第116話 ごめんね。でも、ありがとう

 てっきり悪口雑言を浴びせられ、この家から追い出されるのかと戦々恐々していたのだが、西園寺京子さんの口から出た言葉は意外なものだった。


 今まで君ならいいっていう言葉を他人から聞いたことがなかったから、俺は呆気に取られてしまった。


 しかし、西園寺京子さんは俺の様子など気にすることなく、クッキやらジュースやらがのっているトレーを持ったまま、ゆきなちゃんの机のあるところに歩いてくる。


 俺は口をポカンと開けたまま、西園寺京子さんを見た。最初はずっと無表情のままだったが、俺に近づくに連れて、表情は段々と暗くなってゆく。


 さっきエレベーターで嗅いだ高級香水の香りが一瞬にして広がる。


 この部屋を優しく包んでいた空気は、この美人の登場によって完全にみだれてしまっていた。


 そして俺の側に来ては、そっと優しくトレーを置いた後、ボソッと言う。


「ごめんね。でも、ありがとう」


 ゆきなちゃんには聞こえないほどの小さな声音こわね。普通の人間には聞き逃してしまいそうな音量だったが、俺には脳内に刻み込まれるかのように鮮やかに耳に入った。


 謝罪と感謝。この女は正反対な二つの単語を使って俺に一体なにを伝えようとしているのだろう。

  

 俺は気になり、西園寺京子さんの顔を追うつもりで視線を送った。だけど、俺に自分の顔を絶対見せまいと、素早く後ろを向いて足早にドアへと歩いた。それから、きびすを返して、俺たちに顔を見せる。ついさっきに見せた物憂げな表情は跡形あとかたもなく消え去り、いつもの明るく妖艶ようえんな表情で口を開く。


「ゆきなちゃんをよろしくね!」


 疑うらくは、この人は俺に何かを隠しているのだろう。だが、それをいちいち問い詰めて突き止めるつもりは毛頭ない。


 俺には人に何かを聞き出す能力もなければ、西園寺京子さんの言動も読めずにいる。


 仮に、西園寺京子さんがああいう行動を取る理由を知ったとしても、それが俺にとってプラスなのかマイナスなのかも分からないのだ。


 まあ、今はこの流れに身を委ねよう。ゆきなちゃんとスキンシップすることを許可された。これがいわゆる親公認ってヤツなのか。いや、どう考えても違うよね。


 俺がさっきの出来事に思いを巡らしていると、西園寺京子さんはドアを優しく閉めてくれた。


 まだ授業始まってもないのに、この疲労感はなんだろう。


 おそらく、この疲労感は、俺が西園寺京子さんの存在をすごく意識していることに起因するものなのかもしれない。それほど、西園寺京子さんは、俺に数多の謎を残したと思う。


「お兄ちゃん」


 考えにふけっていると、不満げな声音でゆきなちゃんが俺の名前を呼んだ。

 

 怒った子供ならではの可愛らしい声は俺の頭に存在する数多くの雑念をあっという間に、全部吹っ飛ばした。


 俺は、ベッドの近くに仁王立ちになっているゆきなちゃんを見て反応する。


「うん?」


「なんで私を引き離したの?!」


 ああ、やっぱり気にしてたのか。


「それはだな…やっぱり、母さんいる時にああいうのは恥ずかしいというか…」


 うう。


 俺の言葉は後ろに行くにつれて徐々に弱まる。小学生相手にこんなにも動揺してしまうなんて。身をもって俺のコミュニケーションのレベルを知った。


 しかし。


「ぷ、ぷはははは!」


 ついさっきまでまゆをへの字にして、不機嫌そうな顔をしていたゆきなちゃんは破顔して笑い出した。


 おい。大人を揶揄からかうものではありませんよ?


 俺は抗議のつもりで、ゆきなちゃんを睨んでいたが、既に赤くなった頬をさらしていたので、威圧感はゼロに近い。


 家庭教師としての威厳いげんは丸潰れですね。まあ、そもそも、俺に威厳なんか存在したことはないんだがな。


 小学生からもてあそばれるどうも俺(24歳)です。

 

 この俺(24歳)は、気を取り直すための咳払いをした。腹を抱えて爆笑していたゆきなちゃんは、俺の咳払いを聞くや否や笑を止める。それから、大きいなお目々で俺を捉えた。どうやら続きをうながしているようだ。


「授業、やろう」


「うん!今日はゆきな、めっちゃ頑張る!」


 ゆきなちゃんはそう答えてから、俺の隣にある小さな椅子に腰掛けた。


 かくして、俺とゆきなちゃんによる、前途多難な授業が始まろうとしているのであった。



 

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