体験生
麻吹先生に指定された時刻にオフィス加納に行くと。
「よく来たぞ伊吹。今からだが・・・」
「待って下さい。その前に聞きたい事があります」
すると麻吹先生は、
「それは後だ。聞きたければサトルの合格をもらってこい。話はそれからだ」
首根っこを引きづられるように放り込まれたのは撮影中のスタジオ。
「サトル、後は任せたぞ」
そこには五十代の後半ぐらいの男性カメラマン。
「君が伊吹君か。ツバサから聞いている。やってもらうのはアシスタントだ」
「待って下さいよ、いきなり言われても」
「君なら出来る。テルの愛弟子の君ならばな」
問答無用で現場に放り込まれエライ目に遭いました。アシスタントなんてまともにやったことが無いうえに、サトルと呼ばれる写真家の仕事の手早いこと、手早いこと。
「そこは邪魔になるだけだ」
「なにをモタモタしてる」
「止まるな、動くのだ」
ボクのおかげで現場が混乱しているのが嫌でもわかります。そんな現場を延々と六時まで。もう死ぬかと思いました。そこに麻吹先生が顔を出され、
「サトル、終わったか」
「なんとかな。さすがはテルの愛弟子だ」
そこからクルマで麻吹先生のマンションに、驚いたことに二人は夫婦なのです。そうサトルとはオフィス加納の社長である星野先生だったのです。
「なんだサトルで、わからなかったのか」
「まさかと思ったのと、歳の差が少々あって」
「わたしだって四十七だ。それほどの差ではない」
それは知識の上で知ってはいますが、どうみても親子じゃないですか。
「あははは、そのうちジジイと孫になるさ」
「それは堪忍してくれよ」
「そうなっても死ぬのは許さん。ひ孫になっても生きてもらう」
口ぶりはともかく、麻吹先生が星野先生を大切にされているのはヒシヒシと感じます。さて今日は歓迎と言うことですき焼きです。
「ところでテルって誰なのですか」
「里村輝だ。あいつが弟子入りした時にサトルがテルと呼んだものでな」
そうだった、そうだった、里村先生は星野先生の元弟子だった。本当は『ヒカル』だけどテルって呼ばれてたんだ。
「テルは優秀だった。本当ならマドカに続く五人目のプロになるはずの男だった。テルをプロに出来なかったのはサトルにも、わたしにも痛恨の失敗だ」
よほど悔しかったようです。
「テルが神藤の監督をやっているのをみて驚くと同時に喜んだぞ。そんなテルが育て上げた伊吹を受け取ったつもりだ」
「そうだよ。テルがもう一度チャンスをくれたと感謝している。この体験を活かしてくれるように期待してるよ」
でもそれより聞きたいのは、
「尾崎の事は心配するな。尾崎はわたしにとっても、マドカにとっても大事な教え子だ。そのうち会わせてやる」
そう言われても、もう少し情報が、それにどれだけミサトさんのことを知っているのでしょうか。
「尾崎は見た目とは裏腹に頑固な奴だ。頑固なくせに繊細過ぎる。尾崎が欲しいなら、そのすべてを全力で受け止められる度量が必要だ。それをこれから叩き込む」
欲しいっていきなり、そんな。ただボクは、
「そんなもの見ればわかる。誰が酔狂でオフィス加納の前に何日も張り込んだり、テルを探すために十津川まで行くものか。尾崎も良い仲間に巡り合えたと思っている」
それは、えっと、
「素直になれ。尾崎はお前に救って欲しいのだ。だからお前を選んだ。しかしお前は期待に応えられなかった」
ぐさぁ、なんてストレートな。
「お前が期待に応えられなかったのは劣等感だ。お前の得意とする写真ですら遠く及ばない劣等感だ。それを叩き直してやる」
たしかにそこはあるかもしれませんが、それだけで、
「わからんか。劣等感などそもそも抱く必要のないものだ。それでも抱いてしまうのが人間だ。克服するためには、どこか一点でも相手を越える点を見出すことだ。ここは写真スタジオだから、写真で尾崎を越えてみろ」
なんとシンプルな。
「尾崎が伊吹に何を教えようとし、何に苛立ったかもわかるようになる。今日だけでもわかるやつはわかる。どうだ」
これがミサトさんたちを育て上げた麻吹先生か。強烈な自信家であり、弟子を育てるためにはなんでもするとミサトさんは言ってました。それだけでなく、弟子として認めたら、どこまでも弟子のために力を貸すと。
ミサトさんの苛立ちはボクにも少しわかった気がします。それは写真への姿勢。一枚の写真を撮る時の執念とすれば良いのでしょうか。あれこそプロと嫌でも感じましたが、
「なかなか良く見ている。でも、まだ足りない。プロはシャッターに命を懸けている。次の写真が撮れなくなり、人生最後の一枚になっても後悔しない気概だ。尾崎は高校の時に出来ている」
そこまで。でも、そうかもしれない。ミサトさんの写真は座興で撮ったような時でさえ、文句の付けようのない作品になっていました。それに較べてボクの写真は、
「そういうことだ。尾崎も半分忘れているが、あの気概を身に着けるのに尾崎も苦労している。幾多の死ぬかと思うような修羅場を潜り抜けて、ようやく身に着けたものだ。そんな修羅場など普通は転がっていない」
ここは地獄だとか。麻吹先生と星野先生は笑いながら、
「違うよ。単なる写真スタジオだ」
聞きながらゾッとしています。ミサトさんからオフィス加納の厳しさは何度も聞かされています。あれこそ写真を目指す者の聖地だと。その日は星野先生のマンションに泊らせて頂きましたが、翌日からは仮眠室住まいです。ここはまさしく監獄、いやタコ部屋です。逃げ出したくとも逃げられず、ひたすら飛ぶのは星野先生の叱責。
星野先生のアシスタントと言っても練習や遊びでやっているわけでなく、すべて本業。ボクが足を引っ張れば仕事が遅れ、
『今日はここまで、明日この続きをやる』
もう毎日がこれです。先生や他のスタッフの視線が痛いなんてものじゃありません。地獄の釜の底でのたうち回るとはこういう事を指すのではないでしょうか。朝が来るのが怖かった、目覚めてしまえば、また地獄がボクに訪れます。そして宣告されるのは、
『今日はここまで、明日この続きをやる』
これを逃れるには、ボクが現場の足を少しでも引っ張らないようにするだけです。他のスタッフを見ていると、星野先生のわずかな動きに対応しているのだけはわかります。次に星野先生がどう動き、何を狙おうとしているかを読んでいるはずです。
ボクは星野先生の動きに全神経を集中させました。自分のあらゆる経験を総動員して、次をどう動き、どう撮るかを予測しようとしました。これだって、最初はなかなか当たらず、
「なにしてるんだ、そっちじゃない」
それでも集中すれば段々と読めるようになり、当たる確率が増えていきます。ただし物凄い集中力が必要です。少しでも雑念が入ると、
「伊吹、何度言ったらわかるのだ。仕事中ぐらい集中できて当然だ」
見透かすように叱責の嵐が。これをミサトさんは耐えぬいてクリアした事になります。やっと心の底からわかった気がします。ミサトさんがボクに求めた物が。
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