第31話 苦悩

 口頭と握手によって結ばれた契約。人間の歴史と人生を要約すれば契約の連続だ。平和も戦争も結婚も葬祭も、約束ごとで、契約からなっていると言っても決して言い過ぎではないだろう。だが、今回の契約は極めてあやふやで中途半端で、まるで倒れる寸前のジェンガーのようだ。ほんのわずかな認識の違いで争いに発展しかねない約束。まさしく俺たちの関係を表しているようにも見て取れる。でも、俺の危惧の念とは裏腹に西園寺せつなは不敵な笑みを浮かべて嬉しそうだ。


「部屋、戻りましょうか。ゆきなちゃんが待ってますから」


「おう」


 握手を終えた俺たちは、もうここにいる理由がないので、部屋に戻ることにした。


 明るい太陽も、目立たないように光を強度を徐々に下げている夕方。周りは、晩ご飯を食べ終わった小学生たちがボール遊びをしたり、木下で昆虫採集をしたいる。きっと、この子らも誰かをいじめたり、傷つけたりしながら育つんだろう。日本の未来は明るい。


 部屋のドアを開き、中に入ると、ぷんすか怒り気味のゆきなちゃんがなんの話をしたのかと根掘り葉掘り聞いてきた。別に隠すような内容でもあるまいし、いつから家庭教師を始めるのかなど、さっき決めた内容をざっくりと説明した。すると、浮足だって喜ぶゆきなちゃん。


「もうこんな時間。ゆきなちゃん、そろそろ帰らなくちゃ」


 時刻は午後7時20分を指している。西園寺せつなとゆきなちゃんは、いそいそと帰り支度を済ませると、玄関口へと移動する。俺も昨日と同じく玄関までは同伴した。


「今日も勝手に失礼して申し訳ございませんでした」


「来る前に電話くらいはしてくれ」


「電話、したら出てくれるんですか?」


西園寺せつなは俺をまっすぐ見ることはせず、自信なさげな小声で言った。


「出れる時は出るから…」


 俺もまた確信のない口調で話してしまう。それを抜け目なくキャッチした西園寺せつなは俺にジト目を向けた。


「やはり、あなたは信用できません」


「そうか」


「そうなんですよ!まあ、とにかく、これから妹のことよろしくお願いします」


「こちらこそ」


「ふじにいちゃん!よろしく!」


「よろしくな」


 ゆきなちゃんは朗らかに笑むと、踵を返し、玄関扉を開けた。外に出てから二人ともまたこっちに向き直る。


「それでは、また今度で」


「バイバイ!お兄ちゃん!」


 二人の挨拶を受けた俺は、ふむと頷き返した。そして二人は消えてゆく。3日連続での交流はようやく幕を閉じた。


 部屋に戻ってベッドに横たわる。異様にしーんと静まり返る空間。いつもこんな感じのはずなのに、なんで俺はこの静謐な空気を訝しむのだろう。結局、慣れの問題だ思う。イレギュラーな展開尽くしで、まだ頭が状況に追いついてないだけ。


 俺はあの二人の姉妹と関わりを持ってしまった。現に家庭教師という肩書きも与えられた状態。故に、第三者という地位を剥奪されてしまった。もし一度でも関わってしまったが最後、観測者という立場は、観察者という立ち位置は意味を成さなくなるのだ。俺はそのこと対して不安を抱いている。


 側から見れば、俺たちはうまくやっているように映るのだろうか。無論、そう思われても不思議ではあるまい。なぜなら、俺が必死に平気を装ったから。演技をしたから。

 

 高校時代、大学時代、俺はいつも誰かと関わる時は、卑屈な笑みで貫き通し、理不尽なことをされても、なんとかやり過ごしてきた。でも、社会人になってからは、そういうやり方も通用しなくなってしまって完全に身も心もボロボロになった。結局のところ、俺は社会的に不適合者である。だから、この姉妹との関係も、何もかも、そう遠くない内に破綻することになるだろう。俺にあまりにも多くのものを求めるようになる。流石に、女の子だから殴ったりはしないが、きっと、それに勝る何かしらの手段をもって俺を圧迫するだろう。平気を装う俺の演技を逆手にとって、干からびるまで魂ごと吸い尽くすだろう。

 

 静かに目を瞑ってみる。


『じゃ、なんで私を救ったの?』


 今日、ゆきなちゃんが俺に発したセリフ。真っ先にそれが脳裏をよぎった。どうして俺は言い淀んでしまったのか。言えばいいのに。まあ、わかっている。


 鳥籠の中にいる鳥はケージの扉を開けても遥か彼方目掛けて飛び立つことはしないのだ。今まで過ごしてきた環境が全てだと思い込んでいるから。


 俺はずっと殴られ虐められてきた。だから逆に他人をいじめたり傷つけることはしていない。それが、どれだけ辛いことなのかよく知っているから。だから俺は決して人を傷つけない。たとえ、そういうことを無意識にしたとしても、最後まで責任をとって償う。俺が二人の姉妹に見せた態度もそうだ。コンビニまで来た姉妹に向かって『ああ、俺は君たちが嫌いだ』と素気無くあしらい、傷をつけてしまった。それをなんとか挽回したいと、内なる自分が叫んでいたから。良心の呵責かしゃくに苛まれながら彼女らを受け入れた。美味しい料理を作り、家庭教師も提案も引き受けた。


 やっぱり俺は本音を言ってはならない生き物だ。言ってしまえば、きっと相手は傷つくから。今まで俺をいじめてきた連中と同じになりたくない。だから、だから、俺は第三者であり続けなければならない。傍観者でもいい。石ころでもいい。関わってしまったら壊れてしまう。それだけは避けなければならない。でも。


『ふじにいちゃん大好き!』


 しばらくの間、様子を見よう。でも、昔みたいに気負う必要はない。いつか滅んでなくなるか、自然消滅するのは目に見えている。だから、守らなくてもいい。壊れること前提でことに臨むとしよう。


 そう決心した俺はだんだんと意識が朦朧としてきて眠りについた。

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