56 神と王

 外れた、その声は告げていた。


 何を? 一体何が外れたというのだ。


 何を言っているのかはわからない。おそらくこの先、それを理解する日は訪れないだろう。


 だから今わかるのは一つだけ。


「がぁあああああ!」


 受け入れる覚悟をした苦痛が、また自らを襲い始めたということだ。


 ボールのようにこの身体は、地面を何度も転がり跳ねる。


 ようやく止ろうとしたら、また次の衝撃によって身体が宙を舞う。


 クリスティーナ・フォン・ラインフェルト。


 虫の息かと思った強敵が、息を急に吹き返して再び自らと対峙した。


 いや、そんなものではなかった。


 崩れたと思ったその城塞は、ただの通用口だったと言わんばかり。更なる強固な城塞がその先には佇んでいたのだ。


 底は見えたはずなのだ。


 なのに底の向こうが急に広がりを見せ、何かが湧いてきた。


 何度も何度も止まることなく、その足は襲ってくる。それこそ来た道を戻るように、一発毎に数十メートルは飛んでいく。


 クリスのどこにこんな力が残っていたのか。


 こんな力があるのならなぜ初めから使わなかったのか。


 あそこまで追い込んだはずなのに、なぜ戦況は逆転してしまったのか。


 そんな魔王の中に、とある光景が蘇る。


 英雄との死闘。


 幾十の聖騎士や聖賢者が地に付して、最後まで残ったその男との一騎打ち。


 決してそれは勝てない戦いではなかった。まさに今回のクリスとの死闘のように、ついには勝利を迎えようとしていた。


 だが、それは最後の最後の一瞬で覆った。


 どこにそんな余力を隠していたのか。見えたはずの底は何倍もの広がりと深さを見せ、魔王を襲ったのだ。


 その力の正体は未だにわからない。その時の事を英雄は、ふと、力が湧いてきたとギルベルトに語っていた。もしかしたら勇気や希望、愛が与えてくれた力かもしれないな、と。


 苦痛を受け入れる覚悟。


 そんなものだけでは決して覆らない戦況になった今、魔王の中には恐怖が芽生えていた。


 十六年が終わる。


 それが間近に迫ったことに、恐怖に震える。


 ボールのように何度も蹴られ、グルグル回った世界。


 その世界がようやく終わりを迎え、足元を笑わせながら踏み出した。


 クリスが向かってくるであろう方角。その逆へ。


 一度も振り返ることもせず、逃げ出すためにその足は動いているのだ。


「そっちに行きたいの? 手伝ってあげる」


 その背中にもたらされた衝撃が、魔王を数十メートル先へといざなう。


 木々に激突し、肺から失った物を取り戻すように何度も呼吸を繰り返す。また背中を見せるように這いつくばりながら、少しでも遠くへこの身体を運んでいく。


「あらあら。負け犬が、ワンワン、と尻尾を振っているわ」


 そんな魔王をまるで虫けらのようにクリスは踏み潰す。地面が砕けるほどの一撃は、またこの肺から空気を奪い去る。


 背中よりその足が取り除かれると、これを逃すともうチャンスはないとばかりに振り返り、その右手を差し出した。


 そんな魔王に応えるように、その手のひらをクリスは絡ませる。


 そこで起きる爆発にクリスは苦痛に歪むことはない。むしろその顔は、もう見飽きたわと言っているようだった。


「さっきから手癖が悪いわね。これはお仕置きが必要みたい」


 絡めた手を持ち上げながら、クリスはその右腕に足をかけた。


「がぁああああああああああ!」


 耐えられず魔王は絶叫した。


 踏み砕くようにして肘から先が折られたのだ。


「そうやって叫んでみっともないわね。覚悟が足りないんじゃないの?」


 ついでのように今度は、魔王の左手首を持ち上げた。そして、また同じように折ったのだ。肉体保護をかけられた腕を、まるで枯れ木を折るような気軽さで。


 両手を破壊された魔王はのたうち回る。


 そんな魔王の様を見て、クリスはおかしそうに笑っている。


「試験はもういいのかしら?」


 試験。天より与えられたと自らに課したそれ。


 あの時胸に抱いた全ては、かなぐり捨てている。今はもう逃げることしか考えられない。


 クリスという苦痛へ、その背を見せたのだ。


 胸ぐらを掴まれた魔王は、腹部に拳を叩き込まれる。


「あら、いけない」


 宙へ舞う魔王を見て、やってしまったとばかしにクリスは反省した。


 王宮。その二階にある窓を突き破って魔王は転がった。


 そこは廊下であった。


 魔物騒動の対応にあたっていた騎士や要人たちの姿があった。


 このような有様で転がり込んできた英雄の息子の姿を見て、何事かと皆が注目する。


 魔王はそんな彼らからも逃げるように、這いずりながら近くの部屋に駆け込んだ。


 半開きであった扉を背中で閉め、座り込んでしまった。


 まずは息をしたい。


 逃げるとか全てを後回しにして、息を整えたいと。


 肉体による苦痛から思考は乱れ続けている。


 苦痛だけではない。恐怖だ。


 一度は底が見えたはずの小娘の中から、何が飛び出てきたのかと。あれは一体何なのだと、魔王は現実から逃げるように考える。


 しかし現実からは逃げられない。


 轟音と共に扉が破壊された。


 右側頭部の横に、華奢で細い悪魔の腕があったのだ。


 肩越しに振り返る。


 扉に空いた穴からは、淑女の微笑みが覗いている。


 逃げる間もなく、扉を破壊したその手は魔王の首を締める。扉を壊す轟音と共に、後頭部にもう一つの拳が襲いかかった。


 大理石の床を転がりながら魔王は壁に激突した。


「ぐぁ!」


 逃げ出そうと立ち上がろうとした右足が、地面ごと踏み砕かれる。


 まともに機能する四肢は残り一本だけ。


 もう逃げられない。


 クリスは魔王の首をもう一度締め上げると、自らの視線より更に高く持ち上げた。


「試験の結果は出たようね」


 魔王は悟った。


 もう逃げられない。


「私は……魔王だぞ……」


 だから出てくるのは、


「奇跡を、得たのだ……世界を手にする力……私だけが、魔神になることを許されたのだ。……こんな奇跡を得た私が、こんな所で倒れていいわけが、ない……!」


 こんな情けのない負け惜しみである。


 自分は特別なのだから負けてはならないという、身勝手な恨みの言葉だ。


 クリスは呆れたように息をつく。


「どうやら貴方に必要だったのは、痛みを受け入れる覚悟ではなくて、負けを認める潔さのようね」


 まるでそれは哀れみのようにも聞こえ、それがより一層、魔王の心を貶めた。


「奇跡というのなら、私も得ているわ。奇跡を超えた奇跡。星に手を伸ばして、掴み取る以上の奇跡を経て、私は今ここにいるの」


 かつて親友へ語ったその言葉を、魔王へと差し出した。


「そんな私の奇跡と比べれば、貴方の身の上に起きた奇跡なんて、そこらにある偶然と変わらないわ」


 あまりにもハッキリと、クリスはそういい捨てた。


 おまえの力は奇跡でもなんでもない。偶然に遭遇すれば誰にでも手に入る力だと。


「偶然力を手にして、偶然魔王になって、偶然英雄に負けて、偶然その意思を残せて、偶然全てのチャンスを今日手にした。ただそれだけ」


「ならば……私は、偶然貴様に負けたなどと言うのか……?」


 十六年の集大成が、偶然台無しになった。


 最後の誇りまで汚し、貶めるような言葉に魔王は震えた。 


「……いえ、それは必然かもしれないわ」


 だが、それは否だ言われた。


 最後の最後に悪たる自分に立ち塞がったクリス。


 この先の言葉を想像した。正義とか善だとかを掲げた、くだらなすぎるであろう言葉を。


「だって私、マルティナさんからこう呼ばれてるでしょ。破壊の神、って」


 想像はハッキリと裏切られ、あまりにも不敵な笑顔が浮かんでいた。


「王ごときが神に勝てるわけないじゃない、おこがましい。私と対峙した時点で、これはそういう運命だったのよ」 


 気の利いた冗談を言えた自分に、クリスは満足そうにニヤリとした。


 必然がもたらされた理由。これ以上ない説得力に魔王は聞こえた。


 ああ、と。魔王は敗北への覚悟を決めた。


 あの英雄にやられたのは偶然だ。あれはたまたま負けただけだ。たまたま人間に負けただけだ。


 ただし今日の敗北は違う。これは運命だ。人の形をした神よりもたらされた、王ごときでは歪められない宿命だ。


「神の力……か。はは、どうやれば手に入る……?」 


 自分ですら手に入らなかった力。


 たかだか十五歳の小娘が、一体どうやって手に入れたのか。これは最後の最後に芽生えた、魔王の疑問であり望みであった。


「手に入れたんじゃないわ。与えられたのよ」


「与えられた……?」


「そう、愛ってものをね」


 まさか本当に、神によって……と思った矢先の答え。はぐらかすようなその答えに不快感すら覚えたほどだ。


「くだらない」


「くだらなくなんてないわ。生きていく上で何よりも大事なものよ」


 なのに茶化すわけでもなく、クリスはそれこそ本当の答えとばかりに言った。


「まぁ、地獄を知らない貴方にはわからないでしょうね」


「地獄、だと……?」


 想定していなかった言葉に魔王は驚く。


「私は地獄で生まれたわ。生きているだけで全てを否定されて、受け入れてもらえない地獄を知っている。天国で育った貴方には愛がどれほど尊くて、素晴らしく、そして力を与えてくれるかわからないのよ」


 本気で言っている目だと、魔王にもわかった。


 クリスは本気で魔王の質問に答えたつもりでいるのだ。


 わからない。愛され甘やかされて育った少女が、なぜ地獄だなんて言葉を吐き出すのか。


 聞き出そうにも、クリスにはそのつもりがないのも伝わってきた。


「でも、そうね。この力を愛によって手に入れたで納得できないのなら、こう答えましょうか」


 締められた首から力が消えるのがわかった。


 重力に引かれるがまま、魔王は地面へと向かう。


 そんな地面へと向かう途中、寄り添うような距離。


「私の力は」


 たった半歩だけ、クリスは踏み込んできた。


 魔王の意識はここで途絶えた。二度とその意思が上がってくることはないだろう。魔王はその手に栄光を掴むことはできず、ここで全て終わってしまった。


 ギルベルトの身体は後ろの壁を突き破り、その向こう側へと消えていく。


 クリスはそんな消え去った魔王にお構いなく、律儀に質問の答えを差し出した。


「そんな地獄で受けた職質と、投げられた罵倒と石の数で出来ているわ」

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