75話 似顔絵を描かせてください

 二月になり、学校に行かなくなって数日。

 俺は専門学校のテキストに目を通して過ごした。


 ずっと当たり前だった登校がなくなるというのは不思議な感覚だ。いつものように起きて、そうか、こんなに早く起きる必要はないんだと思う。


 また多島さんのところでアルバイトさせてもらおうかとも考えている。自由時間が多すぎてやることが思いつかないのだ。


 スマホが振動した。五十鈴からメッセージだ。


『今日の夕方、先輩の家に寄ってもいいですか?』


 即座に「大歓迎」と返した。笑顔のスタンプが表示された。

 学校終わりの五十鈴を誘うのは難しい。その日の体調が読めないから。しかし向こうから来てくれるのならなにも迷うことはない。

 俺は部屋を片づけることにした。


     †


「お邪魔します」


 夕方五時過ぎ。制服のまま五十鈴がやってきた。


「スクールバッグ、置いてくればよかったのに」

「いえ、いいんです。先輩のご両親はもうすぐ帰ってくるんですか?」

「母さんは六時くらい。父さんは七時過ぎだ」

「なるほど」

「いたほうが安心するよな」

「なにを不安だと思うんですか?」

「だから……俺が暴走するみたいな……」

「するんですか?」

「いや、しない。大丈夫」

「だったら、わざわざそんなこと言わないでください。自分を傷つけるだけですよ?」


 俺はうなずいた。どうも余計なことを考えすぎる。


「今日は先輩のお部屋に入らせていただきたいんです」

「そんな気はした。こっちだ」


 五十鈴を先導して階段を上がる。俺の部屋は二階の和室だ。布団は綺麗に畳み、増えた私服もまとめてある。五十鈴はまず机を見た。


「専門学校の本ですね。毎日お勉強しているんですか?」

「一応な。取り残されるのは嫌だから」

「真面目ですねえ」

「それが取り柄なんでな。それより、なにする? 遊ぶものとかあんまりないんだが」

「実はやりたいことがあります」


 五十鈴はスクールバッグから大きめの本らしきものを取り出した。


「このクロッキー帳に先輩の似顔絵を描きたいと思いまして」

「俺を描くのか?」

「お願いします。思い立ったらすぐ実行したくてウズウズしていたんです」

「じゃあ、やるか」

「やったぁ! では先輩、少し横を向いてください」

「斜めから描くってこと?」

「はい。わたし、キャラを描く時って正面か真横に頼りがちなんです。なので自分を鍛える意味でも、違った角度で描きたくて」

「だったら、いくらでも俺で練習してくれ。斜めはやりやすいし」

「なにがやりやすいんです?」


 余計なことを言ってしまった……。


「だ、だから、ずっと五十鈴と真正面から向き合ってたら……照れるだろ」

「ふふっ、かわいいですね」

「お、お前は恥ずかしくないのかよ!?」

「わたしは平気ですよ」

「じゃあ始める前に試してみようぜ」

「えっ」

「にらめっこな」

「う、うぅ」


 急に五十鈴が小さくなった。じっと互いの顔を見つめ合う。俺から持ちかけたくせに、すぐ顔が熱くなるのを感じた。が、五十鈴の頬も朱に染まっていくのがわかった。


「ほ、ほら、同じくらい弱い」

「くぅ、み、認めます。じっと見つめ合うのは恥ずかしいです。これでいいですか?」

「正直でよろしい」


 五十鈴は赤くなった顔でクロッキー帳を広げた。俺は彼女に指示されて、低い台を持ってくる。そこに左腕を乗せ、やや横向きになる。この体勢をしばらく維持するのだ。


「肘を突いている先輩、どことなくアンニュイな雰囲気でいいですね」

「アンニュイってどういう意味だ?」

「物憂げということです」

「物憂げの意味は?」

「もー、雰囲気を壊さないでくださいよー!」


 五十鈴はシャーペンを走らせながら、「あとで検索してください」とつぶやいた。俺は反省した。確かに今のは、静かな雰囲気を台無しにしてしまった。


「編集さんとは、その後も細かくやりとりしているんです」


 五十鈴が話す。コンテストの主催出版社の編集さんと会った話は学校で聞いていた。

 公式サイトに作品が掲載され、賞金が出ること。今後は出版物の表紙や挿絵の仕事を依頼することがあるかもしれないという話もあったようだ。


「今度、声鳥社せいちょうしゃさんから文芸作品を出す新人小説家さんがいて、表紙は写真じゃなくてイラストにするそうなんです。何人かイラストレーターの候補がいて、わたしの絵も作家さんに提案してみるつもりだと」

「じゃ、もう仕事が来るかもしれないのか?」

「かもしれないというお話です。その作家さんの好みに合わなければ駄目でしょうし」

「文芸作品って聞くと難しそうに思えるんだが。五十鈴の絵と合うのかな」

「もしわたしに決まったら、人物は影だけにして風景メインで描いてもらいたいと言われました」

「あ、いいなそれ。風景はめちゃくちゃ褒められたんだもんな」

「ええ。わたしもそっちのほうが得意です」


 この展開の早さ。もしかしたら、五十鈴は向こうの編集部に気に入られたのかもしれないな。女子高生イラストレーターってだけで話題性もありそうだし……。


「不安になってきた」

「え?」

「五十鈴が出版業界に染まったら、俺のこと……」

「ありえません」


 きっぱりとした返事。


「わたしは恭介先輩だけを見ています。仮に言い寄られても絶対に拒否します。この言葉を信じてください」


 あまりにもはっきりした言い方に、俺の心はがっちり掴まれていた。

 五十鈴は俺が振り向く前からずっと追いかけてきてくれた。その心には一本の芯が、確かに通っている。


「ありがとう。これで弱気になるなんて俺もまだまだだな。こんなこと言わないように強くなるよ」

「期待しています。――はい、できました」

「早いな」

「肖像画みたいに描き込むわけではないので」


 俺は肘を楽にする。

 台の上に五十鈴がクロッキー帳を広げた。


 そこには、本当に斜めの角度から描かれた俺の顔があった。ちょっと漫画寄りのタッチだが、間違いなく俺だとわかる。


 なにより目と口元。

 なにか深く考え込んでいるようで、少しさみしげにも見える、言葉にしづらい表情。


「これがアンニュイか」

「伝わりました?」


 五十鈴が笑った。


「授業が終わって、でも専門学校はまだ始まらなくて、心が落ち着かないんでしょう。先輩はそんな様子に見えました」

「うまく切り取られたな」

「切り出せましたか。よかった」


 五十鈴は台を回り込んで、俺の横に来る。


「不安な時は先輩のほうから呼んでください。わたしはいつでも来ます。もちろん、無理のない範囲で」

「そうだな。たまには俺からメッセージ送るか」

「お待ちしています」


 無理しない、と付け加えるあたりが五十鈴らしかった。

 少しずつ積極的になってみるか。

 そんなことを思った。


「その絵、五十鈴が持ってるんだぞ」

「先輩にプレゼントしようと思ったんですが」


 俺は描かれた自分の顔に右手を乗せ、グッと力を込めた。


「俺のエネルギーを込めておいたから、絵を描く時のお守りにするといいぞ」


 五十鈴はぽかんとしていたが、やがて嬉しそうに線を指でなぞった。


「そういうことなら、守っていただきましょう」

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