第122話 藤本悠太は一歩踏み出す

 みたいなことを考えながら俺は覚めやらぬ目をこすって、ベットから降りる。


 いつもはクーラの効いた涼しい部屋から気持ちの良い朝を迎えるのが普通だが、8月末に差し掛かり、少し冷えてきた。


 猛烈な暑さが永遠に日本列島を支配するのではと危惧きぐしていたのだが、俺の意思とは逆に、季節はめぐりめぐって、時は流れる。


 その当たり前のことすら不自然に感じる今日のこの頃である。


 今日は木曜日ということもあり、コンビニのバイトだけがあるのみだ。


 だから、ずっと前から続けていた、ルーティンをこなすことができそうだ。


 普通に朝ごはんを食べて、普通にプログラミングの勉強をするという俺の日常。


 はたから見れば、なんの変哲へんてつもないつまらぬ光景だが、俺にはこの1分1秒がたっとい。


 この平和と静寂を楽しもう。この空間に亀裂を入れる人が現れる前に。


 そう思いながらコンビニに出る支度を済ませると、電話がかかってきた。


 ブーブーブー


 相手は五十嵐麗奈。


 早くも俺の平和は壊れてしまった。


 着替えを済ませた俺はテーブルの上に置いてある携帯を手に取り、電話に出る。


「もしもし」


「ゆ、ゆ、ゆうた。おはよう」 


 朝っぱらから電話をかけてきた女の子からいきなり名前で呼ばれるとは。


 どうしよう。戸惑っている暇はない。いつものトーンで行こう。


「五十嵐さんおはよう」


「は?ゆうたくん。なにその呼び方は?」


 低いトーンで言ってくる五十嵐麗奈に背筋がぞくぞくする俺。


「な、なんて呼べばいい?」


 俺は恐る恐る聞くが、向こうはすぐには答えてくれなかった。返事の代わりに咳払いやらうーとかあーとか言いながら五十嵐麗奈は曖昧あいまいな態度を取る。


「うん?もしもし」


「私が名前で呼んでるから、ゆうたもその、名前で呼んで欲しいの…」

 

 受話器越しに伝えられる声音こわねだが、妙に色気がある。本当にギャップがありすぎて、対応に困るだろ。


 俺は震えるくちびるをなんとか抑えながら口を開く。


「れ、れいな」


「ひゃっ!」


「ど、どうかしたのか?」


 いきなり五十嵐麗奈が奇声を出してきたものだからびっくりしちゃったぜ。


「い、いいえ。なんでもないの」


「そうか」


 俺は五十嵐麗奈にバレないように安堵あんどのため息をついた。


「一応、攻略対象なのだから、名前で呼び合うのが自然でしょう?」


「言われてみれば、確かに」


 そう。俺は五十嵐麗奈を攻略しないといけない身だ。俺は人間に勝ちたい。五十嵐麗奈は俺を助けてくれているわけだから、ちゃんと誠意に応えてやらねば。


 と考えた俺は云う。


「れいな、何か用か?」


 俺は慣れない呼び方に悶々もんもんしながら聞いた。


「二週間後の木曜日、時間大丈夫かしら?」


 木曜日は授業もないし、今日みたいにバイトだけ終われば暇だから別にいいか。


「まあ、バイト終わった17時以降なら大丈夫だよ」


「あら、そう?なら、私の家にまたきてもらえないかしら?」


 また家か。まあ、別段、この前お邪魔した時に問題があったわけではないから、いいか。


「いいんだけど、れいなの家で何をするの?」


 ただだらだらするためだけに俺を家に呼ぶとは思えないし、何かしらの目的はあるだろう。


 俺はぼーとなって返事を待っていると、五十嵐麗奈はいきなりまくし立ててくる。


「こ、この変態!別にえっちなことはしないから!」


 何を言ってるんだコイツは?


「い、いや。えっちのえも言ってないけど?」


「はあ?!はては誘導尋問ね?童貞コミュ障の癖に、そんな高等テクニクを使うなんて、1000年早いわ!」


「…」


 またボロクソ言われてしまった。理不尽だな。果たして朝からこんな会話をする意味があるのだろうか。


 数秒間の沈黙が続いた。このまま誰も口を開かないと、地球が滅びるまで会話途絶えたままになってしまいそうだったので、俺が先に口を開いた。


「二週間後、れいなに家にいけばいいよね?」


「…うん」


「わかった。俺は今からバイトがあるから切るぞ」

 

「ちょ、ちょっと待って!」


 もう話すことはなかろうに、俺が電話を切ろうとした瞬間、五十嵐麗奈は止めに入る。


「何?」


 俺の問いに、五十嵐麗奈は数秒間何も言わない。電波がおかしいのかと画面をチェックしようとした瞬間、か細い声が俺の耳をくすぐった。


「今日も頑張って、ゆうた」


 勇気づける言葉。


 この言葉は俺が会社にいた頃に散々聞かされた私利私欲にまみれた上司からの言葉なんかとは比べ物にならないほど、俺の心に響いた。


 別に俺が頑張っても五十嵐麗奈にメリットがあるわけではない。かと言って、寄るない者に飴あめを与え、どっかのカルト宗教みたく精神と心をむしばもうとしているわけでもない。


 一見何気ない言葉なのだが、これまた、俺にはたっとい。


 というわけで、俺も優しく言葉を添えてやることにした。俺にできる範囲内で。


「れいなもな」


「う、うん。ありがとう。それじゃ」


「ああ」


 短い単語の羅列られつだが、その一句一句が合わさることによって、新しい意味を生み出す。


 俺は携帯をズボンのポケットにしまった。


 秋を知らせる涼しい空気も、五十嵐麗奈も、ゆきなちゃんも、何もかもが目新しい。


 だから。


 だから。


 この前途多難な俺の道のりに幸おおからんことを願わざるを得ない。


 この世をつかさどことわりという存在があるとしたら、臆病者が踏み出した一歩をどのように評価するのだろう。


 人間の偏った正義感や価値観によってじゃなく、まったき基準による評価が欲しい。


 そう考えながら、俺は家を出てコンビニに向かうのだった。

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