第50話 ターゲットデビュー

 木曜日の今日は、真菜と会う約束はしていない様だ。


 ラブホテルを出るともうすぐ午後五時だ。夕食はどこが良いか聞くと「八たん」が良いと答えた。牛タン焼が相当お気に召したようだ。


「八たん」に着くとまだお客さんがいない。二人はカウンター席の角に座った。牛タン焼とトマトサラダを注文した。若女将は笑顔で対応してくれる。

 

(この女の子、娘さんかしら?)と若女将。

 その心の声を咲は聞き逃さなかった。

 

「嫁です!!」

 

「えっ?」

 

「あたしはこの人の嫁です!今も子作りに励んで来たばかりなのです。いかがわしい関係では無いのです。」


立ち上がり俺を指差し大声で話す咲。

 

「龍さん、いつ結婚したの?可愛くて若くて良いお嫁さんね。」と若女将。

 俺は只々鯉の様に口をパクパクさせるしかない。

 

「失礼しました。牛タン焼を多く焼いたので機嫌を直してね。」の若女将の言葉に機嫌をなおす咲。俺が芋焼酎のロックを、咲はオレンジジュースを頼み乾杯した。

 

(ノン、ここからは心で会話しよう。)

 

「ん?どうした?」


(ちょっとしたパフォーマンスだよ。ポセイドンプロジェクトが始動した今、あたしとノンは、言わばアダムとイブなの。詳しい事は後々分かってくるから。)

 

(咲の話は難しいからな。これで良いのかな?)

 

(良いよ。それじゃあ、あたしが英語で喋るから指を一本立てたらイエス、二本立てたらノーと心で答えて。そして最後にあたしがサンキューと言ったら終わりだから普通に声を出して話して良いよ。いくよ。)

 

 咲が英語で喋り出した。勿論、心の声で。するとどうだろう。俺と咲のやり取りに大勢の反応がどよめきとなり聴こえるのだ。俺は咲の合図通りイエスとノーを答えた。三十分経った時、咲のサンキューの声が聴こえた。

 

 大勢の拍手が聴こえ無音になった。どうやら終わった様だ。

 

(ノン、最初にしては上出来だったよ。牛タン焼のおかげでリラックスして喋れたし。今のはね、世界中に散らばるポセイドンプロジェクトの参加者達への初お披露目だったの。今日のメッセージでターゲットの「N」が男性だと宣言した事になるの。今日はもう終わりだから普通に喋ろう。)

 

 俺の携帯が鳴ると真菜からだ。

 

「ノンさん、凄いです!いよいよ世界デビューですね。わたしも全力で協力しますから力を抜いて頑張らない様にして下さい。」

 

「真菜も聴いていたんだね。俺には何の事だかさっぱり分からないよ。とにかく生き続けるよ。」携帯を切った。

 

そうだ、俺はただ生きていれば良いのだ。

 

「なあ咲、病院を退院した後なんだけど俺タンポポを辞めるよ。ちょっと嫌な事があってさ。」

 

「ん?何かあったの?」

 

「うん、ちょっと嫌な職員が出来ちゃってさ。良い人なんだけど作業の指示を出す時、無意識に『さっき言ったよね!』って怒鳴るんだよね。雰囲気が悪くなって分からない事も聞けない状態でまた失敗するの悪循環でさ。まるで自分が馬鹿になった気分になるんだ。俺自身仕事が上手くない自覚があるのに言われると鬱になるんだよね。自殺未遂した一つの要因でもあるし、もう辞めようかと。」

 

 俺の言葉に咲の顔色が変わった。

 

「ノン!そういうのもっと早く言おうよ。うぅ、思い出すと泣けてくる。ノンが仮死状態であたしが見つけた時どんだけ驚いた事か。そんな作業所行かなくて良いから。いざとなったらあたしが食べさせてあげる。何も心配しなくて良いから。」

 

 咲の言葉に黙ってうなずくしかない。〆にテールスープと麦ご飯を注文した。咲が食べきれないと言うので麦ご飯を半分貰った。食事を済ませ、咲がお会計をした。


 俺達が帰る頃には店は満席になっていた。時間は午後七時を過ぎた所だ。さすが繫盛店、若女将にまた来るねと言い外へ出た。


 咲が手をつないできた。

「へへっ、嫁ですって言った時、気分良かったよ。」

 と目をトロンとさせ幸せそうだ。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る