41話 初めてのアルバイト

 さすがに当日はまずいかなと思ったが、案外なんとかなるものだ。

 俺はバスを乗り継いで、多島スポーツ用品店の前にやってきた。

 深呼吸をして、裏口へ回り込む。


「お、おはようございます」

「やあ、ようこそ」


 エプロンにバンダナ姿の多島さんが気さくに挨拶してくれた。

 店内に入ると、蒸し暑かった夏の空気が去っていった。夜中に降った雨のせいで、今日は晴れているがもうもうとしている。


「恭介君が本気になってくれるとは嬉しいよ」

「自分にやれることを探そうと思ったので」

「前向きに考えられるのはいいことさ。じゃ、開店までに床の掃除をお願いしようかな。棚は腕がしんどいでしょ」

「そこまできつくないですよ」

「ま、初日だからね。今日は床」

「はい」


 俺はモップで床掃除を始めた。

 棚の隙間を縫ってすいすいとかけていく。ところどころにマットが敷いてあるので、めくってモップを入れる。


「意外に手慣れてる感じがするね」

「野球部でモップがけはやってました。トイレとかミーティングルームは部員で掃除するので」

「エースでもやるんだ」

「俺はできるだけやってました。そういうので甘やかされたくなかったんです」

「まさかこんな形で活きるとはね」


 まったくだ。

 部室周辺の掃き掃除なんかをやっていると、後輩たちが「エースなんですからなるべく休んでください」とほうきを奪いに来たものだが、俺は抵抗して渡さなかった。なので一部では「絶対に掃除したい新海」と話題にされていたとか。


「よし、いい感じだ」


 掃除が終わり、多島さんが店のシャッターを開けた。そこに誰かが待っているということもなく、店内は小さなBGMが流れているだけだった。


「コーヒーいる?」

「いいんですか?」

「もちろん。お昼くらいまでは退屈だからね」


 多島さんが奥の冷蔵庫からアイスコーヒーのパックを出して、二人分のコップに注いだ。


「でも、急にバイトしてみたいなんてなにかあったのかい? 例の彼女に勧められたのかな」

「いえ、これは自分の気持ちなんです」


 ほう、と多島さんは興味ありげな反応をする。


「俺、大学でやっていける自信がなくて、会社でも大勢の中で動けるか不安なんです。他人と話すのが死ぬほど苦手で」

「そうなのか。ここにいる時の恭介君はいつも普通に仲間と話していたように見えたが」

「野球の話だけは大丈夫でした。でも、関係ない話題になると急にしゃべれなくなったりして……」

「で、スポーツ店ならもしかしたらって思ったのか」

「はい」


 俺は自分の知らない話題に食いつくのが下手だ。しかし、スポーツの話だけならついていける。だから、そういう店で働けばいいのではないか。安直だが、そんな発想が浮かんできたのだ。


 五十鈴がどういう反応をするかはわからないが……。


     †


 お昼を回ってもお客さんは現れなかった。


「恭介君は二階を見るお客さんを相手してくれ。二階は野球用具ばかりだからやりやすいだろう」

「はい、頑張ります」

「もちろん僕も見てるから、まずは自分の思ったとおりにやってみるといい」


 俺はうなずいた。

 母さんに急遽作ってもらった弁当を食べて、午後からは二階のイスに座っていた。


 グラブ、バット、スパイク、バッティンググローブ……。いろんな道具がある。ああ、野球やりたいなあ。


 ぼんやりしていると、足音がした。

 たぶん俺と同い年くらいの男子が上がってきた。頭は丸坊主。スポーツバッグを背負っている。バッグに刻まれた校名は――裾花すそばな商業。公立の強豪校だ。


 お客さんは壁の近くに置かれている、重量の違うボールを手に取った。いろいろ比べている。


「すいません、このボールなんですけど」


 お客さんが振り返ってこっちを見た。俺はすばやく近づく。


「なんでしょう」

「ヘビーボールって使って効果ありますかね?」

「個人差はありますけど、プロでも使っている選手はいますから役に立つと思いますよ。球速を上げたいんですか?」

「まあ、そうっすね」

「だったら一度使ってみてください。自分もそれで上がりましたから」

「あ、野球やってた人なんですね」

「引退したところです」

「え、じゃあ高三? どこの野球部ですか?」

「長野清明です」

「ん……?」


 相手が俺の顔をまじまじと見つめてきた。


「もしかして、新海選手ですか?」

「……わかるんですか?」

「よくうちと練習試合しましたよね。だから顔知ってます。ここでバイトしてるんですか?」

「ええまあ。腕を故障して野球ができなくなったので、サポートに回ろうかと思って」

「あ、怪我の話は聞きました。えーと、じゃあ新海さんもヘビーボール使ってたんですね」

「そうですね。そこに走り込みとか加えて、球速もどんどん上がりました」

「最速はどのくらいだったんですか?」

「マックスは148キロまで」

「うおお、マジっすか。もったいない……」


 相手はヘビーボールを手に取った。


「これ、使ってみます。俺が上手くなって清明相手に無双しても許してくださいよ」


 俺は笑った。


「うちにも頼れる後輩がいるんで、油断しないようにしてください」


 ちなみに、と俺は横のボールを手に取る。


「これは発泡スチロールでできたボールです。これでキャッチボールをすると、腕が綺麗に振れて、キレがいい時のフォームを体に覚えさせることができるんです。重い、軽い、試合球の三つを交互に使うとけっこう効果が出ますよ」

「なるほど。実践してた人が言うと説得力ありますね。じゃ、それも一緒に買おうかな」


 結局、この男子は二つのトレーニングボールを買って帰っていった。


「やっぱり、実際にやっていた人ならではの提案ができるね、恭介君は」


 多島さんが嬉しそうに言った。


「うちのお客さんは野球やってる子が一番多いから、恭介君の知識は武器になる。見ていたけど落ち着いたものだったじゃないか」

「うまくやれてました?」

「もう完璧」


 俺はホッとした。

 その後も二回ほど、野球道具の説明をした。どちらも失敗なく対応できたと思う。


 夕方の六時になると、多島さんは店のシャッターを閉めた。


「ご苦労様。いやあ、想像以上にいい戦力だったよ。これからも来てくれると嬉しいな」

「また来ていいんですか」

「大歓迎さ。ただ、次は前日までに連絡してね」

「はい。よろしくお願いします」


 人生初のアルバイトは波乱なく終えることができた。

 ちょっとだけ、自分に自信が持てた気がする。


     †


「アルバイト、お疲れさまでした」

「なんで知ってるんだよ」


 その日の夜、五十鈴から電話がかかってきたと思ったら、いきなりそんなことを言われた。


「先日、多島さんと連絡先を交換しておいたんです。そしたら教えていただけました」


 多島さん……。


「恭介先輩が新しいことに挑戦するようになったのはいいことだと思います。やってみてどうでした?」

「やっぱり、スポーツの話なら初対面の人ともできる」

「それなら、先輩の天職はそこなのかもしれませんよ」

「これから何回か使ってもらう。それで確かめたいんだ」

「応援してます」

「アルバイトに応援なんて必要ないだろう」

「ファイトですよ、せんぱいっ」

「……」


 五十鈴がいつになくかわいらしい声で言ってきたので、俺はとっさの返事ができなかった。


「どうしました?」

「きゅ、急にかわいい声を出すな」

「ほほーん」

「な、なんだよ」

「つまり普段のわたしの声はかわいくないんですね」


 しまった、またやられた……!


「も、もちろん普段の五十鈴の声もかわいいぞ」

「好きですか?」

「す、好き」

「もっと丁寧に言ってほしいです」

「ぐっ……」


 顔が熱くなる。


「お、俺は五十鈴の声がかわいくて大好きだ」

「えへへ。嬉しいな」


 すっ、と息を吸う音。


「わたしも恭介先輩の声、好きですよ」


 ひそひそ声で言われて、電話越しなのにゾクゾクしてしまった。


「な、なんでそんな言い方をする!?」

「いや……ですか?」

「なんで溜める!?」

「あははっ、先輩って本当に面白いですね。リアクションが大きくて楽しいです」

「彼氏で遊ぶな」

「時々にします」

「自重を覚えてくれ」

「善処します」


 流れるようにかわされた。


「でも、先輩のアルバイトは本気で応援していますからね。頑張ってください」

「お、おう。バイト代で今度コーヒー飲みに行こう」

「いいですね。またNAMIKIに行きましょうか」


 予定が一つ埋まった。いいことだ。


「ところで、アルバイトの日は教えてくださいね?」

「やめとく」

「なぜですか」

「お前、俺をからかいに来るつもりだろ」

「いけませんか?」

「開き直るな! それだけは勘弁してくれ!」

「はぁーい。じゃあ、遠くから失敗しないように祈っています。とりあえず今日のところはこれで」

「お、おう」


 一気にぐったりしてしまった……。


「先輩、お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいね」

「……ありがとう」


 でも、こうやって彼女に頑張りをねぎらってもらえるのは、やっぱり嬉しい。

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