第103話 藤本悠太は解放される。

 会話が途切れ、沈黙が辺りを包む。空にはトンボが飛んでいて、秋の到来を告げ知らせるように忙しなく羽根をバタバタさせている。


 西園寺刹那は俯いたまま、歩き始める。まだゆきなちゃんの授業があるから、ここで長居するわけにもいかない。


 というわけで、俺たちは家に戻った。


 ゆきなちゃんは、戻ってきた俺たちの顔を見比べては、小首を傾げて口を開いた。


「二人ともなにかあった?」


「なにもなかった。それより授業始めよう」


「う、うん」


 ゆきなちゃんは、戸惑い気味に首肯しゅこうして、暗い顔をしている西園寺刹那を心配そうに見つめている。


「今日から学校始まったわけだから、頑張らないとな」


「うん。そうね」


 そう答えたゆきなちゃんは、物寂しくため息をついた。


 意外なことに、夏休み明けの割には、ゆきなちゃんは授業にちゃんとついてきてくれて、すごく真面目な態度を見せてくれた。


 対して西園寺刹那は、ノートパソコンに顔を隠して、繁々しげしげとこっちを見ている。


 ついさっきの事もあって、物凄く気まずい。


 でも、今は授業中だ。動揺した様子をゆきなちゃんに見せたらきっと色々勘繰られてしまう。この子は勘がいいから。


 しばらくの間、俺の教える声と、ゆきなちゃんのシャーペンの音が断続的に続いた。


「今日はここまでだ。明日は今日出した宿題をやりながら復習してくれ」


「はーい」


 ゆきなちゃんが間延びした声で返事をして、ランドセルに教科書やら問題集やらを片付けている。


 俺は西園寺刹那に視線を送ったが、反応ない。時間が止まったかのように動きも一切ない。


「西園寺」


 試しに一回呼んで見たが、聞く素振りを全く見せない。


「お姉ちゃん!」


「え!?ど、どうしたのゆきな?」


「もう授業終わったよ。帰ろう」


「そ、そうよね!」


 西園寺刹那は忙しなく首を縦に振って、ゆきなちゃんに返答した。


 俺は例のごとく、この二人を送るため、玄関まで行った。


 ゆきなちゃんは、鼻歌を歌いながら靴を履き、力強く、玄関ドアを開ける。それからぐるっときびすを返して俺に向き直った。


「じゃ!またね。お兄ちゃん!」


「ああ」


「…」


 いつしか、西園寺刹那もゆきなちゃんの隣に立っていた。だが、後ろを向いたままで、どんな表情をしているのかはうかがい知れない。


「お姉ちゃん?」


 ずっと無口のままだった自分の姉が気になるのか、手を後ろに組んで、姉を見上げている。


 こんなシチュエーションが続くのはよろしくない。


「今日出した宿題、全部やってね」


「え?う、うん」


「じゃ、気を付けて帰って」


 そう言った俺は、静かに、そして優しくドアを閉じた。


 俺は両手を胸に置いてからため息を吐く。


 やった!やっと俺の上にのしかかっていたプレッシャーから解放された。


 この達成感は本当に久しぶりだ。


 俺は自分にとって最善の事をした。でなければ、今俺が感じているこの開放感と達成感は生まれない。


 俺は自由を得た。もちろん、家庭教師という肩書きがまだ残っているから完全な自由とは言えないかもしれん。ゆきなちゃんと約束を交わしたから、俺が家庭教師を辞めても、向こうが拒否しない限り関係は続くだろう。


 だが、西園寺刹那は違う。いくら血が繋がっているとはいえ、西園寺刹那はゆきなちゃんの姉以外の何者でもない。要するにゆきなちゃんにとっては一番近い他人だ。


 そんな人と、ゆきなちゃんと同じような関わりを持つのはどう考えても筋違いだ。


 西園寺刹那は大学内でもトップクラスの美少女で、どこに居ても引く手数多あまただ。


 きっと彼女を中心としたコミュニティが既に形成されているはずだ。


 女からは妬まれ、男からは虎視眈々性的に狙われる、レベルの高い舞踏会で、魅力を振りまいて踊っているんだろう。西園寺刹那は。

 

 俺はその舞踏会に立ち入る資格などない。いや、むしろこっちから願い下げだ。


 西山との出来事だってそう。俺が今まで優柔不断な態度を見せたから、レベルの高い舞踏会のメンバーからこっぴどく注意を受けてしまった。


 本当に我ながら素晴らしい選択だ。これで西園寺刹那との繋がりはなくなった。あとはゆきなちゃんの成績をあげることに尽力すれば良い。


 俺のメンタルをむしばむ原因の一つが消えたのだ。


 口角を釣り上げた俺は、冷蔵庫を開けて布引の水を取り出す。そしてそれをコップに注いで、んくいんくと勢いよく一気飲みした。


「ぷあっ。美味しい」


 俺の視線は無意識のうちに、流し台に止まった。まだ洗ってない3人分の食器が置いてある。


 お水を飲み終わった俺は、ゴム手袋をはめ、早速皿洗いを始める。


 得体の知れぬ心の痛みを覚えながら。

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