20話 初めての美容室

 土曜日。

 今日は五十鈴と会うことになっている。


「じゃあ、これね」

「ありがとう、母さん」


 出かけるまで、俺は何度もお礼を言った。

 母さんが、美容室代と食事代をくれたのだ。五十鈴におごってもらってばかりでは駄目だ。かといってまだバイトができる体でもない。いつかできるようになったらちゃんと返したい。


     †


「お疲れさまです、恭介先輩」

「今日はよろしく」


 俺たちは東郵便局の近くで合流した。

 五十鈴は大河原さんの運転する黒い高級車で来ていた。


 今日は水色のワンピース。スカートに白いフリルがついていてかわいらしい。白いカチューシャと合わせて、前に見た時とはまた違ったまぶしさを感じる。


「では、まずは美容室に行きましょう。お食事はそのあとですね」

「緊張してきた」

「一発で説明できるようにしますから大丈夫です」

「と言うと?」


 五十鈴は「じゃーん」と雑誌を見せた。ヘアスタイルのカタログだ。


「美容師さんにこういう感じで、と言えばその通りにやってくれます」

「な、なるほど」


 髪が伸びると手間がかかるんだな。丸刈りなら床屋に入って「1ミリで」と言うだけでバリカンをかけてくれたものだが。


 広い通りから細い通りへと車は走り、やがて右手にハサミのマークがついた看板が見えてきた。


「あそこはわたしがいつもお世話になっているところなんです」

「それってかなりおしゃれな店だろ。男も入れるのか?」

「男性もけっこう見かけますよ。安心してください」


 みんな私服からキマってるんだろうな。俺はこのまえ五十鈴に買ってもらった服一式である。他にないんだから仕方ない。着回しできなくて大変ですよ、と五十鈴に言われたがその通りになっている。


 駐車場に車が入った。


「五十鈴様も入るのですか?」

「いえ。やってもらわないのに入るのもおかしいですから」


 大河原さんは納得した顔だ。


「で、結局どの髪型にしてもらえばいいんだ」

「この、全体的に右に流す感じの髪型です」


 五十鈴が写真を指さす。


「先輩がおしゃれになって帰ってくる……想像するだけでドキドキします」

「イメージと違う感じになってもがっかりしないでくれよ」

「その時はむしろわたしが謝らないと。先輩の印象を大きく変えてしまうわけですから」

「美容師さん次第ってことか……」

「ここは腕のいい方がそろっているので信じましょう」

「よし」


 俺は気合いを入れ、車を出た。

 店に入ると、スタッフさんたちが一斉に「いらっしゃいませ」と挨拶してくる。俺は早くも押されていた。


「予約していた新海ですぎゃ……ですが」


 緊張のあまり噛んでしまった。

 迎えてくれたのは女性スタッフさんで、この人が俺の担当になるらしい。


「こんな感じにしてほしいんですけど……」


 俺は詰まりながら説明する。

 美容師さんはうなずき、席に案内してくれた。


「玉村さんとは仲がいいんですね」

「え?」

「玉村さんから、知り合いをお願いしたいと頼まれました」

「……」


 なぜ、当たり前のように五十鈴に任せてしまったのだろう。そこは自分でかけろよ。また情けないことになってるぞ、俺……。


「では始めますね」

「お、お願いします」


 さあ、俺のイメージはどうなるのか。

 運命の時間である――。


     †


「先輩おかえりなさい。――わああ、すごくいいですよ! 清潔感のあるかっこいい雰囲気になりました!」

「そう……」

「ど、どうしたんですか?」

「はは……」


 俺は五十鈴の横にドサッと座った。灰になりそうだった。


「せ、先輩?」

「美容師さん、いろいろ話を振ってくれたのにまったく答えられなかった……。どもるし噛むし、意味わからん返事するし、終わりすぎだろ俺……」

「ああ、なるほど。コミュ障が出てしまったんですね」

「つらい」

「せっかくかっこよくなったんですから、もっとキリッとしていてほしいんですけどねえ」

「無念だ」

「返事も短い……。深刻なダメージを受けたようですね」

「ははっ」


 俺が虚ろな目をしていると、五十鈴が苦笑した。


「わたしが憧れた恭介先輩はもっとかっこよかったはずなんですけど。でも、野球を離れればこういうこともありますか。そのためにわたしがいるんですよね」

「おい、ちょっと近くないか……あっ」


 俺は五十鈴に抱きしめられていた。

 小さな体をいっぱいに使って慰めてくれる。

 五十鈴の手が俺の背中をさする。


「野球しか知らない恭介先輩にあらゆることを教える――とてもやり甲斐があって楽しいです。初対面の人ともお話できるように、少しずつ頑張っていきましょう」

「あ、ああ」


 俺の体はものすごく熱くなっていて、うまく話せなかったことなんてもうどうでもよくなっていた。


 五十鈴が離れる。ちょっと顔が赤い。


「やりすぎちゃいました?」


 小首をかしげ、いたずらっぽく笑う。これだからこいつには勝てないのだ。


「いや、おかげでモヤモヤが消えた。ありがとう」


 おっと、これを忘れちゃいけない。


「あと、髪型自体はすごく気に入った。これを選んでくれてありがとうな」

「先輩がそう思ってくれたのなら成功ですね」


 俺たちは笑い合った。五十鈴は横を向いて、


「胃もたれするかもしれませんけど許してくださいね」


 と運転席の大河原さんに言う。


「私は気にしていませんよ。五十鈴様のやりたいようになさってください」

「キスしても見逃してくれますか?」

「なっ!?」

「い、五十鈴!?」


 大河原さんと俺は同時に叫んだ。

 待ってくれ。キスされるのか俺。そんなの耐えられないぞ。消えてなくなるかもしれん。


「なーんてね。嘘ですよ」

「だ、だよな」

「お、おどかさないでください、五十鈴様」

「二人ともドキッとしたようですね。うまくいきました」


 またしてもからかわれただけだ。こいつめ。


「だったら俺がキスしてやる」

「きゃあ! 怖い!」

「貴様ァ! 五十鈴様に乱暴を働いたら二度と表に出られん体にしてやるぞ!」

「冗談に決まってるじゃないですか! そ、そんな本気にならなくても……」

「五十鈴様に悲鳴をあげさせた貴様が悪い」

「うっ……」


 五十鈴を見ると、バックミラーに映らないようにこっそり舌を出していた。いいようにやられすぎていて悔しい。


「はいはい、大河原さん落ち着いてください」


 パチンと五十鈴が手を叩く。


「先輩の髪型も決まったことですし、次はお昼にしましょう。そのあとNAMIKIでお茶にします」


 切り替えが早い奴だ。


「じゃあ、昼飯は提案がある」

「どうぞ」

「いつも見るだけで通り過ぎるパスタの店があるんだ。どんな味が気になる」

「いいですね。そこにしましょう。大河原さんに場所を教えてあげてください」


 無事に賛成してもらえた。

 大河原さんにルートを伝えると、すぐに車が動き始めた。

 五十鈴が静かに近づいてくる。


「わたしがカルボナーラ好きって言ったからパスタを選んでくれたんですね?」

「……どうだかな」


 ふふっ、と五十鈴は小さく笑った。


「なんだかとっても嬉しいです。ありがとうございます、恭介先輩」

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