不思議なバイト
ミサトも学生だからバイトやってる。生活費を入れるほど殊勝じゃないけど、自分の小遣いぐらいは稼ぎたいし、三年になれば下宿したいのもあるから、そのための貯金のためにもやってる。
バイトでも雇う方は来るのを期待してるから、そうは安易に休めないのだけど、麻吹先生はムチャクチャだった。だってだよ、いきなり夕方に電話がかかって来て、
「明日の朝八時にオフィスに来い。しばらく泊りだ」
「あのぉ、学校が・・・」
「メシも宿も用意させとく」
「でもバイトが・・・」
「ああオフィスのバイトだ。他があるなら断れ」
「ガチャン」
お~い、人の話を聞け。一方的に用件だけ話して切るとは社会人として非常識だぞ。もっとも麻吹先生に常識を持ちだすだけ無駄な気もするけど。掛け値なしにイイ人だし、ミサトの事を心配してくれるのは親以上かもしれないけど、麻吹先生の頭の中にはホントに写真しかないのよね。
写真を中心に世界が回ってるから、それ以外のことは取るに足りない些事って扱いだもの。あそこまでよく割り切れると感心するぐらいだよ。麻吹先生の旦那さんは星野先生だけど個人的に尊敬する。どんな夫婦生活を送ってるんだろ。
しかたがないからオフィスに出かけることにしたけど、うちの親も、うちの親だよ。
「あのぉ、麻吹先生からしばらく泊りで来いと言われたんだけど」
「あらそう、しばらく食費が浮くから助かるわ」
そこに焦点を合わせるな。
「なんなら夏休みいっぱいでもかまへんよ」
そんなことをすれば、去年の前期試験の二の舞になるだろうが、
「そんなに心配しなくても、去年はなんとかなったじゃない」
「そうや、なんにも心配していない」
心配してるのはミサトだよ。去年の綱渡りの進級を根拠にするな! ブツブツ言いながらオフィスに着くと、
「よく来たな。尾崎にやってもらうのはこれだ」
バサッと渡された書類。なんだ、なんだ。クリスタル化粧品の秋の新色キャンペイン、岩崎真珠の新作パンフレット、ドライスデールの秋物カタログ・・・
「これって仕事じゃないですか」
「それ以外の何物でもない」
「ミサトはプロではありません」
「だからバイトと言ったぞ」
これがバイトだって! バイトだからプロじゃないってのはおかしいだろ。
「プロもバイトをすることがある」
なにか誤魔化されてる気がするけど、
「バイト代は」
「尾崎は未経験者だから一本で我慢してくれ。慣れてくれば上げるぞ」
一本ってまさか時給百円とか言わないよね。言いだしかねないのが麻吹先生だけど、常識的には千円よね。もっともこのオフィス加納に世間の常識があればの話だけど。バイトでも契約書がいるからってサインして、
「振り込みにするか、手取りにするか」
小遣いがピンチだから手取りにしてもらって、
「アシスタントを付けておく」
「そんなのいるのですか?」
「いれば仕事が捗る。それとアシスタントを使いこなすのもバイトのうちだ」
いつもは泉先生のアシスタントなんだって。今は育休中だからミサトに付いてくれるらしい。それにしてもアシスタントはやった事はあるけど、使ったことがないから困ったな。
「今日は尾崎も初日だから、まず慣れろ」
麻吹先生にしては優しいな。
「今日は一本だけでイイぞ、それと後でマドカがチェックしてくれる。本番は明日からだ」
ぎょぇぇぇ、いつもの麻吹流だ。それだけ言って去っていくな。アシスタントの使い方の基本ぐらい教えて行け。せめてアシスタントの紹介ぐらいしろよな。まずは自己紹介よね。
「あのぉ、西宮学院大二年の・・・」
そしたら、
「尾崎先生よろしくお願いします」
ミサトが何にも言わないのに次々とセットアップが見る見る進行。要所要所で、
「尾崎先生、ここはこれで宜しいですか」
「ここはこんな感じでスタートさせて頂きます」
「照明はこれぐらいからで」
さすがはオフィス加納のアシスタントだ。それこそミサトが構えただけで、素早く動いて行くのよね。
「もうちょっと右手よりに光を」
「それ眩しすぎる」
「ちょっと風欲しい」
なんかエライ写真家の先生にでもなったみたい。とっても撮りやすいのよね。麻吹先生が何も言わない訳だ。夢中で午前中は撮りまくって昼休憩のロケ弁。
「さすがですね。泉先生はいつもこんな感じなのですか」
「アカネ先生は・・・」
この三倍ぐらいのペースで撮るって聞いて驚いた。そのペースに合わすには、指示を聞いてから動くのじゃ間に合わなくて、泉先生の動きの先を常に読んで動くのだって。言われてみれば新田先生の時もそうだったし、麻吹先生もそうだった。
そもそも撮影指示なんて殆どしないのよね。する時はおそらく、いつもと違う撮り方をする時のみの気がする。それにしても、おっそろしいほど良く出来たスタッフだよ。
「私たちもだいぶ慣れてきましたから、尾崎先生もペースを上げてもらって良いですよ」
うん、上げられそう。アシスタントがいるって、こんなに撮りやすいんだ。午後も嬉しくなって撮りまくってた。これがプロの仕事、プロの現場かもしれない。ミサトの思う通りの写真が撮れたと思う。問題は実はここから、そう、新田先生のチェック。八階の娯楽室で待ってたら、
「マドカの撮影が長引いてるから、わたしが見る」
六階の麻吹先生の部屋でチェック。さ~て、これから指摘の雨が降ってくると覚悟してたんだけど、
「尾崎はどれを選ぶ」
「えっと、これとこれと・・・」
麻吹先生はちょっと考えられてから、
「そうだな、これが良いだろう。お仕事ごくろうさん」
えっ、これで終りなの。それからミサトを連れて、夕食にあの寿司屋じゃなかったけど、串カツ屋さん。ここも美味しいのよね。食べているうちに新田先生も合流。
「マドカ見てみろ」
「期待以上ですね」
「あの経験は辛かったろうが、ちゃんと写真に活かせてる。もう言うことはない。尾崎の腕は本物だ」
新田先生も嬉しそう。
「それにしてアシスタントの方々は凄いですね」
そこから麻吹先生は今日の撮影の様子をあれこれ聞いて、
「マドカ、あいつら遊んでたな」
「初日ですから、それぐらいは」
ここからは写真家の心得みたいな話になり、写真スタジオ、とくに現場では写真家は帝王と思えって。
「スタジオの目的は売れる写真を撮る事のみだ。それが売れればゼニになり、給料に化ける。それを撮るカメラマンの要望は絶対だ。それこそ、前の家が邪魔なら撤去するぐらいの心構えでなければならない」
家は大げさとして、現場で一番良くないのは妥協だって。欲しい撮影条件があれば、それを実現するためにあらゆる努力を惜しんではいけないんだって。
「たとえばだ。尾崎のこの写真。よくまとめているが・・・」
そうだった。もうちょっと右に寄りたかったけど、そうするには・・・
「だと思った。あのセットであのスタジオではそうなる。でもな、それでも撮りたければ、セットごと左に移すのだ」
「そんなことをしたら手間が・・・」
麻吹先生はニヤッと笑って、
「言えばやったよ。アカネなら日常茶飯事のことだ。だから今日のスタッフは遊んでいたようなものだと言ったのだ。わかるか尾崎、とくにスタジオ撮影ではセットに合わせて撮っていたら限界がある。どんなセットでも動かせないものはない」
そこからミサトの写真のもっと出来た事を次々に指摘して、
「アシスタントの仕事はカメラマンに良い写真を撮らせることだ。その写真が売れてゼニになり自分たちの給料になる。それがわかっていないアシスタントはオフィスにはいらない。明日から遠慮なく指示しろ。あいつらは動くよ」
「なにしろアカネ先生のアシスタントですから」
泉先生が撮影時にどれだけの要求をしているか想像しただけで怖くなりそうだった。前に壁をぶち抜いてしまったって言うのよね。
「前のビルは狭かったからな。スタジオも少なくて苦労してた」
泉先生は小スタジオと言われた小部屋で撮影していたそうだけど、壁を壊して部屋を広げてしまったそう。
「石膏ボードの壁だったから壊すのは簡単だよ」
あのねぇ、そういう問題じゃ。
「それを言えばマドカも天井をぶち破ったな」
「ええ、少し高さが必要でして・・・」
虫も殺さない顔してる新田先生まで。他にも火が欲しいって言ってスプリンクラーが作動し、火災警報が出て大騒ぎもあったそうだけど
「あれもあったが、嵐の雨が欲しいとサトルはわざとスプリンクラーを作動させたな」
「タケシさんだって象をスタジオに持ちこもうとして・・・」
まったくフォトグラファーって人種はトンデモないもんだ。
「まあ、追い追い覚えてくれ」
それとだけど、今日はホテルに泊まるんだって。
「当たり前だ。尾崎はバイトとはいえプロ扱いだ。仮眠室なんかに泊らせられるか。それと六階に個室を取ってあるから、明日から使え。これがカギだ」
六階の個室って専属契約プロのための、
「オフィスは実力主義だ。とくにプロとそれ以外はまったく扱いが違うと思え。だから帝王だ。ただ帝王はカネを稼いでこそ帝王扱いされる。そうでなくなれば追い出されるだけだ」
おっとろしくドライでシビア。
「当たり前だ。尾崎はカネを稼げるプロだから個室も当然必要だ。期待してるぞ」
「そこまでしてミサトを使う必要はあるのですか」
「ああ、アカネが休んでいる分の仕事が溜まって困っていてな」
ええんかいな。あの渋茶のアカネ先生の穴埋めがこんなバイトで。
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