第72話 ふじにいちゃんは、なでなでしてくれない

「この間もそうだったし、俺に何か家庭教師として至らないところがあれば言ってくれ」


 きっと、家庭教師としての俺の働きぶりと態度が気に食わないから、あんな視線を送ってきたのではないだろうか。現段階で考えうる原因はそれしかあるまい。


「違います!むしろ、藤本さんにはこれからもずっと、ゆきなちゃんの家庭教師を頼みたいくらいですよ!私の両親もすごく満足していますから!」


 思わぬところでお褒めの言葉をいただいてしまった。俺は思わず安堵あんどのため息を漏らした。だが、これで疑問が解決したかというとむしろ逆だ。家庭教師として問題ないとしたら、一体なにが問題だというのか。


「俺の勘違いかもしれないけど、ずっと俺のこと睨んでいなかったか?」


「そ、それは…」


 前を歩きながら吐いた俺の言葉に西園寺せつなは肩をすくめて言葉を詰まらせた。


 ひょっとして俺のことが嫌いなのか。いや。その可能性は極めて低い。いじめ経歴10年のプロ鑑定士である俺に言わせれば、西園寺せつなが見せた態度は「嫌い」とか「嫌悪」といった類の感情ではない。むしろ、この間、青山かほが三流ホストっぽい雄介という男に対して放った毒舌がそれに近い気がする。


 西園寺せつなは指を組んで視線を泳がせていた。俺が彼女を困らせてしまったとでもいうのか。俺の思考回路に基づいて彼女の行動を定義すると、理解不能。つまり、俺は別に彼女を困らせた覚えはないのだ。しかし、ここには罠がある。


 俺は悪くない。俺には罪がない。悪いのは俺じゃない。俺こそが正しい。つまり、これは責任を他人になすりつける為の言い訳なのだ。俺をいじめていた連中が唱えていた愚かで愚にもつかない壊れかけの論理思考以外のなにものでもだい。


 と、考えた俺はすっと胸を撫で下ろしてから場を整えるための言葉を頭で選りすぐって口を開こうとした。だが、いきなり、ゆきなちゃんが割り込んでくる。


「ふじにいちゃん、大丈夫だよ。いつもやりたい放題だったけど、今度はやられる側になっただけだからね!」


「ゆ、ゆきな!」


「え?どういう意味だ?ゆきなちゃん」


「ふじにいちゃんは知らなくてもいいの!でもお姉ちゃんにはこれくらいが丁度いい!」


 ダメだ。全く意味がわからん。ゆきなちゃんは意味ありげな視線を自分の姉に送っていて、それを受け取った西園寺せつなは「違うから!」とか「いや」と言いながら必死に否定している。だが、ゆきなちゃんは気にも留めていないらしく妖艶ようえんな笑みを浮かべているだけだった。俺って小学生よりもコミュ力低かったんだね。


 ひとしきり騒いだ俺たちに、やがて沈黙が訪れた。蝉時雨せみしぐれのうるさい音と共にテクテクと歩く。


 どれほどたっただろうか、お馴染みの路地裏が現れた。そして、そこには、代わり映えのない古い毎月5万円の家賃が立っている。


「すまんな。コンビニまで来てもらって」


 いくらコンビニと家が近いと言えども、真夏日においては、往来することすら重労働だ。そのことを熟知している俺だからついねぎらいの言葉を言ってしまった。余計なお世話かな。


「い、いいえ!私とゆきなが勝手にお邪魔しただけですから、むしろこっちこそすみません!」


「そ、そうか。とりあえず中入ろう」


「はい!」


 むしろ、謝られしまったな。


「ふじにいちゃん!早く!」


 いつの間にやら、階段に立って俺たちを見下ろしているゆきなちゃんが、ちょいちょいと早く来るよう俺と西園寺せつんに手招いた。家入っても別に面白いものなんか一つもないというのに。


「行くか」


「はい!」


 俺は西園寺せつなに目くばせすると、無言で頷いてから俺たちは部屋のあるマンションの階段へと歩調を早めるのだった。


X X X


「授業やろう」


「う」


「ゆきなちゃん、それ返事したつもりなの?」


 いかにも面倒臭そうにテーブルに頬杖をついたまま消え入りそうな声音で答えるゆきなちゃんを見た西園寺せつんはいつものツッコミを入れてきた。


 食後ならではの倦怠感けんたいかんもあってか、やる気が全然見当たらない。


 でも、思い返して見れば、この光景は不思議だらけだ。


 俺が作った料理をこの二人はなんの文句も言わず、美味しく食べてくれて、西園寺せつなは皿洗いをしてくれる。それより何より、大企業の副社長の御令嬢がこの古びたマンションにわざわざおもむいて、和んでいること自体に俺は違和感を覚えている。  


 なにもないこの灰色じみた空間は、こと、この二人がいる時に限って、色とりどりの憩いの場のように見えるのだ。

 しかし、俺はこの二人だけの空間に足を踏み入れるつもりなどない。だが、俺のスペースを踏みにじって、略奪りゃくだつするつもりがあの二人にないのであれば、このこじんまりした見窄みすぼらしい部屋を貸してあげるのにやぶさかではない。


 この姉妹についてはまだ分からないことだらけだし、向こうも、俺のことはなにもわかってない。だから、この断絶された距離感によって生まれる平和を楽しむとしよう。


「ゆきなちゃん、理系の教科書開いて」


「うん」


 いよいよ授業が本格的に始まった。と言っても、そんなに大したことはしない。基本、ゆきなちゃんにやってもらって、知らないところがあれば、俺が素早くそれを教えるという、単純であり、効率のいい方法である。


 まるで単純作業と化したこの授業は、気がついたら、もう終わりに差し掛かろうとしていた。時刻は19時55分。



「あ、そういえば、ゆきなちゃんって新学期、来週から始まるんだっけ?」


「うん!そうだよ!」


「テスト頑張れそうか」


「50点超えるかどうかは分からないけど、頑張る!」


「そのいきだ」


 俺が適当にゆきなちゃんと会話をしていると、向こうでノートパソコンをたたたっと打って大学の課題やらをやっていた西園寺せつなが手を止めた。


「お、最初の目標は50点ですね」


「まあ、そんな感じだな」


 西園寺せつなが感心したような嘆息を漏らすと、上半身を前のめり気味に乗り出して、ゆきなちゃんの頭をを撫で撫でした。


「ゆきなちゃんえらい」


 ゆきなちゃんは、そっと優しく添えられた姉の手を拒まないものの、何か不貞腐ふてくれている表情を浮かべて俺をチラッと見た。まあ、姉と比べられるのがいやで勉強するのが嫌いになったわけだから、ゆきなちゃんとしては、当の本人から褒められるのは、いささか受け入れがたいものがあるのだろう。


 俺が納得顔で頷くと、ゆきなちゃんはさらに、頬をふくらませて、俺を見つめる。異変に気づいた西園寺せつなは手の動きを止めて、ゆきなちゃんを心配そうに見ながら口を開いた。


「ゆきなちゃん?どうかしたの?」


「ふじにいちゃんは、なでなでしてくれない」


「え?お、俺も撫でるの?」

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