54 よーい、ドン
「クリスティーナ・フォン・ラインフェルト……」
中指を尖らせた右の拳が、魔王のみぞおちを打つ。
今にも内臓を吐き出しそうにうめきながら、魔王は私を呼んだ。
「貴様は試験だ」
また情へ訴えようという、みっともない言葉かと思えば違った。
「私が魔神へ至るに相応しいか、天が与えた城塞である」
試験、そして城塞。
魔導学院の花形試験のことを指しているのか。なぜ今、そんな話を始めたのか。
圧倒的に優位に立っているが、嫌な予感がしてきた。
魔王が振るう左手を払いながら、その頬に肘打ちを打つ。
肉体保護は万能ではない。眼球や睾丸のように元々が柔らかい箇所。それらの保護にも限界がある。口の中はズタズタなのだろう。
「ならばその城塞、今度こそ崩してみせよう」
吐き出す血と共に、魔王はそう言った。
魔王の目が変わった。
どうこの状態を切り抜けようか苦しんでいたそれから、何かの決意をしたものだ。
圧倒的な優勢が、なぜか不利に思えてしまうほどの怖気。
私は中指だけを立てると、人体の急所の一つでもあるへそへと突き刺した。
「おぉ……がぁ!」
魔王を掴んでから二番目に大きい苦しみの声。
丸めるように前のめりになる魔王。
そう、丸めるように。そのまま魔王は丸まったのだ。
手首を掴まれたまま顔を伏せ、体育座りのような形。立ち上がらせようにも怖いことから目を逸らす子供のように、右手で頭だけを守りながらその体勢は崩さない。
何度も頭部を打ち付ける。だが魔王はありのままそれを受け入れる。
急所として隠れていないこめかみを殴りつけてもダメだ。悲鳴だけを漏らし、そのポーズは動かない。
ならば今度こそ鼓膜の向こう側を貫き、その奥の器官を破壊せんと右腕を振り上げた。
「必要なのは……全てを受け入れる覚悟だ」
魔王が苦しげにそう呟くと、周囲一体は光に包まれた。
青天の霹靂か。そう言わんばかりの稲妻が、私の頭上に降り注いだ。
それは周囲一体を覆う、地を焼くほどの稲妻である。私だけではなく、魔王もその範囲からは逃げられない。
従来の肉体保護では耐えられぬ稲妻。ただし私の肉体保護は、軽いやけど程度で耐えられる。重症まではいかない。
だからといって肉体保護だけでは、焼かれる痛みまでは無視できない。できないからこそ、その苦痛を取り除く術式を持っている。
脳内麻薬の分泌である。
触覚を失わず、かつ肉体的苦痛だけを取り除くそれを、私は術式として完成させていた。ただし発動までに時間はかかる。持続時間もその時の体調によって変わる、不安定な魔法だ。
狂戦士のように戦うのなら、それこそ短期決戦。
痛みを取り戻してしまえば、今までのように戦えない。
今はまだ持続している。だから肌を焼かれる苦しみを無視できる。
ただし、稲妻による肉体的反射の痙攣が、魔王の手首を解放してしまった。
魔王もその代償は安くない。魔力障壁と他の魔法を平行することは可能でも、どちらかが疎かになる。
自らの稲妻によって魔力障壁は打ち破られ、肉体的ダメージを負っている。
距離は離れていない。すぐに踏み込めば問題ない。
魔王の剣は驚異ではない。
瞬間的に発動できる程度の魔法ならば全て受け止められる。
優位はこちらが上。状況はまったく変わっていない。
「苦痛を厭わぬ……」
魔王は剣を捨てた。
両手は私ではなく、自らの腹部に向ける。
「覚悟である」
瞬間、魔王は爆発した。
周囲一体に立ち込める煙が魔王の姿を隠す。
なぜ、自爆みたいな真似を。そう思った瞬間、その思惑に気がついた。
魔王は自らの魔法の爆風で、自らの身体を吹き飛ばしたのだ。私から大きな距離を取るために。
気づいた時には既に遅かった。
魔王を完全に見失い、踏み込むことができないでいる。
やられた。まさかこんな方法で私との距離を開けるなんて。
逃げられた。
ギルベルトの身体を自由に操る魔王。あと一歩の所まで追い詰めたのに逃してしまった。
私はテレーシアへ約束したのだ。
あの娘が奪われた大切な物を取り返すと。このまま逃げられたなら、それは二度と返ってこない。
どこへ逃げた。宝物庫の中をまだ狙うか? それとも今回は諦め、あの遺産だけを持って身を隠すか?
魔王の選択肢は必ずその二つだけ。
そう思った、その時だった。
「クリスティーナ・フォン・ラインフェルト」
魔王の声がした。
それは上からでもなく、後ろからでもなく、立ち込める煙の向こう側から。
煙が今、晴れようとしている。
「私は貴様に教えられた」
晴れた煙の向こう側にそれはいた。逃げるという選択をしていたと思った魔王がいたのだ。
「誰もが逃げたくなる苦痛。いかに苦痛を避けながら相手に勝つか。私はいつだってそれだけを考えて、今日まで戦ってきた。だがそれではいけないこともあると知った」
右の目は光を失い、左耳は聞こえていないはず。
私の度重なる拳で身体に残るダメージ。身体は自分の雷に焼かれ、今もその焼かれた苦しみが残っているはずだ。
「苦痛から逃げてはならない。苦痛を受け入れるのも時には必要だ。その覚悟さえあの時あれば、英雄など誕生せず、私は魔神へと至っていたかもしれない」
なのに魔王は堂々と立っている。
逃げることもなく、臆することなく、ただ真っ直ぐと私を見据えている。あれだけ痛めつけたにも関わらず、その目には憎しみがない。
「私はまた一つ、成長した。貴様のおかげだ」
そう言うと魔王は、何かを投げつけてきた。
大きな飴玉のような何か。
この夜に溶け込むようなそれを落とすことなく受け取った。
「これは……?」
「今日、私が手に入れた物だ」
魔王の言葉に驚嘆し、それを見つめた。
これが魔神の遺産。今日奪われた英雄の証。
「褒美だ。今からそれは貴様の物だ」
意図がわからない。
何故これを私に。十六年間かけてようやくその手に取り戻したそれを、こんなにも簡単に返したのか。
「そして貴様の物になった上で、私はそれを今から取り戻す」
「え?」
狼狽する私に魔王はそう言った。
何がしたいのだ。一体そんなことに何の意味があるのか。
「これは私が魔神へ至るに相応しいか、天が与えた試験である」
試験。魔王はまたそんなことを言い出した。
「城塞を崩した者にこそ、真の栄光は与えられる。ならばかつて崩せずにいたその城塞を、今度こそ崩してみせよう」
この短い中で、魔王の中で何が起きたのだろうか。
「クリスティーナ・フォン・ラインフェルトを倒すことによって、私こそが栄光を手にするのに相応しいと証明してみせる」
魔王はどうやら、私をあの花形試験として見ているようだ。
城塞崩し。
私を城塞と見立てて、崩そうとしているらしい。あれを崩す者にこそ栄光は与えられる。ギルベルトが手にした栄光のように、自分も手にしてみせると。
「逃げるのならそれで構わん。だが逃がすつもりはない。私は必ず栄光を手にしてみせる」
そしてそれは、私を殺すという宣言だ。
それなら良かった。
「逃がすつもりがないのは私も同じよ。貴方からはちゃんと、奪われた物を取り返さなきゃならないもの」
「奪われた物というのなら、それがまさにそうではないか」
「あら、違うわ。私が取り戻したのは、こんなちっぽけなものではないもの」
遺産をちっぽけな物呼ばわりをしても、その顔は変わらない。なら何だとも聞いてこない。
ただ厳かに、あの試験に臨むように堂々と立つだけだ。
「さあ、試験開始というこうか」
「ええ。よーい、ドンよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます