第115話 いいの。藤本くんなら

「目に見えるものに縋りつく人は山ほどいる。でも、それらが刹那的な寂しさや欲求不満を解消する手段にはなれても、それ自体がゆきなちゃんを守ってくれるわけではないぞ」


 俺が曇りが一点もないゆきなちゃんの綺麗な瞳を見ながら説くと、この子は目をさらに光らせて、質問を投げかけてくる。


「つまり、大人になれば、目に見える面白そうなものがつまらなくなるの?」


 子供にとって大人というのは、いわば憧憬どうけいの念を抱かざるを得ない存在。お酒を飲んだり、車に乗ったり、恋愛をしたりと、親や社会通念によって行動範囲が限定されている子ともにとって、大人という存在は瀟洒しょうしゃに見えるのだろう。


 だが、ここには大きな認識の違いがある。俺は、車の運転はできないし、恋愛もできない。さらに、お酒も苦手だ。


 つまり、こういうことが言えるわけだ。


「それは違う。大人になっても、いや、むしろ大人になったからこそ、目に見えるものにかれたり誘惑されたりするものだ」


 俺の言葉を耳にしたゆきなちゃんは、難しい顔をしている。眉根をひそめて「へ」の字を作って考え込んでいた。


「なんだか、難しい」


 頭を掻きながら俺の話を分析するゆきなちゃんに俺は言葉をえてやった。


「まあ、そんな深く考えなくてもいい。でも、一つ確かなのは、ゆきなちゃんは成長した。そしておかしくもない」


 俺が言い終えると、ゆきなちゃんは上目遣いで問うてくる。


「このままでいいってこと?」


 ゆきなちゃんは目を潤ませながら俺を見つめている。この目の奥には、不安と安堵あんどが入り混じっているように見えてしまう。


 早く正解を言って、不安という感情をかき消そう。俺は頷いてから返事をする。


「もちろんだ。ゆきなちゃんはゆきなちゃんだから」


 その瞬間、ゆきなちゃんが俺に抱きついてきた。座っている俺に自分の全ての体重をかけて飛び込んできたから驚いてしまった。


「ゆ、ゆきな…」


「やっぱりお兄ちゃん大好きだよ」

 

 そう言って、ゆきなちゃんは自分の頭を俺の胸に擦り付けてくる。だが、数秒がたつと動きを止めて、頭だけ俺の前に突きつけてきた。


 これはダメだ!外には西園寺京子さんがいる。こんな場面を見られたら、俺はそくクビだ。いや、でもこれは不可抗力なわけで、ゆきなちゃんの方から勝手に抱きついてきたわけで…


 なに言い訳なんか考えてるんだ俺は。みっともないな。


 だがこれを無理やりひっぺがそうとしたら、ゆきなちゃんは間違いなくねるだろう。授業に支障をきたす行為をなるべく避けなければならない。


 目の前に見えるのはゆきなちゃんのつややかな黒い髪。


 ああ、そういえば、この子、頭撫でてあげると落ち着くんだったよな。


 ありしの日を思い浮かべた俺は、ゆきなちゃんへの対処法を発見する。


 なでなで


「ふぇ…」


 本当に柔らかいな。今更ながら、ゆきなちゃんの髪のサラサラ感を改めて実感することができた。


 ゆきなちゃんは気持ちよさそうな表情を浮かべては、力を抜いて、俺に自分の全てをゆだねた。


 その瞬間


「菓子とお茶、持ってきたわよ」


 いきなり、西園寺京子さんがドアの前に現れた。


 嗚呼、俺が一番危惧している状況が起きてしまった。これはどう考えても一発アウトですよね!


 愛くるしいお宅の幼い娘を抱いている目の腐った男。どう考えて訴えられるような事案ですよね?

 

 俺は大急ぎでゆきなちゃんをひっぺがした。だが、時すでに遅し。


「なんだよお兄ちゃん!」


 ゆきなちゃんがプンスカ怒り気味に抗議してくるが、今はゆきなちゃんにかまける余裕などあるまい。


 俺は無表情の西園寺京子さんを見ながら口を開く。


「こ、これは、つ、つまり…」


 ダメだ。呂律が全然回らない!こんな切羽詰まった時に限って言葉が出てこない自分が嫌になりそうだ。


 俺が頭を抱えて心の中で辞世の句読んでいると、西園寺京子さんの声がかすかに聞こえた。


「いいの。藤本くんなら」


「え?」

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