62 エピローグ 5

 テレーシアから初めて名前を呼ばれ、私はとても満足した。


 彼女の恋や愛はギルベルトに全部持っていかれてしまったが、トールとはまた違う、新たな友情をこれから育もう。


 テレーシアが貴女の一番の友人は誰だ、と問われた時、その口からすぐにクリスティーナ・フォン・ラインフェルトの名が出るような、そんな関係を。


 ずっと向けてもらいたかった親愛なる笑顔。


 改めて彼女を美しいと思い、だからこそその唇があの晩、魔王に奪われたのがとても腹立たしい。


 ……ん、と。私の中で閃いた。


 テレーシアとギルベルトは付き合っている。そうテレーシアに伝えられた。


 でもよく考えれば、あの時テレーシアに迫ったのはギルベルトではなく、魔王である。あいつは実にちょろかったと言っていたではないか。


 ということは……


 パッと私の顔は華やいだ。


 とても素晴らしい事実に気づいてしまい、私は今、これまでにない幸福感に包まれたのだ。


 あの日、ギルベルトの口からもたらされた『君が一番特別な女の子だよ』は魔王の言葉だ。つまりギルベルトの意思ではない。なら、その関係はご破産ではないか。


 一度は終わったと思っていた恋が、実はまだまだ終わっていなかった。むしろ新たな関係へ至ったことで、今までにないチャンスを掴んだのではないか?


 ありがとう魔王。おかげで霞のような私の恋が、この手に掴める形を成した。テレーシアの初めての唇を奪ったのは絶対に許さないが、感謝くらいはしてあげるわ。


 そしてもう一つ。ギルベルトがどこまでテレーシアに好意を寄せているか測りかねるが、トールにもまた可能性が蘇ってきたのだ。


「本当に嬉しそうだね、クリス。そんな幸せそうに笑うのは見たことがない」


 トール、我が親友にこの素晴らしき幸せを向ける。


「ええ。テレーシアさんに名前を呼んで貰えて本当に嬉しいわ。でもそれだけじゃない。それに劣らぬ嬉しいことに気づいてしまったの」


「それはよかった。祝福の拍手を送るよ」


「あら、他人事ではないのよ。この喜びは貴方にも関係があること。後で二人になった時に教えてあげる」


「一体どんな喜びなのか。そこまで言うのだから今から楽しみだ」


 ああ、早くこの喜びを共有したい。


 私の大好きな親友トール、貴方にはまた素晴らしい恋の可能性が蘇ったのよ、て。


「テレーシア。どうやら俺たちは、喜びを分けてもらえない除け者らしい。友達甲斐のない酷い話だよな」


 茶々を入れるように、ニヤニヤしながらテレーシアに顔を向けるギルベルト。


「仕方ありませんわ。ミス・ライ――クリスさんたちは、それはもう素晴らしい友情で結ばれている仲ですもの。わたくしたちに入れる隙間などありません」


 また呼び慣れぬ私の名前を恥ずかしそうに呼びながら、テレーシアはからかってくる。


 そんな私たちを交互にギルベルトは見ると、ニヤニヤしたその顔を引っ込ませた。


「二人に改めて確認したいことがあるんだ」


「なんだいギル?」


 少し真面目な顔をしたギルベルトに、トールの方が応じてくれた。


「トールとラインフェルトは、本当に恋人同士じゃないのか?」


 だというのに、どんな真面目な話かと思えばそんな話か。


 何を今更そんなことを真面目に聞いているのか。ちょっと呆れている。


「何度も言うが、僕らの間にあるのは友情だけだ」


「私たちの関係はありと言って、納得してくれたのではなかったのですか?」


 初日に自分で言っていたではないか。


 やはりからかうのでもなく、だからといって私たちで遊んでいる様子もない。ギルベルトの顔は真面目なままだ。


「いくら公認とはいえ、理由があって隠しておきたいこともあるだろ? だから、ちゃんと最後に確認だけはしておきたいんだ。そうじゃないとトールには悪いからさ」


「隠している恋や愛だなんて何もないよ。もし明日クリスが自ら望んだ婚約をしたのなら、喜んで僕は拍手を送るさ」


 そんな時は来ないのだが、トールはそう答えた。


「そもそも一体、僕に何が悪いと言うんだい?」


 そういえば、最後にそんな言葉を付け足していた。何を言いたいのかさっぱりだ。


 ギルベルトはそっと立ち上がると、ニカっとその白い歯を見せてくる。


「横恋慕して手を出そうとするほど、俺も無作法じゃないってことさ」


 は? という言葉が揃って私たち三人から吐き出された。


 立ち上がったと思ったら、ギルベルトは私の前で片膝をついた。


 そうしてそっと私の手を取ると、端麗なその顔からはとんでもない言葉が吐き出される。


「ラインフェルト。君が好きだ」


 何を言っているのだこいつと、理解がまるで追いつかない。


 私が普段テレーシアに伝えたい言葉が、なぜギルベルトから自分に向けられるのか。


「この想いは助けられたことだけじゃない。全身全霊をかけて魔王を止めてくれた光景が、今でも胸に焼き付いている。初めて出会ってから時間が経っているんだ。一目惚れって訳じゃないが、俺はあの瞬間、強い君に心を奪われた。どうかこれから、君の隣にいさせてほしい」


「ごめんなさい。丁重にお断りさせて頂きます」


 私の口からはそんなお断りが自然と出てきた。理解より先に口に出たのだ。


「いや、うん。こうなるとは思っていたが、ここまであっさり断れるとはな」


 参った参った言いながら立ち上がり、困ったような笑顔が向けられた。


「敗因を聞きたいんだけどいいか? 君が気に入らない所はいくらでも直す」


「いえ、気に入らない所はありません。純粋に、好みの問題です」


「聞いたかトール。俺はこの先、これより酷い振られ方をすることはないと断言する」


 ギルベルトは情けない声でトールに水を向けて困らせる。そんな顔で見られても、苦笑いしかできないだろう。


 ただギルベルトは、それはそれでスッキリしたような顔で、私に向かってにこやかに微笑んだ。


「ま、魔王によって上乗せされた俺の力が、あれだけ良いようにされたんだ。そんな情けない男に好きだと言われても、頼りないよな。だが俺は、案外諦めの悪い男だ。いつか君を頷かせてみせるさ」


 私を頷かせたいのなら、それこそ女へ生まれ変わるくらいのやり直しがないと、絶対に無理な話だ。


 そんなことも言えず、ギルベルトはどうやら私を諦めてくれないようだ。


 困った顔をトールに向けると、彼もまた複雑そうな苦笑いを浮かべている。


 蘇ったトールの恋の可能性を、私が真っ先に潰してしまった。申し訳なすぎてたまらない。


 そして私は、その視線に気づいた。


 恨めしそうな、そして悔しそうにしている彼女の顔だ。


 私を友人と認めたことで堪えているようではあるが、私の知るテレーシアが帰ってきていた。憎々しげでこそないが、彼女はギルベルトを私に取られ、恨めしくて悔しくてたまらなそうだ。


 そしてそれは、テレーシアがまだギルベルトを諦めていなかった証でもある。


 英雄の息子、ギルベルト・アーレンス。


 私の恋の前に、彼は再び立ち塞がったのだ。それも今度はとんでもない爆弾を引っさげて。


「本当、困ってしまいました」


 ギルベルトは好きである。気持ちに応えることはできないが、隣にいてとても楽しい少年だ。ただし私の恋を阻む、とんでもない男でもある。


 私は恨み言を言わない。


 だから胸の底から湧き上がるこの感情は、決して彼への悪意でも恨みでもない。


 ただ純粋に、誠実に、無垢なまでに高潔で混ざりっけもなく、純度百パーセントに、


「今だけだ。必ず、君を喜ばせられる男になってみせるよ」


 私の恋に、この英雄の息子は邪魔である。


 そう思っただけだ。

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