。
念のために覗くと、光はガラスのない窓から入ってきていているものの、薄暗くてほこりと机や家具の残骸だけが残っている廃墟。日除けに隠れるには条件は満たっている。
「シェリル?いるの?」
声をかけつつ、中に入る。足に当たった空き缶が転がって音が響いた。
「迎えに来たよ。いるなら返事して」
「…聖也、こっち」
「シェリル!?」
彼女の声が響いてきた方向に目を向けた。光が所々隙間から差している工場の中、光が全く当たらない場所で、体育座りで座り込んでいる人影を見つける。
「シェリル!良かった、見つかっ…」
見つかって良かったと歩み寄って彼女の側に行った時に見たものに、続けていた言葉を失っていく。
きめ細やかな真っ白い肌、薄紅の瞳、赤い唇をした変わらない彼女のいつもの表情。いつ見ても可愛くて美人な僕の彼女。
だけど、着ている服は所々破けていて怪我をしているし、右腕を庇うようにして座り込んでた。
えぇ!?何、どうしたの!?
持っていた日傘を落として、彼女に駆け寄った。
「どうしたの!?怪我してるじゃん!!」
「……色々、あった」
「色々ってなに!?何があったの!?誰にやられたの!?こんなに怪我をっ…」
「騒ぐな。これぐらい平気だ」
シェリルはそう言うけど、透き通った決め細やかな肌で目立つせいもあって痛々しい切り傷がどう考えても大丈夫そうには思えない。
言ってくれたら救急箱を持ってきてた。衣服にそんな感じの乱れた跡はないけれど、どのみち、どんどん腹が立ってきた。
「………誰にやられたの?教えて。そいつ、ぶん殴ってコンクリに埋めて沈めてくるから」
沸々と沸いてくる怒りに任せて本心をそのまま言うと、シェリルの薄紅色の瞳が大きく見開き、ポカンと少し驚いたような形を見せて、ふと赤い唇が緩んだ。
「お前からそんな言葉が出てくるとはな」
「真面目に言ってるんだよ」
僕をからかうようなシェリルに少しムッとして、肩を掴み真面目に言ってるんだとはっきり言う。
それに対してシェリルは目線をパチパチと色々な方向に逸らして、ちょっとだけ反省してるような顔色を見せる。
その憂い顔もまた可愛いと思ってしまう僕も、どうかしてると思うけれど。
「夜出掛けるのは構わないけど、夜道には気をつけてって何度も言ったよね。いくら君でも、都会は危ないんだから」
「………」
「そんな上目遣いしてもダメ」
「べ、別にしてない」
こんなに美人で可愛い君が深夜一人で出掛けるのは心配で仕方がないのに、我慢してたしどっかで大丈夫だと思ってたのが間違いだった。
目線を逸らす彼女をじっと見つめながら、僕は彼女の返事を待つ。
「こっち見て。君が帰ってきてないってだけでも驚いたのに。そりゃ僕も寝てて気づかなかったのは悪かったと思ってるけど、君がこんな目にあったと思うと怒りも沸いてくるよ」
「………たいした傷じゃない」
「っ……これの何処が!軽い怪我なんだよ!?酷い切り傷までつけられて!!」
思わず乱暴な口調で彼女の傷付いた腕を掴み、彼女にも見せつけるように掴みあげて言った。
びくっとはね上がった体と再び僕を見る瞳に、怯えたような色が宿った。
「冗談じゃない!!どう考えても転んで出来た傷じゃないだろ!!君にこんなことした奴を許せるわけがない、言って!!」
「聖也…落ち着け」
「言えってば!!!!」
「お前の敵う相手じゃないんだ」
力を込めて半場強制するように彼女に詰め寄ると、彼女は驚いている表情で居つつも、冷静にたしなめるように僕の手に手を重ねてきた。
「吸血鬼ハンターだ。復讐しようとしたところで、お前に勝ち目はない」
「吸血鬼、ハン、ター…?」
吸血鬼ハンターだって?
僕の力が緩んだところで、そっとシェリルの腕はすり抜け、僕の首筋をなぞるように指を滑らせ、頬をひんやりした手が包んだ。
彼女の表情は真顔だった。見るものを全て奪うような魔性の魅力を持つ美しい女性。僕の彼女で、一つ屋根の下にいるってことも忘れさせる程、僕とは到底釣り合いそうのない彼女が僕の瞳を覗いていた。
「えっと……それは、どういう人?」
「そのままだ」
「いや、分かってる。分かってるん…だけど」
まだストーカーとか暴漢にやられたとかだったらそのまま怒りに任せられたけど、吸血鬼ハンターなんて、映画とかドラマの中だけの話だ。そんな真面目な顔で言われると、なんか、拍子抜けする。
けして、彼女はふざけてるわけじゃなく本気で言ってるのは分かってるけど。
今この現代に、吸血鬼ハンターって。
ベタだけど映画みたいに、コートの下に十字架とか隠し持ってたり………するの、かなぁ?
「全く状況が飲み込めていない顔だな」
「いや……ふざけてないのは分かってるんだけど。本当にいるんだ、そういう人」
「私みたいなのがいるんだ、いるに決まってる」
聞けば最近、イタリアの方から逃げてきた吸血鬼を追ってついてきた吸血鬼ハンター。海外の方では少なくとも存在はしているらしい。
50年以上も、日本の山奥で隠匿生活をしていたシェリルは、前に鉢合わせた吸血鬼ハンターよりも格段にレベルが上がっている為に逃げに徹するしかなかったよう。
そもそも、なんでシェリルは50年も日本の山にいたのかは疑問だけど、彼女からはまだ教えてくれてない。
「その吸血鬼ハンターが、君を襲ったっていうの?どうして、君は何もしてないんでしょ?」
「相手が吸血鬼なら、狩りの対象だ。今回はうまく撒けたけれど。だから、お前が敵うわけない。後を追うようなことはするな」
………酷い。
改めて考えると、吸血鬼ハンターだろうがなんだろうが関係ない。可愛い彼女だ。傷つけた人は誰であろうと、許さない。
日が昇って一人、痛みに耐えながらここでずっと隠れていたと思うと、気づいてあげられなかった罪悪感が襲う。
「ごめん…本当にごめん」
ぐっと彼女を抱き締める。苦しいともがかれても、強さを緩めない。
顔に当たる髪の匂いを嗅ぐと、もしかしたら今日、君が死んでたかもしれない不安が襲ってきた。
「聖也!!!熱いっ!!私を絞め殺す気!?」
グッと強い力で押し戻される。僕から離れた彼女の顔を覗くと、腫れた傷よりも、真っ赤になっていて、余計に離れ難くなる。
漏れる太陽の光から離れるように日陰の奥に後退りする彼女にムッとして、追い詰めるように迫った。
「そんな危ない奴が彷徨いてるのに、君も夜中に一人で出掛けてさ……僕が今どんな気持ちか、分かる?」
「仕方ないだろう!!私は基本的に夜しか出掛けられないのはっ…」
「せめて出掛けるなら出掛けるって、寝る前に一言ちょうだいよ。マナーモード解いて音量全開にしといたのに」
「なんでそんな面倒なことをっ…」
「シェリル、本当に怒るよ」
壁に背をつけた彼女の顔の隣に手を置いて追い詰めた。強気で睨んでいた瞳がパチパチと瞬いて、本当に怒るよと言った僕と何処かを右往左往している。
焦ってるんだろうか、それもそれで可愛い。
「今日だって、何処に行ってたのさ。発情期だってまだ終わってないのに、何処かで発作でも起こして、他の男を襲ったらと思うと…」
「も、もうそこまで激しくはないでしょっ!!今日は用があったから、どうしても出なきゃいけなかったんだ!!!!」
「何処行ってたの??」
発情期も、今までよりだいぶ落ち着いてきてるのは分かってる。でも完全になくなった訳じゃないのに、一人でどっかに行くなんて心配でしかない。
もしかしたら他の男と……なんて心配と不安が完全にない訳じゃない。僕としては、贅沢な不安だ。
しかも、行き先を聞いたとたん、口ごもる彼女を見て苛立たしく思う。僕に言えない場所って事?不安がモワモワと浮き上がる。
「何で言えないの?」
「い、言えないというか…だな、うん」
「言わないなら、ここでする」
行き先を言わない彼女の歯切れ悪い返事と稀に見る困った表情に可愛さと憎らしさが合わさって、自分でもとんでもない発言を彼女に投げ掛けた。
当然ながら、真っ赤な顔が噴火する勢いで隠していた牙を咄嗟に剥き出して「はぁぁ!?」と悲鳴を挙げられる。
「どうしてそうなる!?」
「全然出来るよ。君が言ってくれなきゃ、不安でしょうがない。君が離れてくのなんて、堪えられない」
どうしても、どうしても、不安で。
傷ついている彼女に、どういう事を言っているのか理解していても、どうしても……。
____堪えられない。
頭に過った『予約』の文字が過っても、また………。
不安が募って、僕を押し潰そうとする。シェリルと出会って、忘れていた衝動が、また戻ってこようとしていた。
シェリルが浮気するとは思えないけれど、また僕に黙って帰ろうとしたりするなんてことがあると思うだけで、戻りかけていた全てがまた、振り出しに。
だから、全部無理やり収めてしまおう。
それが一番イイ。
逃げようとする前に彼女の腕を掴み、深いキスをする。
唇を押し付けて、無理やり舌をねじ込んで、口腔内を愛でる。鋭い牙が舌に少しチクッと刺さって、血の味がしても止めなかった。
「んんっ…!!せいっ…んっ」
「っ……はぁっ…」
いつ味わっても柔らかい唇が好き。強がりなのに、こういうときはいつも翻弄されて受け入れてくれる君が好き。
何回でも合わさるキスは、言葉の代わりにその想いを伝えてくれる。
他になにもしなくても、君が僕に夢中になってくれる。ずっと一緒にいられる一体感を感じていられる。
そんな今が、凄く心地がいい。
細くて緩やかな曲線の腰に手回し、下から上へと手でゆっくりなぞる。キスをしながら逃がさず、彼女の来ているタートルネックのセーターを捲ろうと、下から手を入れた。
ひんやりした滑らかな素肌を感じ、そのままゆっくりと衣服を捲って胸の下に到達した瞬間。
「っ…バカ!!」
息継ぎのために離れた一瞬の隙をついて、また近づけた唇に手を滑り込ませて来てガードされる。
チュッと彼女の手のひらに唇がぶつかり、軌道に乗りかけた行為が中断された。
拒絶され、中断されたことに更に不満が募りかけた。
シェリルは胸の下まで来ていた僕の手を払うと、ビッと僕の後ろを指差した。
「アレだ!!アレを買いに出ていただけ!!」
必死の形相で、僕にそう言い放った。
「……アレ?」
彼女の指差す方向に振り返った。
彼女が座っていた横の上に、小さい紙袋が乗っている。
白と青の、何処と無く高級感がある感じの包みだった。
何か買い物をしたということだけど、それだけなら、何故すぐに答えなかった?
「この間のっ………ジャッキーのスケッチモデル代で、買おうと思っていて…」
シェリルは僕の手から離れ、その紙袋を手に取り、僕に差し出してきた。
「………?」
口の中に逢瀬の味が残っている状態で唖然と彼女を見る。
早く受け取れと、顔を反らして差し出してくる紙袋を受け取る。
テープも貼られていない縁を開けて、中身を覗いた。
「……これ……」
中にあったのは、小さくて高級そうなパッケージ………というか、そこそこ高級品だ。
有名なブランドの名前が入っているのからして、中身は腕時計だという事が告げられる。
「聖也にと思って…買ってきた」
「僕に…?って、えぇっ!!!?これ凄い高いヤツだよね!?」
いきなりプレゼントされた高級な腕時計に、誕生日はまだだし、特別なことも何もないのに!!と声に出てしまう。
だってこのブランド、安いのでも万単位だし、それにそんなに腕時計に拘ったこともなければ、普段つけてるのなんて六千円ぐらいの安物で………っていうか、シェリルが僕にプレゼント!?
「シェ、シェリ、なんで…僕こんな高いの君にっ…そもそも夜中にこれを買いにっににににに………」
「お、お前は飾り気けがなくて、貧乏くささが出て品位にかけるからな!!それを着ければ、少しはマシになるかと思ったのだ!!」
「いやいやいやいや!!!!僕がこれを着けた所で時計が一人目立ちしちゃうって!!!!こんな高いのじゃなくても!!」
「煩い!!私がわざわざ買ってきたものを受け取れないと言うのか!?」
「そういう問題じゃなくて!!!」
お互い、主張が反発しあって埒が明かなくなってきた。
いきなり自分には無縁のプレゼントを持ってきた辺り、筋金入りのお嬢様だったって事を思い出す。
突き返すわけにもいかなければ、受け取るわけにもいかない。僕は、この腕時計以上の物をあげたことがないのに。
これじゃあ、なんか、女の子に高いものを貢がせるヒモみたいじゃんか!
自分のプライドがなかなか受け入れてくれない。シェリルは僕の様子を見て、今の心中を察したのか、気まずそうに俯いた。
「……あまり、嬉しくない?…お前達の、今の流行りというのはまるで分からなくて…」
そして忘れかけていた年代と流行の違いの差。彼女が今に疎いまま、昔の感覚で選んできたという事に気づかされる。
そんな残念そうに呟かれるとまた罪悪感が浮き出てきて慌てて彼女に言った。
「いや!!こんな高いものを貰うとは思わなくてびっくりしたっていうか!!」
「………」
「そんな目で見つめないでよ…お願いだから」
どうして喜んでくれないの?という寂しそうな目に、受け取らないわけにもいかなくなるトドメの一撃が呟かれる。
「仕事の報酬を貰ったから、たまには私から何かと思って……似合いそうなものがあったからこれだと…」
…………うぅ。
そんな泣きそうな感じで訴えてくるなんてずるい。
喜んでないわけじゃない、ただ、僕がプレゼント出来るものなんてこんな高い物と比べたらしょぼいし、逆に彼女から貰うなんてやっぱり多少は抵抗がある。
それに………彼女の体は傷だらけなのに、袋には汚れは多少あっても傷が一つも見つからない。
僕は、そんな彼女を疑って………。
「……本当に、いいの?」
「いらないのかいるのか、はっきりして」
「も、もちろんいるよ!君からのプレゼントなんて…嬉しい。でももう、こんな高い買い物はしなくていいから」
「気に入ったのか気に入らないのか全然分からないっ」
シェリルの不満げな顔が僕を見上げる。彼女には僕の答えの意味がまだ伝わってないらしい。
「だって、僕には勿体ないぐらい高価な物だし。第一、君に高価な物なんて僕は…逆に何もあげてもないのに」
「なんだ、そんなことを気にしていたのか」
なんだって……そりゃ気にするよ。男としては。
「確かに身の丈にはあっていないが、身につけていれば自然とそれに追いついてくるものだし。それに……」
彼女の冷たい手が僕の頬を撫で、睫毛を伏せた彼女は、恥ずかしそうに目線を合わせないままこう言った。
「お前にはずっと衣食住、世話になりっぱなしなんだし…………」
おずおずと恥ずかしげに言った後、ふいっと顔を逸らしてしまった。
……………可愛い。そんな風に考えてたんだ。
けど、いくら同棲してるとはいえ、こんな高い物を贈られるほど大したことじゃないのに。
「ありがとう!」
ぐっと彼女を引き寄せて抱き締めた。
苦しい!ともがいているようで、僕の胸の辺りから顔を離していないのが丸わかりだった。いつもよりも何倍も可愛く感じて、頭にキスを繰り返す。
くすぐったく受け止めていた彼女の顔を覗き、頬にもついていた一筋の切り傷にもキスをした。
「何も言わずに出掛けないで。プレゼントはもういいから、君が生きて棺桶の中に居てくれる朝がいい」
「棺に入っていればいいのか?」
「もしくは僕の隣」
「狭すぎる」
なら新しいのを買おう。二人が眠れるサイズか………部屋の大半がベッドになりそうだ。
それでもいい。
もう一度、柔らかくて赤い唇にキスをする。
誰もいない、使われていない廃墟の中、彼女を殺す光が射す影の中で、傷だらけの彼女を慈む。
生きていてくれて良かった……。
茶髪のふわふわな髪と一緒に小さな後頭部を引き寄せてぐっと抱き締めた彼女は、小さく丸まって僕に身を寄せていた。
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