第66話 藤本くんに言いたいことがあるの

 五十嵐れいなから一時的に解放された俺は、視線を料理の置かれているテーブルに向けた。二人も俺の反応を見て各々の注文した料理に目を見やる。


「食べよう!」


 お腹を空かせているゆきなちゃんは目をキラキラさせながら目の前にある実に美味しそうなボロネーゼパスタをフォークでくるくる回して口に運んだ。


「そうだな」


 俺も相槌あいづち打ちながら、フォークを手にとった。


 最初はこの二人に素気無く足わられたが、今となっては、この姉妹が放っていた殺伐さつばつとした雰囲気はいつしか鳴りを潜めていた。もっと違う言い方をすれば、この二人をはるかに上回る五十嵐れいなという脅威によって塗り潰されたと表現することもできるだろう。いずれにせよ、俺は今、危機的状況にある。過去のトラウマは、時として俺に正常な判断をできなくする悪い働きをする。故に俺は今、困り果てているのだ。


 ここに入る前までは、今日何食べようかとか、もっとうまい教え方ないかなといったごく普通のことを考えていたのだが、今は頭が空っぽ状態だ。おまけに、食欲がない。

 

 過去にいじめられた時と同様、目の前にある料理は、プラスティックの模型じみていて、口に入れたら、すぐ戻しそう。


 胸と喉に大きな何かがつっかえるような気分になった。俺はこの気分の正体をよく知っている。精神が限界状態に近づいた時に脳が送る危険信号だ。


「藤本さん、どうかしたんですか?」


 西園寺せつなは、フォークでつつくだけで全く食べるそぶりを見せない俺に向かって心配そうに言った。


「ちょっとトイレ行ってくる」


「は、はい」


「いってら」


 俺は立ち上がり、そのままトイレに向かった。彼女らにバレないように深々とため息を吐きながら。

 

 もちろん、用を足すために行くわけではない。五十嵐れいなが振り撒いた重たい空気に耐えかねて一時的に避難するだけだ。


 そういえば、配膳するときに、話があるって言ってなかったかあの子。できれば、このまま外を出て家に帰りたい気持ちでいっぱいだが、西園寺せつなはそれを許さないだろう。実際、俺は雇われ身だ。ゆきなちゃんに成績をあげるための「授業」というサービスを提供する義務・債務があるのだ。だから投げ出すわけにはいかないだろう。逃げる時も、無責任に餌食となる人物を定めて、そいつに全部投げつけるのは、俺をいじめてきた連中や小賢こざかしい社会人の常套じょうとう手段だ。逃げるとしても、ちゃんと責任を果たすのは俺の流儀である。だからこの授業から逃げるのはよろしくない。


 と、思いながら進むと、トイレが出てきた。もちろん入る気はとんとない。適当にぶらぶらして、頭でも冷やしてから戻ろう。そう考えた俺の後ろから、総毛たたせる声音が聞こえてきた。


「藤本くん」


「五十嵐、れいな…」


 俺はとっさに後ろに佇む彼女に向き直って反応を示した。


 唇は震え、顔全体がまた痙攣けいれんし出すのを感じながら俺は、このメイドさんの顔を見つめる。彼女もまた逡巡しゅんじゅんしながら唇を噛み締めている。


「今は仕事中だから後で連絡するわ。だから携帯、教えてもらえるかしら?」


 彼女は目を潤ませていて、今にも泣きそうな悲しい顔だ。なんであんな顔をするのかは、窺い知れない。だが、いついかなる時も、最悪のシチュエーションを想定し、うまくやり過ごせるための道筋を立てるのが俺だ。しかし今日に限っては、理性が半ば崩壊しつつあるので、思いついたことをそのまま口にするほかない。それが彼女にどういう影響を与えるかは知らないが。


「教える理由が、ない」


「どう、して?」


「それは…」


 俺は言葉に詰まってしまった。今まで俺は、自分の醜い過去を「理性」という箱にぶち込んできた。つまり、臭いものを捨てずに、そのままふたをして、やり過ごしてきたのだ。それが今、目の前に佇んでいる彼女によって明るみに出ようとしている。きっと、この臭くて吐き気をうながす過去は、見るに耐えないほど汚くて、あざけられるレベルのものだろう。


 だから俺は言えない。俺の往時を知る者には何一つ教えることなどない。心の奥底に打ち捨てて忘れれば良いんだ。被害者も加害者も、忘れてしまえば問題は自然と解消する。


 俺はまともに反論もできない自分の無力な姿が過去の自分と重なって見えたので、思わず、唇を強く噛み締めてしまった。そこへ、五十嵐れいなは軽い足取りでもって近づいてきた。至近距離と言えるほどの距離でメイドさんは俺をじっと見つめている。俺が一歩前に進んだら、互いの顔があたりそうだ。


「教えてちょうだい」


「…」


 顔が近すぎるため、息遣いは鼻と耳と頬で感じることができる。俺は慌てて目を逸らすが、このスレンダーな柳腰のメイドさんは俺を決して逃してくれない勢いだ。


「藤本くんに言いたいことがあるの。だからお願い」


 俺は不覚にも視線を戻して彼女の顔を見てしまった。すると五十嵐れいなは何か必死になって訴えるような面持ちで俺の瞳を直視していた。彼女の吐息は蜂蜜はちみつのように甘く、頬は紅葉のように紅潮こうちょうし、艶やかな薄亜麻色の髪が揺れ動くたびに、名状しがたい香りが揺蕩たゆたう。

 

 ここまでして俺に一体何を言おうとしているのだろうか。脅迫きょうはく恫喝どうかつ?はたまた恐喝きょうかつなのか。


 俺は五十嵐れいなの放つオーラに当てれでもしたのか、気づいたら携帯を内ポケットから差し出して彼女に渡していた。


「ありがとう」

 

 そう短く言い添えて、五十嵐れいなは俺の携帯をいじり始める。だが、やがて、顔を顰め《しかめ》て俺に再度問いかけてきた。


「ライン、ないんだけれど?」


「電話番号で十分だから」


「わ、わかった」


 そろそろ、ライン、インストールしたほうがいいのかな?

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